Sightsong

自縄自縛日記

熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』

2012-06-09 11:45:53 | 九州

熊谷博子『むかし原発いま炭鉱 炭都[三池]から日本を掘る』(中央公論新社、2012年)を読む。

著者の熊谷氏は、ドキュメンタリー映画『三池 終わらない炭鉱の物語』(2005年)の監督であり、本書も主にその製作時に得られたことが中心に記述されている。「むかし炭鉱、いま原発」ではない、今こそ「炭鉱」なる過去を凝視しようとの意図である。

勿論、著者は東日本大震災の原発事故を機に、現在の原発をめぐる社会にかつての炭鉱を重ね合わせているのでもある。「情報を隠して出さない今の政府を当時の政府に、電力会社を鉱山会社に、マスコミなどで”安全”を主張、解説をする原子力工学や医学の専門家たちを、当時の政府調査団の団長ら、御用学者と言われた鉱山学者たちに置き換えるだけでいい」と。私たちも、不幸なことに、もはや原発問題を通じずに炭鉱を視ることは不可能となっている。

映画『三池』を観ながら疑問に感じていたこと、判然としなかったことについて、さまざまな発見があった。

上野英信、山本作兵衛、勅使河原宏『おとし穴』などが描いた北九州の筑豊と、大牟田の三池との違い。筑豊には貧しく小さな「コヤマ」が多く、夜逃げによって「ケツを割って」、ヤマからヤマへと渡り歩く坑夫たちが多かった。三池は日本最大手であり、それとは様相が異なった。坑道が大きく広がり、駅もある坑道列車で長い時間をかけて移動するのは、三池の姿であり、筑豊の姿ではなかった、というわけである。三池で1930年に女性の坑内労働が禁止されても、筑豊の女性たちはずっと働き続けていた(法律では1933年に禁止)。本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(1956年)において描かれた阿蘇の炭鉱(実際には存在しなかった)も、三池的だったのだろう。

『三池』においては、労働組合分裂後、企業側に立った第二組合(新労)のメンバーの声がかなり多く、「ためにする」映画でないことに新鮮な驚きを覚えたのだったが、そのことについても書かれている。三池労組=英雄、新労=裏切り者、という定着した考えを認識しつつ、まずは難しい新労側から撮ったのだという。これがなければ、告発映画と化していた。勿論、その場合でも意義はあるのだろうが、記憶の共有として広く使われるためには、この方がよかったのだろう。実際、新労側で動いた人物へのインタビューで、オカネを払ったのかと監督が訊ねたときの10秒あまりの沈黙は怖ろしいほど迫真的であり、現地の上映でも、観る者が固唾を呑んでいたという。

勉強会を通じて組合を指導した向坂逸郎氏について、「争議のみじめさは向坂学級のせいだ」という女性の発言。これにも驚かされ、三里塚や福島での「有識者」の役割と重ね合わせてみてしまったのだったが、これは映画完成後かなりの物議をかもしたのだという。福岡の映画館ではこの部分で拍手が起きたり、映画の掲示板では削除してくれとの書き込みがあったり、と。大きな社会問題において、「有識者」は、場合によって「知性」や「良心」であったり、「御用学者」であったりする。これをクローズアップすれば興味深い分析になるかもしれない。

全国に数多く存在する「雇用促進住宅」。わたしの育った田舎にも、小学生のとき突然建てられ、あれは何だろうと思ったが、周りの大人は誰も適切な答えをくれなかった(最近訊ねたら、ほとんど入居していないと聞いた)。もともとは、炭鉱閉鎖にともなって都市部に流入してきた労働者のために、自立支援政策として始められた事業であった。本書でも、著者は、かつて三池から元炭鉱労働者たちが流れてきた八王子の雇用促進住宅を訪ねている。

三池での炭塵爆発(1963年)とその後のCO中毒患者のこと。本来の事故原因は、石炭の水分が増えてしまうのを嫌い、会社側が安全対策で行うべき散水を行っていなかったことにあった。しかし、やはりここでも、原因を隠蔽する力とその手先になる御用学者がおり、真相を明らかにしようとする者を潰そうとしていた。ここで著者は、東日本大震災での状況と重ね合わせて、次のように書いている。

「当時の山田元学長を連想させる学者たちが、マスメディアに出ては原発の”安全性”を力説していた。
 これだけの人災で、まだ原因究明すらきちんとできていないのに、経済優先で運転再開を急ごうとする人々の姿も同じだった。
 ただ違うのは、インターネットなどを通じ、荒木さんのように気骨のある学者の存在と意見が、私たちのもとに届くことだ。」

