Sightsong

自縄自縛日記

森口豁『沖縄 こころの軌跡 1958~1987』

2012-04-25 23:57:32 | 沖縄

敬愛するジャーナリスト・森口豁さんによる昔のエッセイ、『沖縄 こころの軌跡 1958~1987』(マルジュ社、1987年)を読む。

1972年5月15日、沖縄の日本への施政権返還がなされた。森口さんは、ヤマトンチュでありながら、高校生のときに知った沖縄の実態にショックを受け、大学を中退して返還前の沖縄に渡り、返還直後までの15年間を、新聞記者・カメラマンとして送っている。本書は、返還前の「アメリカ世」のこと、返還後の「ヤマト世」のこと、そしてドキュメンタリストとしての体験それぞれについて書かれている。

森口さんは1970年のコザ暴動に立ち会っている。そして、1973年にバイクで国会議事堂正面扉に激突死した青年の内奥を視ようとするドキュメンタリーの取材過程において、その青年がコザ暴動において立ち上がっていたことを知る。ずっと沖縄に、権力とは逆側に、身を置いてきた者にしか見いだせない視線であるといえる。

この糸は、不幸なことに、現在までつながっている。一読して改めて驚かない訳にいかないのは、沖縄における問題が、これが書かれた当時も、現在も、根本的に変わっていないことだ。米軍基地、開発におけるヤマトゥと沖縄との非対称、「集団自決」を含めた沖縄戦の実態、やんばるの自然破壊、専ら政治に起因する構造的貧困。それらは、真っ当に認識されていても、ヤマトゥから視ようとする意思がなく、無かったことにされ、さらには歴史改竄の対象にされようとさえする。

普天間問題は鳩山問題だなどと知ったようなことを嘯く輩は、この本を虚心坦懐に読むべきだ。

メディアに対する視線も、いま読むと切実な問題意識を孕んでいたのだとわかる。

「軍備にしろ、原発にせよ、教科書にしろ、政治の側、行政の側から既成事実がどんどん積み重ねられつづけている。おかしい、そんなはずでは、そこまで時の政権に負託していないのだが・・・・・・と思っていても、国民の側はその歯止めの手段を持たない。
 (略) そうした独断的既成事実の前でマスコミが中立を装ってどうする。天秤が大きくどっちかに傾いているときに、真ん中で支えたって水平にはならない。対等な重石をもう片方にぶら下げなければならないことはいうまでもない。」

「マスコミは、とくにテレビは、右翼や左翼、政府を頂点とする政党や組織、団体に対して、もっと毅然とした態度をもつべきではないか。”団体列車”が風を切ってばく進すると、押しつぶされるのは<個>だ。大きな団体、力の強い組織の声がいつも正当だとはいえない。いや多くの場合、<個>の立場にあるものの方が、筋書のない美しい生き方をしているものだ。」

いまも続く『NNNドキュメント』において多数制作された沖縄のドキュメンタリーについては、興味深いエピソードが多い。『ひめゆり戦史・いま問う、国家と教育』(1979年)では、旧日本軍高級参謀・八原博通にインタビューを行っているが、彼はその放送後、「花も実もある放送」だという賛辞の葉書を、森口さんに送ったという(このことは、以前の上映会においても、森口さんが語っていた)。加害の側に身を置いていた者が発した言葉として、どのように受け止めればよいのか、ということだ。根底からのコミュニケーションの不毛ということなのか。

久高島を撮った『乾いた沖縄』(1973年)は、『NNNドキュメント』のシリーズのなかでも特に観たい作品だ。琉球センター・どぅたっちで不定期に森口作品の上映を行っており、先日も、ぜひこの上映をとお願いしておいた。島袋さん、本当にお願いします(読んでくれるかな)。

参照 森口豁
森口豁『毒ガスは去ったが』、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』
森口豁『アメリカ世の記憶』
森口豁『ひめゆり戦史』、『空白の戦史』
森口カフェ 沖縄の十八歳
罪は誰が負うのか― 森口豁『最後の学徒兵』
『子乞い』 鳩間島の凄絶な記録
森口豁さんのブログで紹介


ピーター・エヴァンス『Ghosts』

2012-04-25 07:00:00 | アヴァンギャルド・ジャズ

Peter Evans (tp)
Carlos Homs (p)
Tom Blancarte (b)
Jim Black (ds)
Sam Pluta (live processing)

ピーター・エヴァンス『Ghosts』(More Is More、2011年)を聴く。

のっけから、五者五様のアプローチがアンサンブルでもユニゾンでもハチャメチャでもない世界を形成して、耳を襲ってくる。ちょうどバール・フィリップスが、インプロヴァイザーは新しいストラクチャーとヴォキャブラリーを創り出し続けるんだよと言っていたことが記憶にあるが、これは、むしろ聴き手の側が新たなストラクチャーを形成しなければならないような感覚だ。

ヴォキャブラリーということで言えば、エヴァンスのトランペットは拍子抜けするほどストレートであったりするが、何故かこの音世界形成の中心にいる。ジム・ブラックの精力的で多様なドラミングも良い。

「... One to Ninety Two」は、メル・トーメが愛唱した「Chrismas Song」の変奏版。ロル・コクスヒル(サックス)、フィル・ミントン(ヴォイス)、ノエル・アクショテ(ギター)という変態3人トリオによるEP盤『Minton - Coxhill - Akchote』(Rectangle、97年録音)のアナーキーさを思い出すが、対照的に、エヴァンス盤の様相は黙ってアナーキー。「Ghost」は、「I Don't Stand a Ghost of a Chance」の変奏版。「Articulation」は、ウディ・ショウの演奏にインスパイアされたものだという。そして最後の短い「Stardust」は、短いだけになおさら光っている。

●参照
三田の「みの」、ジム・ブラック
布教映画『サンタ・バディーズ』、ジミー・スミスとコクスヒル/ミントン/アクショテのクリスマス集