水道橋のFtarriで、ようやく来日ツアー中のDDKトリオ(2018/4/8)。
Jacques Demierre (p)
Axel Dorner (tp)
Jonas Kocher (accordion)
3人のファミリーネームの頭文字を取ってDDK。ヨナス・コッハーははじめて聞く名前である。
皆が息を殺す中で始まったわけだが、ジャック・ディミエールは鍵盤右端のキーを右手の小指で叩いた。それを皮切りに繰り広げられたインプロは、文字通り驚くべきものだった。
アクセル・ドゥナーは息のみの放出においても循環呼吸を用いる。管を鳴らし始めてなぜ倍音が出ているのかと不思議に思ったら、それはコッハーの音と重なっているのだった! もちろんそれだけではない。かれの指の動きやブレスのひとつひとつは何かと結びついており、つまり、カタルシスまかせではない。それを平然とやってのける凄みがあるのだが、それでも、空を飛んだり鳥の声だったり蒸気機関だったりというイメージ喚起力はあった(イメージを俗なものにしているのは聴く側かもしれない)。コッハーの音との相互作用には面白いものがあって、アコーディオンらしからぬ単音のロングトーンに対してドゥナーが合わせてゆく音は、意図的に微妙にピッチがずれ、サウンドの尻を浮かせ続けた。
コッハーの集中力には驚いた。アコーディオンは震える和音によって俗に堕すことが効果的な楽器に違いない。しかし、かれはそれに断固として近づこうとしない。プレイ中はずっと目を瞑り、ときに楔を打ち込み、ときに蛇腹で風を創り出し(それも偶然に頼らない)、ときに楽器を左右に揺さぶりサウンドも力で揺さぶった。面白いことは、ディミエールやドゥナーの響きの前か後に、気が付いたらコッハーが響きを引き受けていることだった。
もっとも圧倒されたのはディミエールである。かれは鍵盤やピアノの弦を左右へ撫でる。その振幅の大きさも強さもいちいち想像を超える。また、ペダルで響きを大きくコントロールするだけでなく、ペダルをパーカッシヴに使いもする。撫でる行動は指だけではない。手の側面、手の甲(!)、拳骨、腕を公平に使い、弦はこじり、鍵盤は前側を爪でひっかけもする。弦を押さえて鍵盤の音を殺しもする。これらは惰性や勢いとは無縁であって、なにかを始めるときには蛮勇という言葉が頭に浮かぶ。そして最後は、鍵盤の左端のキーを叩いた。明らかにはじまりかたを意識した構造的なものだった。おそらくはそれに対するコッハーのリスペクトとして、簡単には終わらせず左指に力が入り、またディミエールも弦に近づけた指を空に浮かせていた。しかし、音そのものは出さず、終わった。
●アクセル・ドゥナー
アクセル・ドゥナー+村山政二朗@Ftarri(2018年)
PIP、アクセル・ドゥナー+アンドレアス・ロイサム@ausland(2018年)
「失望」の『Lavaman』(2017年)
「失望」の『Vier Halbe』(2012年)
アクセル・ドゥナー+オッキュン・リー+アキム・カウフマン『Precipitates』(2011、-13年)
アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『ライヴ・イン・ベルリン』(2008年)
アクセル・ドゥナー + 今井和雄 + 井野信義 + 田中徳崇 『rostbestandige Zeit』(2008年)
『失望』の新作(2006年)
●ジャック・ディミエール
広瀬淳二+今井和雄+齋藤徹+ジャック・ディミエール@Ftarri(2016年)