映画では、三池における与論島からの移住者、強制連行された朝鮮人と中国人についても、当事者の証言をもとに描かれている。本書の記述はさらに詳しい。1908年の三池港完成にともない三池に再移住した与論島出身者たちは、差別的な待遇と視線のもと、前近代的な肉体労働を受け持った(1942年まで下請け専門)。彼らの差別待遇の相対的な改善は、朝鮮人強制連行(1942年~)、中国人強制連行(1944年~)に伴うものでもあった。政府と企業による犯罪であった。このことに対する補償は、政府間の約束や法的な制約をたてになされていない。

勿論、三池だけではない。わたしの故郷の近く、宇部は石炭のまちであった。山口の長生炭鉱も事故で多くの犠牲者を出しているが、人々はここを「朝鮮炭鉱」と呼んだという。このようなことを何も知らない自分を恥じてしまう。

本書も、そのもととなった映画『三池』も、示唆するところが非常に多い。著者の次のような記述を読むと、それも当然かと思えてくる。

「国のあり方も、労使の関係も、職場の安全も、自然との闘いも、地方の経済も、産業の発展も、政治も戦争も、差別も、文化遺産も・・・・・・。
 いわば日本がつまっているのだ。」

●参照
熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』
上野英信『追われゆく坑夫たち』
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』
勅使河原宏『おとし穴(九州の炭鉱)
本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(九州の炭鉱)
『科学』の有明海特集
下村兼史『或日の干潟』(有明海や三番瀬の映像)
『有明海の干潟漁』(有明海の驚異的な漁法)
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
石牟礼道子+伊藤比呂美『死を想う』
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想(石牟礼道子との対談)


中村哲医師講演会「アフガン60万農民の命の水」

2012-06-08 07:22:59 | 中東・アフリカ

中村哲医師講演会「アフガン60万農民の命の水」(2012/6/7、セシオン杉並)に足を運んだ。(編集者のSさんから写真係を拝命したのだった。)

中村哲さんは、「ペシャワール会」を率いて(ペシャワールはパキスタン北西部の都市)、現地のハンセン病対策や灌漑の推進に取り組んでいる。パキスタンでの活動が困難ゆえ、現在のフィールドはアフガニスタンである。

田中良・杉並区長、保坂展人・世田谷区長の挨拶のあと、中村さんは、スライドを用いてゆっくりとした口調で話をした。

2000年以降、アフガニスタンの干ばつは想像を絶するひどさのようだ。村ひとつがまるごと消えることも珍しくないという。中村さんは、「アフガニスタンは政治によってではなく干ばつによって滅びる」との警告を発する。水がなければ当然食べ物もできない。

アフガニスタン北部のヒンドゥークシュ山脈は雪で覆われている。特に温暖化が進んだ結果、一気に水が流れ出て洪水を引き起こし、それは破壊のあとに消え去ってしまう。従って、必要なのは、洪水に耐えうる定常的な表流水の存在だということになる。ペシャワール会は、そのために灌漑の支援を行っている。乾燥してひびわれた土地であったところが、数年後、緑に覆われた写真を次々に見せられ、会場からは感嘆の声があがった。

灌漑の方法は非常に興味深い。例えば水路や護岸工事にはコンクリートを使うのではなく、現地での調達もメンテナンスも可能な石を使う(アフガニスタン人は石を扱うことが大好きだ、ということだ)。これをワイヤーで編んだ籠に入れ、うまく積み上げていく。ワイヤーは何年も経つと錆びてしまうが、同時に、石を保持するような植生も整備する。

また、洪水で決壊しないよう、筑後川の「斜め堰」をモデルにした堰を建設し、成功しているという。近代的な堰などではなく、江戸時代につくられた古来の土木工法である。中村さんは「自然に謙虚にならねばならない」というが、まさに、自然との対話の結果、昔の人が保持していた技術である。やはり江戸時代につくられた吉野川の「第十堰」が、自然環境と調和し、治水上も立派な機能を果たしていることを思い出した。非常に愉快なことだ。

中村さんは、2001年「9・11」以降の米国介入により、ケシ栽培、売春、貧困が目立って増加したと憂える(誤爆などの直接被害は言うまでもない)。しかしその一方で、外国人は過度に立ち入ってはいけないとして、現地の政治批判は控えていた。これもひとつの見識かと思えた。

