アッバス・キアロスタミ『シーリーン』(2008年)を観る。
怪作といっても過言でないだろう。
約90分の間、カメラは、映画館でスクリーンを見つめる女性の顔をのみ、捉え続ける。ほとんどはイラン女性なのだろうか、ただ、ジュリエット・ビノシュも居る。
上映されているらしき映画は、12-13世紀のペルシア詩人・ニザーミーの手による作品『ホスローとシーリーン』である。ササン朝ペルシアの王ホスロー二世と、アルメニアの女王シーリーンとの悲恋物語であり、その展開につれ、女性たちは含み笑いをしたり、涙ぐんだり、没入したりとさまざまな表情を見せる。顔とは実に不思議なもので、すべての関係性がそこに凝縮され、共有されている。90分間、まったく厭きることはない。
映画というものが、画面だけでなく、また映画館や暗闇だけでなく、個々の網膜と脳に届き処理されてはじめて成立するのだとすれば、顔は、それらの間に介在する奇妙なインターフェースに違いない(この言葉が、文字通り、そのようにつくられている)。映画を観る顔もまた、映画であるということだ。
DVDには、映画のメイキングフィルムも収録されている。驚くべきことに、観客の女性たちは、実は、映画など観てはいなかった。『ホスローとシーリーン』の物語さえまったく意識していなかった。ライトとカメラが向けられ、自分の存在や記憶をのみ見つめていた、のであった。
映画などそのようなものかもしれない。キアロスタミは蛮勇を持つ哲学者か。
●参照 イラン映画
○アッバス・キアロスタミ『トラベラー』
○アッバス・キアロスタミ『桜桃の味』
○モフセン・マフマルバフ『カンダハール』
○サミラ・マフマルバフ『ブラックボード』
○バフマン・ゴバディ(1) 『酔っぱらった馬の時間』
○バフマン・ゴバディ(2) 『ペルシャ猫を誰も知らない』
○バフマン・ゴバディ(3) 『半月』
○バフマン・ゴバディ(4) 『亀も空を飛ぶ』
○ジャファール・パナヒ『白い風船』
○カマル・タブリーズィー『テヘラン悪ガキ日記』『風の絨毯』
○マジッド・マジディ『運動靴と赤い金魚』