Sightsong

自縄自縛日記

サイラス・チェスナット『Earth Stories』、最近の演奏

2011-01-15 18:29:55 | アヴァンギャルド・ジャズ

90年代の前半にサイラス・チェスナットが割と騒がれていた。1996年ころに六本木のバードランドだったかにトリオ演奏を聴きに行った。ラグタイムもストライドピアノもできそうなテクニシャン、ただどう聴いても先祖返りとしか思われず、その枠内でいかにも楽しそうに盛り上げるのが嫌になってきて、ライヴの途中で帰ってしまった。きっと虫の居所が悪かったのだ。

唯一手元に残した盤(だって席を蹴って帰る前に、何故かサインを貰っちゃったから)、『Earth Stories』(Atlantic、1996年)は、それでも時々聴いている。何しろ巧く、ブルージーなのである。しかし、決して偏愛の対象になることはない。枠を揺るがすことがないからだ。

最近の新譜情報を見てサイラスの存在を思い出した。そんなわけで、Youtubeでいくつか聴いてみたが、人は変わらない。

> Yardbird Suite(チャーリー・パーカー)(ピアノソロ)
> 何かのブルース(ピアノソロ)
> Live at the Litchfield Jazz Festival 2008(ピアノトリオ)


ジャック・デリダ『死を与える』 他者とは、応答とは

2011-01-15 13:50:12 | 思想・文学

バンコク行きの機内で、ジャック・デリダ『死を与える』(ちくま学芸文庫、原著1999年)を読む。

『創世記』において、アブラハムは神からの声により、息子のイサクを生贄として殺そうとする、死を贈与しようとする。理由を誰に告げることもなく、余りの理不尽さに苦しみながら。デリダが覗き、こじ開け、理不尽な声に応答してさらなる声を共鳴させるのは、この意味不明なブラックホールである。

他者と神の声、自身にのみ響く声を共有してはならない。これは他者への応答(response)と対をなす責任(responsibility)ではありえないし、神は他者ではない。この矛盾について、デリダは、責任の内奥には体内化された<秘儀>があるのだとする。すなわち、悔悛や犠牲や救済はこの非論理の矛盾から歴史として溢れ出ており、他者への裏切りと切り離せない。決して双方向ではない、根本的に非対称なキリスト教世界に関する洞察である。そして、その他者なる存在について、デリダの意識は無数の分子(ドゥルーズ/ガタリ)となって世界に浸透を図る。えぐるような浸透である。

「一言で言うならば、倫理は義務の名において犠牲にされなければならない。倫理的義務を、義務に基づいて、尊敬しないことが義務なのだ。ひとは倫理的に責任を持って振る舞うだけではなく、非倫理的で無責任にも振る舞わなければならない。そしてそれは義務の名において、無限の義務、絶対的な義務の名においてなのだ。(略) この名は、この場合まったく他なるものとしての神の名、神の名なき名にほかならない。」

「私は他の者を犠牲にすることなく、もう一方の者(あるいは<一者>)すなわち他者に応えることはできない。私が一方の者(すなわち他者)の前で責任を取るためには、他のすべての他者たち、倫理や政治の普遍性の前での責任をおろそかにしなければならない。そして私はこの犠牲をけっして正当化することはできず、そのことについてつねに沈黙していなければならないだろう。」

「あなたが何年ものあいだ毎日のように養っている一匹の猫のために世界のすべての猫たちを犠牲にすることをいったいどのように正当化できるだろう。あらゆる瞬間に他の猫たちが、そして他の人間たちが飢え死にしているというのに。」

さまざまな世界で呟きたいこの<他者>論は、例えば、「何千万もの子供(倫理や人権についての言説が異なる隣人たち)」、あるいは、無数の他者に向けられている。そして、他者の認識、他者への応答、そしてその根本矛盾というブラックホールに気付かぬ者たちに向けられている。これは宗教論であると同時に、現代戦争論でも現代政治論でもメディア論でもありうるものだ。

「・・・まったく他なるものとしての神は、何であれ他なるものがあるところにはどこにでもいるということである。そして私たちのひとりひとりと同じように、他者のひとりひとり、あらゆる他者はその絶対的な特異性において無限に異なるものである。近寄りがたく、孤独で、超越的で、非顕在的で、私の自我に対して根源的に現前しないような絶対的な特異性において無限に異なるものなのだ」