打ち上げにも参加させてもらい愉しい時間を過ごした。

●参照
姫野雅義『第十堰日誌』 吉野川可動堰阻止の記録
『タリバンに売られた娘』
セディク・バルマク『アフガン零年/OSAMA』
モフセン・マフマルバフ『カンダハール』
モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』
中東の今と日本 私たちに何ができるか(2010/11/23)
ソ連のアフガニスタン侵攻 30年の後(2009/6/6)
『復興資金はどこに消えた』 アフガンの闇
イエジー・スコリモフスキ『エッセンシャル・キリング』
ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』(アフガンロケ)


熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』

2012-06-07 13:09:20 | 九州

熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』(2005年)を観る。

福岡県大牟田市を中心とした三池炭鉱のドキュメンタリーである。撮影を担当した大津幸四郎は、三里塚、水俣、沖縄、大野一雄とさまざまな場でカメラを抱えていたことになる。その大津幸四郎もカメラマンを務めたことがある故・土本典昭は、「撮るということは抱きしめるということだ」という言葉を残したという。映画のなかで、熊谷監督も、坑口のレンガを触り、たて坑跡の上に耳をつけてその音を聴き、身体での映画の捕捉を試みているようだ。福岡独自の「・・・からですね」という方言を多く収めているのも、身体的だといえる。

次第に取り壊されてはいるものの、現在でも、近代化遺産と言うべき炭鉱施設の跡が残されている。映画では、それを「巨大な地下帝国」と表現している。二十あまりの坑口があり、坑道は有明海の地下深くにまで及び(人工島もあった)、深いところは地下600m以下、そして坑内列車で坑口から1時間かかるところもあった。石炭の出荷のために建設された三池港では、石炭でクレーンを動かす船「大金剛丸」や、遠浅でも直に接岸するための大型水門がまだ稼働している。また、三池炭鉱専用鉄道は、いまは化学工場に原料を運ぶために運用されている。有明海の地下では人びとが生死の境目で石炭を掘っていたとは、思いもよらないことだった。

明治になり、1873年に国営の三池炭鉱が事業開始する。初代事務長は米国で鉱山学を学んだ團琢磨という人物で、彼が「三池式快速石炭船積機(ダンクロ・ローダー)」や三池港の開発を指揮した。しかし、話は、そのような産業のハード面だけで語られるべきものではない。

当時から囚人労働が行われ、それは1889年に三井に払い下げられ民営化されても続いた(~1930年)。囚人が収容されていた「三池集治監」(現在は三池工高)から、毎日朝夕、囚人たちが手首を紐でつながれ、坑口との間を行き来した道は「囚徒道」と呼ばれた。釈放されても、囚人たちは他に行くところもなく、炭鉱労働者として住みついたという。わたしも、北九州や大牟田あたりを「荒っぽい気風の土地」だと表現する人に接することがあるが、そのような伝聞的な言い回しはともかく、確実に地域の歴史を作ったのであった。

あまりにも厳しい労働をしたのは一般の炭鉱労働者や囚人だけではない。与論島から台風や飢饉を逃れてやってきた集団移住者(1899年~)は、特定の地域に住み、しばらくは下請けばかりに回された。そして、朝鮮からは、現地の一村から2-3名割り当てられて強制連行(1942年~)され、賃金ゼロでただ働きさせられた。戦争末期には、さらに中国からも2000人以上が連行された。植民地だけではなく、1000人以上の欧米人捕虜も過酷な労働に従事させられた。映画では、自らが働かされた炭鉱に戻ってきた人たちの声を記録している。勿論、彼らへの戦後補償はなされていない。

戦後。日本は復興のため、鉄と石炭への傾斜生産を行った。しかし、1950年代からの石油への転換と合理化の嵐により、労働者はさらなる苦境に立たされることとなり、企業は1200名以上の指名解雇を通告する(1959年)。三池争議(1960年)のきっかけである。そこから、労働組合は、これを許せないと拒否する者と、諦めて条件闘争に与する者とに分裂し、いがみ合った。勅使河原宏『おとし穴』(1962年)でも描かれている事態である。

