Sightsong

自縄自縛日記

安部公房『方舟さくら丸』再読

2012-04-10 01:36:12 | 思想・文学

ふと思い出して、安部公房『方舟さくら丸』(新潮社、1984年)を再読する。わたしの最も愛する小説のひとつである。

中学生のときに『壁―S・カルマ氏の犯罪』を読んでしまってからすっかり安部公房の世界に引きずり込まれてしまっていたが、このような化粧箱入りハードカバー本を気軽に買うような小遣いは、もちろんなかった。高校1年か2年生のときだから刊行から数年後のこと。同級生に、いや読みたい本があるんだけど図書館にも置いていないんだよね、などと話していると、たぶん俺の親父が文学好きだから家にあるかもしれないぞ、との信じられない言葉。そして彼は翌日本当に持ってきてくれた。期待をはるかに上回る面白さに何度も読んでしまい、なかなか返さなかった記憶がある。

その後、文庫本にもなってやはり繰り返し読んだが、数年前に古本屋で初版本を見つけ、感激して入手した(古い作品でもないから、初版の価値などないんだろうね)。結局、何度この傑作を読んだのだろう!

街くらい余裕で入るほど巨大な、既に棄てられ忘れられた石切り場。社会への適応力を欠く「もぐら」は、まるで自己の延長のように、この巨大空間の唯一の主=船長として棲息していた。彼にとって、ここは核戦争が起きても生き延びうるシェルターになるべき場所だった。来るべきその時の同乗者には「生き延びるための切符」を渡すつもりだったが、結局は、昆虫屋とテキヤの男女を闖入客として迎え入れることになってしまう。しかし、ここを知っているのは彼らだけではなかった。毎夜軍歌を合唱しながら街を掃除する老人たちの「ほうき隊」、不良少年たちの「ルート猪鍋」といった連中までも、組織的論理と殺意と友情をもって入り込んでくる。「便器」に吸い込まれた「もぐら」は、ヴァーチャルな核戦争を勃発させる。

奇妙な寓話というには、想像力が飛翔しすぎている。その一方で、この怪物的な現実世界の重力も横溢した作品である。重力を逃れ、反重力的な個人と自由をこれ以上ない形で求めた筈が、何故だか、国家という最終権力へと収斂する展開には、慄きすら感じさせられる。また、死体であろうと六価クロムであろうとすべてどこかへと流し去ってくれる「便器」というアイデアは素晴らしく、その彼岸への入り口に、女の魅力に調子を狂わされた「もぐら」の足が吸い込まれ、その痛みによって全ての幻想が無化されていくように思える。

そして、ラストに至り、現実世界は実体を失う。これは本当に怖ろしい。わかってはいても、読後しばらくは動悸が続くのだ。

さすがに勅使河原宏をもってしても映画化はできなかったであろう。あるいは、CGで石切り場を再現し、実相寺昭雄にこの世界を再現してほしかった。

●参照
安部公房の写真集