アブラハム「何も言おうとしないことを許してください・・・」、私とは他者とは何か、許しとは何か。この深淵を覗き込まない限り、世界は決して別の世界にはならない。

●参照 他者・・・
徐京植『ディアスポラ紀行』
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)
柄谷行人『探究Ⅰ』
柄谷行人『倫理21』 他者の認識、世界の認識、括弧、責任
高橋哲哉『戦後責任論』
戦争被害と相容れない国際政治


ネッド・ローゼンバーグの音って無機質だよな

2011-01-08 14:52:01 | アヴァンギャルド・ジャズ

徐京植『ディアスポラ紀行 ―追放された者のまなざし―』を読んだときに、ネッド・ローゼンバーグ『Inner Diaspora』(TZADIK、2007年)のことを思い出して棚から出した。ダジャレではない。ネッドもユダヤ人、その彼がジョン・ゾーンに声をかけられて、クレズマー音階などの作品に取り組んだ記録である。

「Sync」というグループは、ネッドのクラリネット、バスクラリネット、尺八、アルトサックスに、ジェローム・ハリスのベースギター、さらにはタブラ、ヴァイオリン、チェロが入る、変則「ウィズ・ストリングス」である。

ネッドもかなり「内的なディアスポラ」、すなわちユダヤ性という閉鎖性からの脱出を意識していて、ここに寄せられた文章にも、仏教との融合だのクロスボーダーだのといったことが書かれている。実際に音楽は平板なものではなく、弦楽器による哀愁としか言いようのないクレズマーに、ネッドの自在な管楽器が絡んでいく。ジェローム・ハリスの存在がかなり効いていて、現代の音楽であることを示し続ける。

それにしても、前から思っていたことではあるが、ネッドの音色は人工的ではないのだが無機質というか、音を奏でる甲殻類を思わせるものがある。つまりそれだけではあまり魅力的ではなく、他の盤をあらためて聴いてみても印象は変わらないのだ。

たとえば、サックスの循環呼吸奏法を用いる者同士のデュオ、エヴァン・パーカー+ネッド・ローゼンバーグ『Monkey Puzzle』(Leo Records、1997年)。エヴァンはソプラノとテナー、ネッドはバスクラとアルトであり、どれを聴いても違いが明らかだ。エヴァンはテナーでもソプラノでも、クリシェと言っても手癖と言ってもいいかも知れないが、ロマンチックな音がそこかしこに現れ、こちらをドキドキさせる。無機質なネッドはここでは引き立て役だ。

ところで、このジャケットのクロスワードパズルの問題が裏面にあって、解いてLeo Recordsに送ったら未収録CD-Rをプレゼントなどと書いてあった。当時送ろうかと思って面倒になってやめた。勿論〆切はとうに過ぎてしまっている。出せばよかった。

サインホ+ネッド・ローゼンバーグ『Amulet』(Leo Records、1996年)は素晴らしい共演の記録ではあるが、サインホ・ナムチラックとサックスとのデュオという点で比べれば、姜泰煥との作品(『LIVE』)や、エヴァン・パーカーとの作品(『Mars Song』)の方が情念に溢れ、ウェットである。この盤の中では、12曲目の「Low & Away」におけるサインホの倍音、甲高い音が凄まじい。

発表当時、六本木にあったロマニシェス・カフェにサインホとネッドとのデュオを聴きに行った。サインを貰おうとジャケットを見せたところ、これは印刷が悪くて新しいものにした、取りかえるが?と言われ、何となくそのままにした。現行版はイラストがこんなピクセルの集合体ではなく、もっとなめらかである。従って少しレアである。


ネッドとサインホのサイン

●参照
サインホ・ナムチラックの映像(大友良英+サインホ)
TriO+サインホ・ナムチラック『Forgotton Streets of St. Petersburg』
姜泰煥+サインホ・ナムチラック『Live』


金石範『万徳幽霊奇譚・詐欺師』 済州島のフォークロア

2011-01-08 14:00:11 | 韓国・朝鮮

金石範『万徳幽霊奇譚・詐欺師』(講談社文芸文庫、原著1971・1974年)を読む。この文庫は1991年の発行だが既に品切れ、表紙が日焼けした古本を手に入れた。金石範の作品をほとんど文庫で読むことができないのは悲しい状況ではある。