映画では、熊谷監督は、両方の組合の方々にインタビューを行っている。「ためにする」映画ではない、凄いことだ。それゆえ、大資本のみを悪とみなすのではなく、さまざまな見方や立場があったことが示されている。例えば企業側についた第二組合の方は、このままだと誰も食べて行けず、第一組合が、総評(現在は連合に合流)を介して、その闘いから退いた人の名簿をもって新たな仕事につけないようにしたのだと告発する。また、三池主婦会に所属した方は、当時勉強会を行った向坂逸郎(当時九大教授)を非難し、その後労働者たちがみじめになったのは向坂先生が机上の勉強だけで指導したからだ、と言う。勿論、一方的な首切りに抗った人びとの理も言うまでもない。簡単なストーリーで過去を振り返ることなどできない、ということだ。

1963年、一つの坑道で、炭塵爆発が起きる。458人が亡くなり、助かった何百人もの人も、CO中毒による障害、精神症状や性格変化などの後遺症に苦しめられている。労災は3年で打ち切られてしまうため、労働者の家族たちは、1967年、「CO特別立法」を求めて座り込みを行う。それは成立するも、不十分な内容であったという。わたしも、中国でいまだ頻発する炭坑爆発のことを仕事で書くことがあったが、日本とは別の話との思いだった。そうではない。現在でも問題は終わっていない。

このすぐれたドキュメンタリー映画を観て痛感するのは、沖縄でも、三里塚でも、水俣でも、またおそらくは他のさまざまな場所で行われてきた国家の棄民政策の実態である。有識者の介入が解決につながりにくいことも、共通している。

●参照
上野英信『追われゆく坑夫たち』
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』
勅使河原宏『おとし穴』(九州の炭鉱)
本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(九州の炭鉱)
『科学』の有明海特集
下村兼史『或日の干潟』(有明海や三番瀬の映像)
『有明海の干潟漁』(有明海の驚異的な漁法)
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
石牟礼道子+伊藤比呂美『死を想う』
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想(石牟礼道子との対談)


平良孝七『沖縄カンカラ三線』

2012-06-06 23:20:56 | 沖縄

平良孝七『沖縄カンカラ三線』(三一書房、1982年)は、1961年から81年に沖縄で撮られたスナップ群、そして、沖縄史に名を残す諸氏のポートレート群の2部構成からなる。

白黒プリントは硬すぎず柔らかすぎず。勿論、沖縄であるからピーカンでも撮られているが、それでも適度な柔らかさを保っている。ことさらにフィルムの粗粒子を見せつけることもない。無理に網膜に焼きつけようとするプリントではなく、とても好みだ。もっとも、たまに空の焼きこみが大袈裟で、印画紙を擦ったのかなと思われるような箇所もある。

スナップは巧みである。やや視線をそらし、かと言って木村伊兵衛のように完全に写真家自身の存在感を消し去ったわけではなく、丁寧に、視たものを捉えている印象がある。この写真家は、「ためにする」写真とは遠い場所に立つ、極めて誠実な人だったのではないかと確信させられるものがある。

ポートレイトもその場と個性とを同時にとらえており、素晴らしいものだ。(むしろこれは、職業写真家としての腕として評価すべきかもしれない。)


巧い


この少女の顔をアイコン的にとらえてはならない


瀬長亀次郎

仲里効『フォトネシア』(未来社、2009年)に、平良孝七についての小論が収録されている。それによれば、平良は、かつて沖縄問題や返還運動に身を投じ、<カメラで訴える>という、<武器としての写真>のスタンスであった。しかし、社会はそればかりではない。都合のよい<告発>が無効化したとき、平良は<むなしさ>を感じたという。そして写真家は、<ただ視る>ことを実践するようになった。

<ただ視る>ことは、格闘の結果獲得されたものである。政治や社会を語る写真をどう評価すべきなのか。この写真集はその答えのひとつであるのかもしれない。

●沖縄写真
仲里効『フォトネシア』
沖縄・プリズム1872-2008
石川真生『日の丸を視る目』、『FENCES, OKINAWA』、『港町エレジー』
石川真生『Laugh it off !』、山本英夫『沖縄・辺野古”この海と生きる”』
東松照明『南島ハテルマ』
東松照明『長崎曼荼羅』
「岡本太郎・東松照明 まなざしの向こう側」(沖縄県立博物館・美術館)
豊里友行『沖縄1999-2010』、比嘉康雄、東松照明
豊里友行『彫刻家 金城実の世界』、『ちゃーすが!? 沖縄』
豊里友行『沖縄1999-2010 改訂増版』
『LP』の豊里友行特集
比嘉豊光『光るナナムイの神々』『骨の戦世』
比嘉豊光『赤いゴーヤー』
『LP』の「写真家 平敷兼七 追悼」特集
平敷兼七、東松照明+比嘉康雄、大友真志
森口豁『アメリカ世の記憶』


