佐藤嘉幸、廣瀬純『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』(講談社選書メチエ、2017年)を読む。
本書は、ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリの共著3冊を取り上げ、それぞれが異なる狙いの革命をにらんでいたとする。すなわち、『アンチ・オイディプス』(1972年)はプロレタリアによる階級闘争、『千のプラトー』((中)、(下))(1980年)はマイノリティが権利や等価交換を求める闘争、『哲学とは何か』(1991年)はマジョリティ自身がマジョリティであることへの恥辱を哲学に組み込むための闘争を。
また、かれらの言説は、ミシェル・フーコーの権力論への応答や問いかけでもあった。すなわち、1970年代のフーコーによる権力論(『監獄の誕生』、1975年、など)は『アンチ・オイディプス』への応答であり、それへのD/Gによる応答が『千のプラトー』であり、フーコーが知への意志』(1979年)のあと長い沈黙期間を経て発表した『快楽の活用』(1984年)が『千のプラトー』へのさらなる応答であり、そして、ドゥルーズ単著の『フーコー』(1986年)が最晩年のフーコーに対する応答であったのだ、と。
こうしてD/Gとフーコーとの関係を見せられると、わたし(たち)がかれらの著作に魅せられた理由もわかるように思える。フーコーはどのようなミクロなもの(たとえばそのへんの鉛筆と消しゴム)においても権力関係が生じること、またそれが外部からの所与のメカニズムだけでなく、さまざまなレベルで支配し支配される人間の思考回路のあちこちにまで浸透してきたことを示してくれた。対してD/Gは、では権力が完璧な形を取ってしまったら人間には抗する手段がないことになってしまうではないかと考えた。それがたとえば逃走線やリゾームとなった。フーコーは世界のメカニズムを細部にいたるまで凝視し、説いてみせた。D/Gはそのメカニズムをどの地点からでも根底から別の形にする策動を煽ってくれた。なるほどなあ。
廣瀬氏は、『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』において、ドゥルーズによる「マッケンローの恥辱」を引用した。テニスのジョン・マッケンローは、とにもかくにもネット際に突進し、自らをにっちもさっちもいかない袋小路に追い込んだ。それによってはじめて、情勢を突き破る「出来事」すなわち革命が生まれる。してみると、これはフーコーにとってみれば死をも賭した「勇気」、D/Gにとってみれば生に固執しながらにして闘う「恥辱」であったのか。
いずれにせよ敵は昔も今も「資本主義」であったのだ。D/Gのいう欲望・リビドーによる世界の駆動は、いかに自分自身が搾取・収奪される側であれ、資本主義社会を強化する方向に走るようにできている(「肉屋を支持する豚」)。それはもはや容易には変えることができない、それだからこそ現実的な対処は事件(革命)への道ではないということだ。
著者は、現在の日本において、上の三つの革命が同時に希求される状況になっているという。そしてそれが亀裂となって現れている現象・現場として、沖縄、福島、国会前などを挙げる。この、市民による反ファシズム闘争についての指摘は、おそらく「穏健な保守」だと自認する一方の市民にとっても重要なものだ。後者の市民にとって前者の市民は、現実的な解に向かおうとしない非論理的な存在かもしれないからである。
「・・・権利回復運動の直中において、いかなる利害計算からも析出され得ない絶対的に異質な運動が同時に生起したのだ。利害やその計算に基づく運動ではなく、利害に反する計算不能な欲望の運動。」
「戦後平和主義をこのように抜本的に改めようとする我々の振舞いは、確かに、そのラディカルさにおいてあなた方を驚かせるものであろうし、あなた方にとってなかなか受け入れ難いものであろう。しかし我々は、あなた方の暮らしを守り抜くという我々に課せられた責任を、何としてでも果たしていかなければならない。そのためにこそ、労働者を切り捨てて金融資本とその主軸を戻せば事足りると考えている資本に対して、戦争経済への途を拓いてやることで、何とか産業資本に踏みとどまらせようとしているのである……。半ば本心からそう言っているのであろう安倍首相に対して、人々はただ一言「安倍やめろ」と返す。余計なお世話だ、我々はあなた方の世話にならずとも生きていける、我々の力能はあなた方は考えているよりもずっと大きい、それがどのようなものとなるかはまるでわからないが、それでもなお我々は既に、賃労働に立脚しない新たな生へと踏み出す決心がついている、と人々は言っているのだ。」
「人々の怒りは、原発や放射能、改憲や戦争、雇用規制緩和や収奪、米国基地といった外(利害)に向けられているだけでなく、オイディプスという彼ら自身の内(欲望)にも向けられている。」
著者はまた、高橋哲哉氏による「犠牲のシステム」論および「基地引き取り論」(『犠牲のシステム 福島・沖縄』、『沖縄の米軍基地 「県外移設」を考える』)についても、否定的に言及している。それはなぜなのか、必ずしも明快ではないが、ひとつには、「政治哲学」を解決策として見出そうとしている点にあるようだ。著者によれば、「土人」(=動物)が絶望して「人間」に問いかけているのではない、「土人は自分自身で問いを立て、自分自身でその答えを決定するのである」。
「琉球人の闘争を介して日本人は否応無しに政治過程の中に投げ込まれ、そこで初めて、土人になるチャンス、すなわち、市民であることから自らを脱領土化し、土人性への生成変化の無限の過程の上に自らを再領土化するチャンスを得る。」
●参照
廣瀬純『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』
廣瀬純トークショー「革命と現代思想」
ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』(1996年)
ジル・ドゥルーズ『フーコー』(1986年)
ジル・ドゥルーズ『スピノザ』(1981年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(上)(1980年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)(1980年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(下)(1980年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』(1972年)
フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』
アンドリュー・カルプ『ダーク・ドゥルーズ』
ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』(1979年)
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(1975年)
ミシェル・フーコー『ピエール・リヴィエール』(1973年)
ミシェル・フーコー『言説の領界』(1971年)
ミシェル・フーコー『わたしは花火師です』(1970年代)
ミシェル・フーコー『知の考古学』(1969年)
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(1961年)
ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』
重田園江『ミシェル・フーコー』
桜井哲夫『フーコー 知と権力』
ルネ・アリオ『私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』
二コラ・フィリベール『かつて、ノルマンディーで』