ここに収められている2作品は、いずれも70年代になって、40代も半ばとなった金石範が作家としての再出発をした時期のものだ。済州島から大阪に渡ってきた親を持つ在日コリアン二世であり、自身のルーツ、特に済州島四・三事件(1948年)を見ることができなかったという気持、そして日本語で書くという特質が、彼の作品に特徴を与えている。作家に流れる血という安易な見方ではない。身体の外に出さざるを得ないであろうものが、血や臭いや情念のように感じられるに違いない、ということである。

梁石日『魂の流れゆく果て』に、金石範が大阪で屋台を引いてホルモンを焼いていた時代の思い出が書かれている。それは生活のためだと捉えていたのだが、秋山駿の解説によると、大阪のフォークロア収集という側面もあったという。この2作品に登場する、権力ともオカミともインテリとも無縁の世界にいる人物たちの強烈な声を聴くと、それももっともらしい話に感じられてくる。

『万徳幽霊奇譚』は、「知能の発達が遅れた」寺の使用人・万徳が主人公である。済州島のハルラ山はアカ狩りにあって、「徐々にではなく黒髪が一面ずりむけるとでもいう極端な形」となっていた。李承晩政権の警官たちは思うがままに白を黒といい、住民を虐殺していた。そして万徳は、自らの信じるものに従い、寺に火をつける。この描写は凄まじく、映画化されるならば、『怪奇大作戦』の実相寺昭雄作品「呪いの壺」のような突き抜けた映像になるのではないかと想像した。

万徳の突然の言動は、仏が心に現れたのだという表現そのもので納得するよりも、自身の身体にいたシラミをまた自身に戻すような、だだっ広い世界か無間地獄か、そんなものの中に位置づけるほうが相応しい。

「自分だっていつ、何億何千万年のあいだにはシラミに生れ変るかも知れないではないか。そのときはだれかが、いや、このシラミが供養主に生れ変っていて、パチッと火の中へ自分を放りこんでしまうかも知れないだろう。(略) それで、にっと笑いそいつをふたたびつまみ上げて、襟首のあいだから汗と垢のねりまざった臭い躯の中へ、その古巣へ落してやった。」

『詐欺師』はさらに年月が経ち、朴正煕政権に移っている時代を舞台としている。やはり主人公は少し「頭の足りない」男。彼は詐欺を思いつき、「アカ」の共謀者だとして逮捕され、いつの間にか、自分が「アカ」の首謀者だと見なされることに悦びを感じる。好奇の眼で視られることに興奮し、しかし、その視られる外界には決して出ることができないのだった。

四・三事件という恐ろしい現実とこのフォークロアの持つユーモアとのギャップ、鈍器のような妙な衝撃がある。

●参照
金石範『新編「在日」の思想』
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』
林海象『大阪ラブ&ソウル』(済州島をルーツとする物語)
梁石日『魂の流れゆく果て』(金石範の思い出)
吉増剛造「盲いた黄金の庭」、「まず、木浦Cineをみながら、韓の国とCheju-doのこと」(李静和は済州島出身)
野村進『コリアン世界の旅』(済州島と差別)
宮里一夫『沖縄「韓国レポート」』(沖縄と済州島)
『けーし風』沖縄戦教育特集(金東柱による済州島のルポ)
豊住芳三郎+高木元輝 『もし海が壊れたら』(高木元輝こと李元輝が「Nostalgia for Che-ju Island」を吹く)


知念ウシ『ウシがゆく』

2011-01-05 00:06:56 | 沖縄

日本人の読者として、頁の向こうから罵られるのではないかと怯えつつ、知念ウシ『ウシがゆく 植民地主義を探検し、私をさがす旅』(沖縄タイムス社、2010年)を読む。ところでオビが邪魔で、折角南北を逆転させた日本列島が隠れてしまっている。

偽善と欺瞞で取り繕っていないで早くヤマトゥで米軍基地を引き取れ、とする著者の主張は勿論正論であり、それよりも、正論だねという言葉で済ますことが問題視されているのだろうね。常に沖縄人として発信し続けた軌跡にあることばは、読んでいてあちこちに引っかかる。ことばは言い換えやレトリックではない。そのことば自体を受けとめるためにこの本がある。

いくつか擦音がした箇所を拾ってみる。(この時点でことばを変質させているのだけど)