ジャン・ルノワール『浜辺の女』

2012-06-06 00:48:39 | 北米

ジャン・ルノワールがアメリカ亡命時代に撮った映画、『浜辺の女』(1946年)を観る。

中古盤がブックオフで250円だった。昔は、『大いなる幻影』や『ゲームの規則』や『ラ・マルセイエーズ』といったルノワールの代表作も限られた機会にしか観ることができず、ましてや米国時代の作品などなかなか目にする機会がなかった。それが今では廉価盤DVDが250円。時代も変わったものである。

米軍の士官(ロバート・ライアン)は、戦争体験の夢にいつもうなされている。間もなく結婚する予定の女性がいるが、ある日、浜辺で薪を拾っていた女性(ジョーン・ベネット)に魅せられてしまう。女性には失明した画家の夫がいた。士官は、女性をつなぎとめておくために失明したふりをしているだけだと勘繰る。そして対決のときが来る。

何しろ話がデタラメである。伏線も何もあったものではなく、挿入されたエピソードも行き場所を失ってどこかに浮遊する。矛盾やツッコミ所満載なのである。頭の中が「?????」で一杯になってくる。

凡作といってしまえばそれまでなのだが、この隙間だらけのアウラがうっかり油断しているとルノワールの映画的なアウラに転じる(本当)。大らかさもルノワールの魅力なのだ。それに世界なんてデタラメで、それでも存在するものに違いない。


ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』

2012-06-04 23:28:40 | 北米

ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』(新潮社、原著2005年)を読む。

「フォリー」とは愚行、従って、『ブルックリンの愚行の書』といった意味のタイトルだ。

主人公のネイサンは癌の闘病をした挙句に離婚。娘のレイチェルは、父を憎む。若くして急死した妹の息子トムは、知性に満ち溢れ才気煥発、文学の研究者になるつもりだったが、失敗して古本屋で働く。古本屋の主人ハリーは、数奇な人生を送り、裏切られて難死する。トムの妹ローリーは、精神のコントロールを失い、父親のわからない娘ルーシーを連れて失踪、狂信的な新興宗教の信者に監禁される。ルーシーが居場所のわからないローリーの手によりトムの許に送り届けられ、母探しの旅に出たネイサンとトムは、そこでの出会いにより、違った方向に進み始める。

さまざまな人物が登場する群像劇であり、月並みな言い方ながら、そのひとりひとりの人生には歓びと、隠しようのない影とがある。タイトル通り、みんな愚行を繰り返している。それは、わたしを含めた読者にとって、「わたし」に他ならないだろう。

しかも、彼らは、決定的に無名でありながら、決定的に個人である。ここがオースターのメッセージであることは、物語を最後まで読むとわかる。

『ブルー・イン・ザ・フェイス』ほど分裂してはいないが、ブルックリンという、おそらくオースターにとって信を置くことができるコミュニティにおける雑駁なストーリーであり、それらの無数のフラグメンツが天の法則によって相互に引かれあっているような世界だ。その意味では、大きな運命や偶然による人生の軌道破壊を描くいつものオースター作品よりも、肩の力が抜けている。

家族だとか友達だとかいったつながりを所与のものとして描いているのではない。改めて、その創成のプロセスを、悶え苦しむ人たちの姿によって描いている。

都市住民のための、実社会とかけ離れていて、かつ実社会と密着しているような、おとぎ話である。少しだが元気が出た。

●ポール・オースターの主要な小説(リンク)
『Sunset Park』(2010年)
『Invisible』(2009年)
○『Man in the Dark』(2008年)(未読)
『Travels in the Scriptorium』(2007年)
○『ブルックリン・フォリーズ』(2005年)(本書)
『オラクル・ナイト』(2003年)
『幻影の書』(2002年)
『ティンブクトゥ』(1999年)
○『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(1998年)
○『スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス』(1995年)
○『ミスター・ヴァーティゴ』(1994年)
○『リヴァイアサン』(1992年)
○『偶然の音楽』(1990年)
○『ムーン・パレス』(1989年)
『最後の物たちの国で』(1987年)
○『鍵のかかった部屋』(1986年)
○『幽霊たち』(1986年)
『ガラスの街』(1985年)
○『孤独の発明』(1982年)


