Sightsong

自縄自縛日記

『金達寿小説集』

2015-01-31 22:55:32 | 韓国・朝鮮

『金達寿小説集』(講談社文芸文庫)を読む。この時代に金達寿(キム・ダルス)の作品を文庫で出すなんて快挙ではないか(高いけど)。

金達寿は、日本による併合時の1920年に韓国に生まれ、少年時代に「内地」に渡ってきた。神奈川新聞に入社するも、一時期は韓国に戻り植民地政府の御用新聞で働き、幻滅するという体験をしている(そのあたりのことが、 『玄海灘』(1952-53年)や『わがアリランの歌』(1977年)に書かれている)。特筆すべきは、日本において日本語で書くという、さまざまな意味で複層的な活動を行ってきたことだ。

本書には、『玄海灘』と同じく芥川賞候補になったユーモラスな作品「朴達の裁判」(1958年)のほかに、興味深い短編がいくつか収録されている。

「位置」(1940年)は「善良なる日本人」が朝鮮人に向ける差別を、そして「富士の見える村で」(1951年)は「民」というマイノリティが別のマイノリティたる朝鮮人に向ける差別を描いた作品であり、底無しの、やり切れないほどの絶望感が吐露されている。

「濁酒の乾杯」(1948年)も複雑だ。ここには、朝鮮人が日本人の手先となり朝鮮人を抑圧する姿がある。

「対馬まで」(1975年)には、郷里に戻れない者たちの念が文字通り噴出している。そして、自身が少年時代に郷里を去った体験を描いたごく短い小説「祖母の思い出」(1946年)に渦巻く哀切の念はすさまじい。

●参照
金達寿『玄海灘』(1952-53年)
金達寿『朴達の裁判』(1958年)
金達寿『わがアリランの歌』(1977年)


ヴィジェイ・アイヤー+プラシャント・バルガヴァ『Radhe Radhe - Rites of Holi』

2015-01-31 10:07:05 | 南アジア

ヴィジェイ・アイヤーが音楽を担当し、プラシャント・バルガヴァが映像を撮った『Radhe Radhe - Rites of Holi』(ECM、2014年)を観る。

Vijay Iyer (p, composition)
International Contemporary Ensemble

インド北部の祭祀。極彩色の粉や泥にまみれた、誰がみても非日常の時空間に、ストラヴィンスキーを意識したアイヤーが音楽を付けていく。

映像にはもちろん目を奪われる。しかし、俯瞰したり、中望遠で被写体以外のボケを活かしたり、少しコマ送りを粗くしたりと、その手法はあまりにもステレオタイプだ。要は、恥ずかしげもないオリエンタリズムなのであり、観ながら恥ずかしくなってしまう。もちろん、アイヤーはインド系であり、バルガヴァをはじめとするスタッフもインドである。しかしそのことは、オリエンタリズムを回避しおおせているという理由にはならない。

アイヤーに求めるものもこれではない。

●参照
ジャファール・パナヒ『これは映画ではない』、ヴィジェイ・アイヤー『In What Language?』
ヴィジェイ・アイヤーのソロとトリオ


トマ・ピケティ『21世紀の資本』

2015-01-31 09:40:08 | 政治

トマ・ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房、原著2013年)を読了した。分厚くて重く、混んだ電車の中で立って読むのには向いていないこともあって、ずいぶん時間がかかってしまった。

ただし、内容は驚くほど明快であり、ひるむことはない。何しろ大ブームで、解説本やテレビの講義番組などが大流行だが(わたしも来日講義を聴講しようとしたが、2回とも落選してしまった)、時間があるなら簡単に済ませず本書をじっくり読むことを勧める。キーワード的な結論だけを何かの主張の手段として使うよりも、考えながら脳内回路に沈着させていくべきだと思うからだ。

本書の最大の特徴は、可能な限り、所得や資本の定量的なデータを過去に遡って詳細に収集し、それによる分析結果に基づいて議論を展開していることだ。逆に言えば、マルクスの仕事を含め、従来の分析がいかにそのような手法からかけ離れており、場合によっては、いかに自分の示したいストーリーという鋳型に分析を当てはめているかということである。

従来の分析とは過去のものばかりではない。現在の資本主義のもとで、富が看板通りに再分配されるということが神話に過ぎないことも、「資本が中国に所有されつつあるという恐怖」が幻想に過ぎないことも、明確に示される。

本書において示される最も重要な成果は、資本が肥大化していくメカニズムだろう。資本は必然的に蓄積されてゆき、それは元々資本を保有する者のもとから離れることはない。持てる者は何かを行うための原資も、そのためのさまざまな手段やノウハウも持つ。従って、社会のモビリティは失われてゆき、構造が硬直化する。それを突き崩すのは、教育の向上による個人の「能力」のかさ上げでは不十分である。

すなわち、「格差」とは、資本主義という経済社会の構造から必然的に生み出される結果なのだ、ということである。ピケティが提言する最も効果的な処方箋は、資本に対する累進課税そのものである。現在の先進国における政策がそれに逆行したものであることは言うまでもない。かれの予測によれば、このままでは、資本の少数者への集中と社会の硬直化はさらに進む。

●参照
デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』
『情況』の新自由主義特集