○植民地には植民者だけでなく、協力者、共犯者が必要である。
○基地がある、ではなく、基地がない、という目で地域を視る。
○日本人にとっての癒しが沖縄にあって、逆に、沖縄人にとっての癒しは日本への旅にはない。
○沖縄人の選択に任せられない、と、日本人は思ってはいないか。
○植民地の人々は、むき出しの暴力ではなく、知識体系によって支配されている。従って、「有名な専門家」の知識を信用してはならない。
○抵抗する自分の居場所を自分自身の中で確保しなければならない。そうしないと、感覚が麻痺し、不当な扱いを横行させてしまう。
○沖縄人たちは、今、確実に戦争の予感をとらえている。振興策は、戦争までの間、遊んで時間をつぶせというカネだ。
○沖縄を「愛している」ではなく、「リスペクトしている」として捉えなおさなければならない。愛は時に暴力である。


ザ・ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ

2011-01-03 09:31:37 | アヴァンギャルド・ジャズ

休暇呆けのテンションを無理やり高めるため、『The Jazz Composer's Orchestra』(JCOA/ECM、1968年)を聴く。73分強、浴びるように。

ジャケットにある名前はメンバーのごく一部だけである。ドン・チェリーガトー・バルビエリの哀愁、ギャイインと異空間をこじ開けるラリー・コリエル、端正らしく聴こえる(じつは違う)スティーヴ・スワロウのベース導入、超人セシル・テイラー、野獣ファラオ・サンダース、その他にもスティーヴ・レイシー、ルー・タバキン、ハワード・ジョンソン、カーラ・ブレイ、レジー・ワークマン、チャーリー・ヘイデン、ビーヴァー・ハリス、アンドリュー・シリル、アラン・シルヴァ、ラズウェル・ラッド、ジミー・ライオンズ、もう書ききれない。よくこんなに集めたね。

「Preview」と題された短い演奏では、最初から最後までファラオ・サンダースのテナーサックスが咆哮する。その他の演奏はすべて「Communication」と題されており、混沌のなかで個の見せ場が作られる。なかでも凄いのは後半30分強に登場するセシル・テイラーであり、他を圧倒しながらのコミュニケーションという矛盾を体現している。アンドリュー・シリルのバスドラムとシンバルワークも存在感がある。

如何な個性であろうと、混在する場と主張する場とが、その時その時で拓かれている。はじめて聴いたときにはやかましいとしか思わなかったが、いまではロマンチックにすら感じられる。

実際の社会やコミュニケーションもこんな風だったらいいのに。

●参照
セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット
イマジン・ザ・サウンド(セシル・テイラーの映像)
ドン・チェリーの『Live at the Cafe Monmartre 1966』とESPサンプラー
カーラ・ブレイ+スティーヴ・スワロウ『DUETS』、渋谷毅オーケストラ


セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット

2011-01-02 22:45:16 | アヴァンギャルド・ジャズ

ブラックセイントやソウルノートからLP・CDを出しているジャズマンの安価なボックスセットが最近いくつか出ていて、ヘンリー・スレッギルのものは(リマスターの文句に動揺したが)全部持っているのでパス、他にチャーリー・ヘイデンのものなんか欲しいと思っている。まずはセシル・テイラーの5枚組を入手した。どれも聴いたことがなかったのでこれは嬉しい。今日、この5枚を日がな聴いていた。

セシル・テイラーは強靭、超人である。構造にもセグメントにも恐ろしいほどの力が漲っている。どこかでセシル・テイラーがキース・ジャレットのことを坊や呼ばわりしていた記憶があるが、彼の前には誰でも坊やである。

ピアノソロは『Olim』(1986年)、ジミー・ライオンズの魂に捧げられている。最初に長尺のソロがあり、耳が釘付けになる。

マックス・ローチ(ドラムス)とのデュオ2枚組、『Historic Concert』(1979年)は、両者の個性がかち合っている。マックス・ローチも構造主義的といえばそう言えなくもない。2枚目にはふたりのインタヴューが収録されており、マックスはセシルのことを「Strong Force」、セシルはマックスのことを「elastic」などと評していて、確かにその通りなのだった。マックスの音がさまざまなパーカッションにより多彩になってきた後半、セシルは抒情的に攻める。

