Sightsong

自縄自縛日記

梅棹忠夫『東南アジア紀行』

2013-02-02 09:26:31 | 東南アジア

梅棹忠夫『東南アジア紀行』(中公文庫、原著1964年)を読む。

著者が、「大阪市立大学東南アジア学術調査隊」の隊長として東南アジア諸国(タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア)を旅したのは1957-58年。55年も前のことである。国家体制も社会の雰囲気も、当然、既に大きく変っている。しかし、この本には愉しさと多くの発見とがある。

著者は、出会ったひとつひとつを咀嚼し、納得し、あるいは疑問として提示する。例えば言葉。タイ語もインドネシア語も、修飾語が名詞のあとにくる。昔は、日本ではチャオプラヤ川のことを「メナム川」と呼んでいたが(わたしもそう習った)、実はメーナムが川を意味する。ジャワ島のブンガワン・ソロも同様に、ブンガワンが川。従って、「メナム川」も「ブンガワン川」も、「川の川」となり、意味をなさない。知らなかった。

タイは、チャートリーチャルーム・ユコン『象つかい』(>> リンク)で描かれたように、戦前は国土の8割が熱帯林におおわれていた(いまでは3割程度に過ぎない)。本書の時代には、まだまだ過伐採が行きつく前であり、現在よりも遥かに多くの森林が残っていたに違いない。そのタイ北部では、植生を具体的に観察している。熱帯雨林のイメージたる常緑広葉樹ではなく、ほとんどは、モンスーン気候に合った落葉広葉樹林だという。そう言われてみればそうだ。

タイ北部からビルマ(ミャンマー)にかけてのカレン族も山地民として描かれているが、さらに国境を越えた民族として観察されているのがモン族である。わたしは昨年、ベトナム北部で多くのモン族の女性たちや子どもたちを目にした。中国雲南省のミャオ族と同じだということも聞いた。本書を読むと、実は彼らの生活の拡がりは、それだけではないことがわかる。本拠は中国貴州省、そこから、雲南、広西にのび、ベトナム北部、ラオス、タイまで広がってきた。インドシナ半島における山づたいの本格的な移住は、19世紀に行われたが、そのときの原因は、中国南部における反清革命運動たる太平天国の余波が、この山の民を駆って、南へ追いやったのだという。著者は、この拡がりを称して、「奇怪な分散隊形の空中社会」だとする。1000mの等高線で切って、それ以下の部分を地図で消し去ってしまうと、あとに彼らの国があらわれてくるのだというのである。素晴らしい説明術だ。

中国からインドシナ半島へ移動してきたのは、モン族だけではない。広い意味でのタイ族の国は、もともと雲南省にあって、ナンチャオ(何詔)とよばれ、8世紀には唐に比肩する大勢力だった。しかし、13世紀、のクビライの進出により独立国としての歴史を閉じた。しかし、その前から移動ははじまっており、タイやラオスに入った。何年か前、ラオス人が、いやタイに言って会話するだけなら何て事はないと話していたのが記憶にあるが、それは故なきことではなかったのだ。

こんな具合に、カンボジアや、ベトナムの歴史を大局的に解説する。東南アジア史をあまり知らないことを恥じてしまう。

当時の東南アジアと現在の姿は、当然、異なったものだが、なかなかその変化が面白くもある。

バンコクでは、当時、「ATAMIONSEN」というソープランド(昔はトルコ風呂と呼んでいた)があったという。今は、何店舗もの「有馬温泉」があるが、これは健全なるマッサージ店である。

当時は三輪自転車が廃されて三輪バイク(トゥクトゥク)が出てきた時代だったが、今では大気汚染の問題から製造が禁止され、5、6年前と比べると、その姿が目立たなくなってきた。もはや産業遺産である。

ルンピニ公園横の「Wireless Road」は、この頃すでにその名前があった。昔、無線局があった名残なのだという。当時はタクシーで「Wireless Road」と言っても通じなかったというが、今では知らぬ者はない。

大昔の記録だと思わず読んでほしい。特筆すべきは、著者の、簡潔にしてユーモラスな文章である。文章たるもの、こうでなければならない。


モン族のふたり(ベトナム北部、2012年)


オリヴィエ・アサイヤス『夏時間の庭』

2013-02-02 01:22:48 | ヨーロッパ

オリヴィエ・アサイヤス『夏時間の庭』(2008年)を観る。

パリ郊外の田舎に建つ旧い館。老女は、自らの遠くない死を悟り、ひとりの娘(ジュリエット・ビノシュ)とふたりの息子を呼び寄せていた。長女は米国や日本(大丸!)でデザイナーとして働き、長男はフランス国内の経済学者、次男は中国で「Puma」のスニーカーを生産している。それぞれの子どもたちが、森のような広い庭で大はしゃぎ。大人はみんな忙しい。

老女の叔父は有名な画家だった。彼の作品や、付き合いのあった画家たちの作品を、老女は、散逸しないようにして売ってほしいと、子どもたちに頼むのだった。そして、老女はほどなくして突然亡くなる。子どもたちは話し合い、美術品の数々を売ることに決める。

心が落ち着くような里山の自然や、互いを思いやる登場人物たちの良い演技が素晴らしい。ビノシュは本当に味がある女優だなあ。

コローやルドンやドガの作品。丁寧に修復・管理するとは言え、作品のいくつかを引きとったオルセー美術館の人工的な佇まいと、自然光のもとで日常的に接する有りようとの違い。美術品はそれを愛する人間のものだ、と、主張しているのかもしれない。

何より、人と人との間を、カメラ自身が彼ら・彼女らと親密な人間となったように動き回る撮影が素晴らしい。アルフレッド・ヒッチコック『ロープ』のように、幽霊がカメラとなっているのではない。カメラも仲間と化しているのである。

人の関係性が希薄になってしまったからこそ、あえて関係を丁寧に描いているように思える。そうでない社会では、この映画は作られなかっただろう(家族が世界中に散り散りになっているといった現代的なプロットがないとしても)。その意味で、すぐれて現代的な映画だということができるようにも思える。

●参照
オリヴィエ・アサイヤス『クリーン』