「代表となる人物は必要でも、それはあなた方自身で選ぶべきだし、またその代表はリコール可能な存在でなくてはならない。支配と階層の体制に陥らないようにするために。」
ノーム・チョムスキー『アメリカを占拠せよ!』(ちくま新書、2012年)を読む。
チョムスキーは、産業と経済の頂点にある「1%」にのみ富が集中する米国を告発する。「子分」国家・日本の将来の姿だろうか。
彼の怒りは、そのことが構造的・意図的になされていることに向けられており、また、そのために、個人が何をやっても変わらないのだという絶望が蔓延していることを指摘している。彼は、もはや共和党は政党と呼ぶに値しないとまで言う(だからといって、民主党がすぐれているわけではない)。これを、現在の日本に置き換えてみてはどうか。
「共和党は何年も前に、政党だというふりをするのもやめてしまいました。あれだけ一貫した献身的な姿勢で、権力と利益をごくわずかな層に集中させることに専心してきた以上、もはや政党とはいいがたい。彼らにはひとつの教理問答(カテキズム)があって、まるで昔の共産党の出来損ないのようにそれをくりかえしています。」
興味深い指摘は、米国における気候変動問題の位置である。この問題に対してまともな対策を取らない米国では、「あんな科学者たちの言うことになぜ耳を貸すのか」と言わんばかりに、産業界が「公然と、しかも誇らしげに、気候変動はリベラルたちのでっち上げだと宣言」する(このことは、その後に出された『Nuclear War and Environmental Catastrophe』(>>リンク)においても強調している)。一方、日本では、リベラル層において、「科学者たちの言うこと」に耳を貸さず、エセ科学者(よくテレビに出たりする)が大声でもっともらしく叫ぶ陰謀論が信じられ、その挙句に、それなりにマトモなはずの言論人までそれに乗る有様。それというのも、日本における気候変動対策が、原発推進とセットになって進められてきたからである。
希望は「99%」による「オキュパイ運動」だとする。公民権運動にしても、ベトナム戦争反対にしても、それが続けられていたからこそ、国家の方向を動かしたのだから、である。選挙制度もそうであり、まさにそれは、日本において、国家や体制への怒りと絶望が有権者としての権利放棄につながり、その結果として現在の望まれぬ政治体制が出来上がっていることと重なっていく。個人の力とコミュニティの力を軽視せず、政治参加せよというメッセージなのである。いつ、個々の動きが全体を動かすだろうか。
「きわめて薄弱な権力構造は、人々が従いつつばかにするか、無視するかしたとたんに、崩壊しはじめるのです。」
「とにかくどんな社会であろうと、権力はつねに統治される側の手中にあるということ。支配される人たちが、権力をつねに握っているのです。」
「プロパガンダのなかで最も効果的なのは、たとえば99パーセントと1パーセントの構図のように、何が起こっているかは分かるけれども、「自分にはどうすることもできない、自分は孤独だ、誰とも話せない、私みたいな人間には何もできない。だから苦しくても耐えるしかないんだ」と感じさせるタイプのものです。これはじつに効果的なプロパガンダになる。奴隷による反乱がほとんど起こらず、奴隷制がいつまでも続いていく裏には、そういうからくりがあるのです。」
チョムスキーの次の提案は面白い(これは地位が確立された層目当ての「ティーパーティー」とは異なる)。政治システムを変えることなく政治参加の文化を変えることができる。そして、こうしないと選挙には勝てないとなればどうだろう。
「予備選の日が来たら、街の住民が集まって、議論、討論をし、自分たちが求める政策がどんなものかを話し合う。このオキュパイ運動で起こっているようなことです。そして住民が、政策はこうあるべきだという構想を定める。やがて候補者が現れ、「皆さんとお話をしにきました」と言う。すると街の人々はこう応える。「いや、むしろあなたにその気があるのなら、われわれの話を聞きにくるといい。あなたがそこまでやってくれば、われわれが何を求めているかを伝えよう。そしてあなたは、自分ならそれができると言ってわれわれを説得する。そうすれば、われわれはあなたに投票するかもしれない」。民主的な社会の選挙とはこういうものです。」
●参照
○ノーム・チョムスキー+ラレイ・ポーク『Nuclear War and Environmental Catastrophe』