『Winged Serpent』(1984年)はメンバーが豪華で、エンリコ・ラヴァ+トマス・スタンコ(トランペット)、ジミー・ライオンズ(アルトサックス)、フランク・ライト+ジョン・チカイ(テナーサックス)、ギュンター・ハンペル(バリトンサックス、バスクラリネット)、ウィリアム・パーカー(ベース)など11人編成。4曲それぞれコンパクトにまとまってはいるが、チカイの詰まったような音やライトのでろでろと垂れ流す音など聴きどころが多い。

そして最も印象的だったのが、『Olu Iwa』(1986年)。これも『Olim』同様、86年に亡くなったジミー・ライオンズの記憶に捧げられている。1曲目はペーター・ブロッツマン(テナーサックス、タロガド)、フランク・ライト(テナーサックス)、アール・マッキンタイア(トロンボーン)、サーマン・バーカー(マリンバ)、ウィリアム・パーカー(ベース)、スティーヴ・マッコール(ドラムス)という凄い面々。最初はバーカーのマリンバが目立つ大人しめの演奏だが、次第に皆、構造的かつ野獣的に暴れはじめる。その中でのピアノとパーカーのベースの存在感が際立ちまくっている。2曲目はバーカー+ピアノトリオであり、シンプルな編成とは思えないカタルシスが得られる。

セシル・テイラーはいつだって素晴らしい。


セシル・テイラーとトニー・オクスレー、アントワープ(2004年) Leica M3, Summitar 50mm/f2.0, スペリア1600

●参照
イマジン・ザ・サウンド(セシル・テイラーの映像)

徐京植『ディアスポラ紀行』

2011-01-02 18:42:29 | 韓国・朝鮮

徐京植『ディアスポラ紀行 ―追放された者のまなざし―』(岩波新書、2005年)を読む。

著者は在日コリアン2世である。拠って立つ母国や母語、共同体、文化を故郷とするならば、それらからマイノリティの立場に追いやられ、石もて追われてしまうディアスポラたちを、その眼から視て思索した書である。それは、在日コリアンのみならず、ナチの絶滅収容所を生き延びたプリーモ・レーヴィであり、ナチから逃れたシュテファン・ツヴァイクであり、カール・マルクスであり、光州を生き延びた者たちであり、ピノチェト圧政下のチリから逃れた者たちであり、その他数えきれないほどの者たちであった。

「彼らは、新たに流れ着いた共同体で常にマイノリティの地位におかれ、ほとんどの場合、知識や教養を身につける機会からも遠ざけられている。そうした困難を乗り越えて言葉を発することができたとしても、それを解釈し消費する権力は常にマジョリティが握っている。その訴えがマジョリティにとって心地よいものであれば相手にされるが、そうでない場合には冷然と黙殺されるのだ。」

アイデンティティは常に受苦とともに揺れ動き、著者ですら、ディアスポラであった故に光州に居なかった事実をもって、「つねに変化の「外」に身を置き続けていたのではないか」、と自問している。

レーヴィはイスラエルという国家の存在を必要としつつも、その後強まった攻撃的なナショナリズムを憂慮し、ディアスポラのユダヤ人にはそれに「抵抗する責任」があり、かつ「寛容思想の系統」を守るべきだと主張している。だが、ナショナリズムに関してそのような声は圧倒的に小さい。70年代、軍政下の韓国でこんな詩を書いた金芝河さえ、その後、ナショナリズムの陥穽にはまってしまったという。

「夜明けの路地裏で
おまえの名を書く 民主主義よ
ぼくの頭はおまえを忘れて久しい
ぼくの頭がおまえを忘れて あまりに あまりに久しい
ただひと筋の
灼けつく胸の渇きの記憶が
おまえの名をそっと書かせる 民主主義よ」
(金芝河『灼けつく渇きで』より)

著者は、ベネディクト・アンダーソンを引用し、ナショナリズムに関してこう言う。「死者への弔い」が、たえず「他者」を想像し、それとの差異を強調し、それを排除しながら、「鬼気せまる国民的想像力」によって、近代のナショナリズムを強固にしているのだ、と。この、かけがえのない「死」とナショナリズムとの関係には動揺させられるものがある。

「自分はたまたま生まれ、たまたま死ぬのだ、ひとりで生き、ひとりで死ぬ、死んだあとは無だ―――そういう考えに立つことができるかどうかに、ナショナリズムへの眩暈から立ち直ることができるかどうかは、かかっている。」

