ジャカルタ行きの飛行機で、ミシェル・フーコー『ピエール・リヴィエール 殺人・狂気・エクリチュール』(河出文庫、原著1973年)を読みはじめ、滞在先で読了した。
19世紀、フランス。農民ピエール・リヴィエールが、母、妹、弟を鉈で惨殺する事件が起きる。尊敬する父が迫害されていることに我慢できなくなっての凶行であった。彼は森の中を逃亡したのちに逮捕され、死刑判決を受ける。そののち、恩赦によって無期懲役に減刑され、獄中で自殺する。
本書の前半部は、事件の訴訟関連資料であり、後半部において、ミシェル・フーコーを中心とするチームの各氏が、事件に関する論考を展開している。
事件そのものは戦慄すべきものではあるが、凶悪犯罪が次々に発生するいまでは、前半部を、週刊誌的な記事として読んでしまう。ところが、証人たちの供述、本人の驚くべき理知的な供述、新聞報道、法医学鑑定、裁判長の報告など、ドキュメントによって、その言説が微妙に異なってくることに、否応なく気付かされる。彼は本当に「狂気」の状態にあったのか、ならば罪に問うためにはどうすればよいのか、追求されているのは罪そのものではなく、罪を犯す彼の存在なのではないのか、といった点が、見え隠れしてくるわけである。
そのあたりが、後半部の論考において、暴かれていく。
歴史的には、18世紀末のフランス革命を境に、もはや暴君でさえ不可侵ではなくなる。起きてしまった以上、それは続いて起こりうる。「死の祭典」も、当然、起こりうる。
それよりも、フーコーが『監獄の誕生』で明らかにしたように、18世紀において大転換した処罰の形が、ここにあらわれている。すなわち、「それを為したこと」に対する処罰ではなく、「それを為すであろう者」に対する監視である。ピエールに関する言説も、後者を形作るようにシフトしていく。曰く、彼は小さい頃から残虐で、独りで妄想を抱く癖がありました。しかし、幼少時に独り遊びをしない者があるだろうか、というわけである。
これは、まさに現代の犯罪に向けられるまなざしにつながっている。凶悪犯罪や奇妙な犯罪の容疑者が逮捕されるたびに、この人は猫が好きだったのです、この人の部屋には異常な性癖を示すヴィデオがありました、などと報道されることに、恐怖を抱いてしまうのは、自分だけではあるまい。
そして、ピエールの犯罪は、秩序維持のためでもあった。上からの取り決めを唯唯諾諾と守り、貧しさに甘んじる「善人」の父。ピエールは父を尊敬し、農民の貧しさを作り出す近代秩序としての契約を乱暴に破る母を憎んだ。近代の国家権力の形は、ピエールの中に内部化され、生権力と化していたのである。 ここに来て、サスペンスドラマのような善悪は、裏にも表にもくるくると転換し続ける。
なお、本書の原題と同じタイトルの『私ピエール・リヴィエールは、私の母と妹と弟を殺しました』(1976年)という映画では、事件が起きた村に住む人びとが主要人物を演じたという。また、その30年後に、同じ村を訪れて映画の記憶を持つ人びとを撮った、『かつて、ノルマンディーで』(2007年)というドキュメンタリー映画もある。ぜひ観たい。
●参照
○ミシェル・フーコー『知の考古学』
○ミシェル・フーコー『監獄の誕生』
○ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』
○ジル・ドゥルーズ『フーコー』
○桜井哲夫『フーコー 知と権力』