Sightsong

自縄自縛日記

ドン・デリーロとデイヴィッド・クローネンバーグの『コズモポリス』

2013-02-23 17:59:03 | 北米

ドン・デリーロ『コズモポリス』(新潮文庫、原著2003年)は、自ら率先して破滅していく若い金持ちの物語である。

実業家の「彼」は、資本主義システムの中を知的に泳ぎ、富豪となった男。ひたすら長いリムジンに乗り、ネットを通じてオカネを操り、欲しいものをすべて手に入れる。マーク・ロスコの絵を買わないかと持ちかけられると、逆に、ロスコ・チャペルをわがものにしようとさえする男である。

あるとき、「彼」は、散髪に行きたくなり、リムジンで街の反対側へと出かける。その過程で、日本円に投資しすぎて自社を潰し、なぜか自分のボディーガードを殺し、丸腰で危険地帯の床屋に辿りつき、果ては、自分の命を狙うスラム街の男のもとへ乗り込んでいく。

すべては、身体感覚が欠如していた世界にあって、それを希求してのことであった。すべてが情報としてフラットかつ過剰であれば、踏み入ってはいけない領域も、身体的・感覚的な閾値としてではなく、ただの情報として得られているのみ。そのようなものは破るのが身体感覚の反乱というものだ。従って、愛人には護身用のスタンガンを試すよう頼み、通りがかった映画撮影に全裸でもぐりこみ、全財産を失うリスクを承知しながら投資し、そして、自分の命をも身体感覚のために差しだす。

現代社会のカリカチュアかもしれないが、もはや、現代社会がカリカチュアそのものなのであり、なかなかの感覚だ。

この小説は、ポール・オースターに捧げられている。その一方で、オースターも、『最後の物たちの国で』(>> リンク)や『リヴァイアサン』を、デリーロに捧げている。なるほど、暴力や虚無のなかに足を踏み外してしまいそうな世界の形成は、オースターのものでもある。

この作品が、デイヴィッド・クローネンバーグによって映画化されている(2012年)。ジャカルタ行きの機内で、日本公開前に観ることができた。

リムジンに乗って物語が進んでいくロード・ムーヴィーとは、奇しくも、レオス・カラックス『ホーリー・モータース』(2012年)(>> リンク)と共通している。2012年はリムジン・ロード・ムーヴィー元年か。

映画では、破滅の物語をかいつまんで巧くまとめている。しかも、クローネンバーグ独特の奇妙なモノ感覚がある。リムジンの中から見える外界は、ドライに分割されすぎていて、まさに只の情報そのものだ。次々に現れる人物たちも、やはり、代替可能な情報である。この寄るべなさこそが、デリーロの「米国」あるいは「資本主義」なのだろう。

小説から映画まで10年近くの時間差があるが、それでも、デリーロの作品が「昔の未来小説」になっていないのはさすがである。一方、投資対象が日本円から中国人民元に変えられているのは妥当なところか。小説にあった「全裸のシーン」は、狂気と身体感覚の復権とを象徴しているように思われるだけに、映画にも入れてほしかったところ。

途中で、「彼」がファンだという、スーフィー教徒のラッパーが亡くなるというエピソードがある。映画では、確かに、白装束のスーフィー教徒が機械的に手を直角に掲げてくるくる回る場面が再現されている。ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』(1979年)(>> リンク)以外に、このような場面が挿入された映画があるだろうか?

●参照
ポール・オースター『最後の物たちの国で』(ドン・デリーロに捧げられている)
ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』、クリストのドキュ、キース・ジャレットのグルジェフ集 
レオス・カラックス『ホーリー・モータース』


フィリップ・ファラルドー『ぼくたちのムッシュ・ラザール』

2013-02-23 13:52:59 | 北米

ジャカルタからバリ島に向う機内で、フィリップ・ファラルドー『ぼくたちのムッシュ・ラザール』(2011年)を観始めたのだが、1時間の時差のことを忘れていて、途中で切れてしまった。気持ち悪い思いをしていたところ、帰りのバリ島からシンガポールへの帰路でもプログラムに入っていて、ようやく最後まで見届けた。しかし、シンガポール航空のモニターはかなり悪く、英語字幕をなかなか判読できなかった。もう一度しっかり観たい。

カナダ・モントリオール(カナダ・ケベック州ゆえ、フランス語)。小学校の女性教師が突然教室で首を吊った。それを目撃したふたりを含め、子どもたちは心のバランスを失ってしまう。そこに、求人を見て応募してきた男ラザール。授業でバルザックを使い、子どもに「prehistoricだ」などと反発されるなど、奇妙な授業を行うが、次第にとけ込んでいく。

しかし、自殺した前任教師についての話はタブーだった。問題を正面から取り上げ、子どもたちと一緒に乗り越えようとすると、保守的な教師たちに回避するよう迫られた。「君は移民だから微妙な問題が解らないんだよ」とまで言われて。ラザールは、内戦後のアルジェリアで家族を殺され、移民としてカナダに来たばかりなのだった。

ラザールや、彼に共感する教師や、子どもたちの心の機微が丁寧に示された映画。

先日のアルジェリアにおけるテロ事件では、犯人グループにカナダ人が参加していたと報道されている。移民を簡単に許すからだとの言説も目立っている。しかし、そのような排外主義的な力は、丁寧に、解きほぐされていかなければならないのだろうと思う。

●参照
寒くて写真を撮らなかったモントリオール
岸上伸啓『イヌイット』(多くのイヌイットもモントリオールに住む)


りんたろう『銀河鉄道999』

2013-02-23 13:22:48 | アート・映画

ジャカルタ行きの機内で、りんたろう『銀河鉄道999』(1979年)を、懐かしさのあまり観てしまった。

小学生のとき、教師の机の中に何枚もあった赤・黒二色刷りの割引券をもらって、山口県小野田市(現・山陽小野田市)のセメント町にあった映画館に観に行った。確か『スーパーマン』との2本立てだった。もう、あの映画館もないんだろうね。

もはや、母親が「機械伯爵」に殺される場面と、最後にメーテルが鉄郎にキスをする場面しか覚えていなかった。あらためて、これは男性優位の冒険譚(たとえ、クイーン・エメラルダスが活躍するとしても)であり、人間賛歌だったのだな、などと思った。

鉄郎の冒険が終わり、少年時代に訣別し、ゴダイゴによるテーマ曲が流れはじめると、隠しようもなく感動がこみあげてきた。これは何かな。刷りこみかな。

●参照
ゴダイゴの「銀河鉄道999」
りんたろう『よなよなペンギン』