レーヴィと同様にアウシュビッツに送られたジャン・アメリーは、ユダヤ人であるという運命を引き受け、同時にその運命に反抗を企てることを自分に課した。そのために必要なことは「殴り返す」ことだった。自らの尊厳を主張するために「殴り返す」。

ドゥルーズ/ガタリのいう分子状の生成変化、すなわち<他者になる>ことは、いかに可能だろうか。<私>は、<私>に押しつけられた不条理な運命を「殴り返す」ことができるだろうか、べきだろうか。<他者>に押しつけられた運命をいかに「殴り返す」ことができるだろうか、べきだろうか。そんなことを考える。

●参照
T・K生『韓国からの通信』、川本博康『今こそ自由を!金大中氏らを救おう』(光州事件の映像)
四方田犬彦『ソウルの風景』(光州事件)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)


セディク・バルマク『アフガン零年/OSAMA』

2011-01-02 11:19:16 | 中東・アフリカ

昨年末にNHKで再放送された、セディク・バルマク『アフガン零年/OSAMA』(2003年)を観る。

米国介入によるカルザイ政権成立後であり、その状況が描かれているのかと思いきや、ここにあるのはタリバン政権時の姿である。

女性は外に出てはならない。顔や足を見せてはならない。貧しくてもそのことを口に出してはならない。一方的に結婚相手を指定され、幽閉される。婚礼行事も厳しくタリバンに監視される。そして見えないところでは、タリバンを呪う唄を呟いている。

その一方では、男や少年は宗教教育により囲い込む。貧しい少女は、働くために髪を切り、外に出されてしまう。しかしタリバンに捕まり、やがて、女であることが発覚する。裁判では死罪ではなく大目に見られ、老人の妻として連れて行かれる。

告発の、記憶のためのフィルムとしてインパクトが大きいが、映画としてはさほど見るべき点はない。

映画に寄せたコメントとしてこんなものがある。「結末は、プツンとブチ切れるように唐突で、「タリバンがいなくなったのだから、もう少し明るい終わり方をすればいいのに」と、やりきれない思いが苦く長く残る。」(高野孟)

しかし今もタリバンはいなくなってはいない。「悪を滅ぼす」といった考え方では何も解決していない。いまだ、「プツンとブチ切れるように唐突」な結末を持つ映画が現在形であるということか。折角のNHK放送であるから、コメンテーターによる解説が必要だった。

●参照 アフガニスタン
モフセン・マフマルバフ『カンダハール』
モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』
中東の今と日本 私たちに何ができるか(2010/11/23)
ソ連のアフガニスタン侵攻 30年の後(2009/6/6)
『復興資金はどこに消えた』 アフガンの闇
ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』(アフガンロケ)
『アフガン零年』公式サイト


梁石日『魂の流れゆく果て』

2011-01-02 00:43:16 | 韓国・朝鮮

梁石日『魂の流れゆく果て』(光文社文庫、原著2001年)を読む。書店でふと手に取ってみると、金時鐘金石範のことが書かれていたからだ。梁石日の作品は何かひとつ読んだことがある程度だ。

凄まじい半生である。大阪での事業失敗と東北放浪を経て、新宿中央公園に辿り着く。数日間何も喰えず、残飯に手を出しかけたとき、風に飛ばされてきたスポーツ新聞にタクシードライバー募集の文字を見る。そして10年間、タクシーを運転することになる。

それにしても赤裸々な文章だ。そんな中でも、屋台を引く金石範を含め、ひととの濃密な付き合いはあまりにも人間的で、惹かれないわけにはいかない。そうか、『血と骨』の舞台は鶴橋なのか。


鶴橋(2010年7月)

●参照
金石範『新編「在日」の思想』
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』(大阪市生野区)
林海象『大阪ラブ&ソウル』(鶴橋)
鶴橋でホルモン


堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』

2011-01-01 22:32:43 | 関東

年末年始に、堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』(集英社文庫、原著1968年)を読む。

新宿歌舞伎町のジャズバー「ナルシス」が舞台のひとつである。小説では1936年末か1937年、「角筈二丁目の、女郎屋街にほど近い、小さくて暗いスタンドバー」とある。調べてみると角筈二丁目は現在の西新宿一丁目。『朝日新聞』2001/8/27での先代ママ・川島フヂエさんの追悼記事によると、1938年に伊勢丹裏に開店し3回引っ越したとあるから、時期も場所も少し違っている。

その先代ママだが、小説では「万年女学生」のようだと描かれ、「川島藤江」という名となっている。今の川島ママに先代ママの写真を見せていただいたことがあって、実際にとても綺麗な方なのだった。作品のウラ話なんかも、こんどナルシスに足を運んだら聴いてみたい。


先代ママの追悼記事(朝日新聞2001/8/27)

戦争が進むにつれ、ナルシスに集うインテリや詩人や文化人たちのある者は拘束され獄死、ある者は国粋主義に走り、ある者は精神を追い詰められていく。若者は堀田善衛本人であり、自伝であるだけに、この感覚には鬼気迫るものがある。

「しかも、はじめられた戦争が、まるで自分のもの、ででもあるかのような口振りが見えていた。それは明らかに、十二月九日の夕方にやってきた刑事のことば、「どうだ、やったろう!」と同じものであった。一国民の全体に襲いかかっている戦争を、あたかも自分だけのものであるかのように所有をすることが出来るということが、若者にはなんとしても不思議なことであった。」

「未曾有の大戦争をしている国に生きていて、若者はその時間を、なんだか暇だなあ、と思っていたのであったが、それは暇なのではなくて本当は澱んでいて鈍いのだ、と認識する。また時代とそのなかに在る若者たち自身の姿について、これだけの凝視は到底おれには出来ていなかった、と知った。また左翼にも、いかなる意味でもこうした認識はなかった。」

「それにしても、と男は思うのである。生命までをよこせというなら、それ相応の例を尽くすべきものであろう、と。これでもって天皇陛下万歳で死ねというわけか。それは眺めていて背筋が寒くなるほどの無礼なものであった。」

ナルシスで働く「マドンナ」という女性は、若者と寝るも、かつて全裸で酷い拷問を受けた記憶が蘇って来て、受け入れることができない。左翼の夫が去った家で、毎日煙だらけになって風呂を焚く。奇妙に抒情的な描写である。そして常連が次々に居なくなったナルシスで、マドンナは絶望し、毎日佇む。何とも言えず胸を衝くくだりがある。

「肩まで垂れた髪がはらりと前にあつまって来て窪んだ青白い頬をかくし、従って伏せた眼と寸のつまった鼻と受け口な唇だけしかが見えなくなった。
 しかもその顔は男のすぐ眼の前にある。冬の皇帝は突然ブンカ、ブンカ、マーモルモセーメルモを中止して、
 「キッスしろよな。人は愛しあって生きて行かなけりゃあなりません」
 と言い、それだけ言うとまたブンカ、ブンカをはじめた。
 (略) マドンナは、もう完全に絶望しているのであった。頼れるもの、希望を託すべきものがまったくなくなってしまったのである。」

この「冬の皇帝」は田村隆一をモデルにしているそうで、ナルシスのカウンター向こう、目立つところにも、田村隆一の色紙がある。

いまは
 どこにも
  住んでいないの
          隆一

●参照
新宿という街 「どん底」と「ナルシス」
歌舞伎町の「ナルシス」、「いまはどこにも住んでいないの」
堀田善衛『インドで考えたこと』


モフセン・マフマルバフ『カンダハール』

2011-01-01 19:20:16 | 中東・アフリカ

モフセン・マフマルバフ『カンダハール』(2001年)を観る。「9・11」直前、タリバン政権下のアフガニスタン。カナダ在住のアフガン女性が、カンダハールに住む妹から手紙を受け取る。足を失い、女性に閉塞的な社会にあって希望を失い、次の日食の日に自殺するのだという。女性はカンダハールを目指すが、女性一人での旅はあまりにも危険で難しい。

ヘリで近づく山岳地帯と砂漠、その下ではすべての女性が顔を隠している。マフマルバフの発言録『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(現代企画室、2001年)では、その布が抑圧の象徴なのだとマフマルバフは主張する。人口の半分が視えても視えない存在であることが、自分の社会からかけ離れた常識であることは理解できるが、それだけを取り出して絶対的な問題とみなすべきかどうかについては感覚的にわからない。映画においても、女性たちだけの中ではマニキュアを塗ったり布の下で口紅をつけたりしているだけに。

むしろ、タリバンが貧しい家庭を囲い込み、子どもたちに宗教教育(とはいっても、カラシニコフの使い方も含まれる)を施す姿、地雷により足を失った者たちへの義足供与が追いつかない姿に掴まれる。この後の米国介入、カルザイ政権下でのタリバン再復活を経た今、どのように状況が変わっているのだろう。

カメラの画角が狭いことには少なからず違和感を覚える。このクローズ・アップはマフマルバフの視線か。

●参照
モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』
中東の今と日本 私たちに何ができるか(2010/11/23)
ソ連のアフガニスタン侵攻 30年の後(2009/6/6)
『復興資金はどこに消えた』 アフガンの闇

●参照 イラン映画
カマル・タブリーズィー『テヘラン悪ガキ日記』『風の絨毯』、マジッド・マジディ『運動靴と赤い金魚』
サミラ・マフマルバフ『ブラックボード』(マフマルバフの娘)
バフマン・ゴバディ(1) 『酔っぱらった馬の時間』
バフマン・ゴバディ(2) 『ペルシャ猫を誰も知らない』
バフマン・ゴバディ(3) 『半月』
バフマン・ゴバディ(4) 『亀も空を飛ぶ』
ジャファール・パナヒ『白い風船』
アッバス・キアロスタミ『トラベラー』
アッバス・キアロスタミ『桜桃の味』


ジョー・ヘンダーソン+KANKAWA『JAZZ TIME II』、ウィリアム・パーカー『Uncle Joe's Spirit House』

2011-01-01 08:37:16 | アヴァンギャルド・ジャズ

2004年だったか、ゲイリー・バーツ(アルトサックス)がKANKAWA(オルガン)と共演するというので、原宿に聴きに出かけた。バーツのソウルフルなグループ「ントゥ・トゥループ」が割と気にいっていたこともあった。ところが、音色以外に聴くべきところはなく、幻滅してバーツの作品すべてを手放してしまった。KANKAWAはケレン味たっぷり、何だかよくわからず判断保留、それ以来聴いていなかった。

そんなわけで、ジョー・ヘンダーソン+KANKAWA『JAZZ TIME II』(&Forest Music、録音1987年)を中古店で見つけて入手してしまった。こんなセッションがあったとは。ジョーヘンも、亡くなるちょっと前にブルーノート東京に来るというので予約しようと考えていたらキャンセルになり、結局は実際に聴くことができなかった存在である。

メンバーは、ジョーヘン(テナーサックス)、KANKAWA(オルガン)の他に、ドラムスと、曲によって杉本喜代志(ギター)。そういえばバーツとのセッションのときは、小沼ようすけ(ギター)が飄々と入ってきていたなあ。

ジョーヘンはいつだって変わらない。日本でのライヴのせいか、「Softly as in a Morning Sunrise」、「Recorda Me」、「Stella by Starlight」、「Blue Bossa」と名曲揃い。それはそれとして、KANKAWAの音がどうにも耳に刺さってこない。何かと考えたら、ベースとなるリズム感が緩く、そのうえでアナーキーなプレイをやるものだから、なのだ。やはり締めるところはタイトに締めるほうが好みである。

昨年聴いたオルガンもので良かった盤は、ウィリアム・パーカー『Uncle Joe's Spirit House』(Centering Records、録音2010年)である。ジャケットで判断する限りでは、古き良き黒人音楽、協会、オルガン。ウィリアム・パーカーは、セシル・テイラーとの共演などのハードコアやカーティス・メイフィールド集など本当に多彩なベーシストである。

メンバーは、パーカー(ベース)の他に、ダリル・フォスター(テナーサックス)、クーパー・ムーア(オルガン)、ジェラルド・クリーヴァー(ドラムス)というサックス+オルガンカルテット。聴いてみると、最初の思い込みほど単一な世界ではない。盤は、ゴキゲンな「Uncle Joe's Spirit House」から始まる。ボサノバリズムの奇妙な「Ennio's Tag」ではフォスターの臭っさいテナーが充満する(勿論、誉め言葉)。現代の聖歌だとする「Let's Go Down to the River」も良い。オルガンもこうでなくてはね。

そして個人的な白眉は、市民権と自由を求めて日々闘わざるを得ない人々に捧げたという「The Struggle」だ。ここでフォスターのフラジオ奏法によるテナーは、まるでマックス・ローチの盤におけるアビー・リンカーンの叫び声のように、想いを天と地に向けて噴出させる。

パーカーのエッジが効いた硬いベースの音とともに、フォスターのテナーに魅せられてしまった。