大林宣彦『SADA』

2012-06-04 07:38:18 | アート・映画

大林宣彦『SADA~戯作・阿部定の生涯』(1998年)を観る。

阿部定事件の映画化だが、テーマに多くの人がきっと求めるであろうものと、大林宣彦の遊び心との相性が最悪。これはひどい。

主演の黒木瞳は悪くないものの、大島渚『愛のコリーダ』(1976年)における松田英子に比べれば、妖しさも艶っぽさも狂気もまるで及ばない。従って、この人に殺される者に共感できるわけもなく、しかもそれは片岡鶴太郎、意味不明である。どうやら葉月里緒菜(いまは葉月里緒奈と改名)が降板したために黒木瞳が選ばれたということで、もし葉月お定が実現していたらもう少しよかったのかな。

ところで、お定の初恋の人がハンセン病のために姿を消し、瀬戸内の島に隔離されるという設定だが、この扱いもいかにも軽い。

●参照
『時をかける少女』 → 原田知世 → 『姑獲鳥の夏』


大島保克『島渡る』、わしたショップでのライヴ

2012-06-03 23:45:54 | 沖縄

大島保克の新作『島渡る』(2012年)が出ている。一応はファンのつもりではあるものの、ジャズピアニスト、ジェフリー・キーザーと共演した前作をどうにも聴く気になれなかったこともあって、買うのは『島めぐり』(2005年)以来だ。

そんなわけで期待とともに発売早々に確保したのだが、一聴、何だか今までと同じだなあという印象を持ってしまい、1ヶ月以上放置していた。銀座わしたショップでのミニライヴを聴きに行こうと丁寧に再聴したところ、端々に新鮮なサウンドが隠れている。前作では企画が前面に出過ぎていたこともあって、また戻ってきたということなのだろうか。長く聴くには大歓迎である。

冒頭の「川」は、大島保克が内里美香に捧げた曲であり、『風のションカネー』(2004年)に収録されている。内里美香のしっとりとして芯のある声が好きなのだが、本人による歌唱も良い。「来夏世」は、鳩間可奈子のために書き下ろした新曲だといい、雲の間からまっすぐに降りてきたような鳩間の唄に感じ入ってしまう(もっと唄えばいいのに)。「流星」は、嘉手苅林昌に捧げた曲であり、『島時間』(2002年)で唄われているのだが、ここでのエレキギターとのデュオが新鮮。代表曲「イラヨイ月夜浜」はオーソドックスな演奏、いつ聴いても気持ちが良い。

銀座わしたショップでのライヴ(2012/6/2)では、近藤研二(ギター、パーカッション)とのデュオで、「川」、「来夏世」、「波照間」、「マンタラ祝」、「流星」なんかを唄った。CDではビブラートが少し弱弱しく聴こえたりもしたのだが、やはりライヴではそんなことはなかった。7年前の同じ場所で、大学卒業直後の鳩間可奈子とのライヴも観ているが、そのときと良い意味で変っていないのだなと思った。

それから、twitter仲間のcaruaru44さんと初めて直接話をすることができたのは嬉しかった。


「川」を唄っている、内里美香『風のションカネー』(2004年)

●参照
大島保克+オルケスタ・ボレ『今どぅ別り』 移民、棄民、基地
諏訪敦彦+イポリット・ジラルド『ユキとニナ』(UA+大島保克「てぃんさぐぬ花」)
高田渡『獏』(大島保克参加)
男鹿和雄展、『第二楽章 沖縄から「ウミガメと少年」』(大島保克参加)
鳩間可奈子の新譜『太陽ぬ子 てぃだぬふぁー』
鳩間可奈子+吉田康子
知名定男芸能生活50周年のコンサート(鳩間可奈子参加)


大島渚『新宿泥棒日記』

2012-06-02 04:02:44 | 関東

夜中のヘンな時間に起きてしまい、大島渚『新宿泥棒日記』(1969年)を観る。もう何度目だろう、とても好きな映画なのだ。


『アートシアター ATG映画の全貌』(夏書館、1986年)より

横尾忠則、唐十郎、麿赤児、李麗仙、高橋鉄、松田政男、それから大島映画常連の佐藤慶、戸浦六宏、渡辺文雄。もはやこれだけで伝説である。

1968年。サイゴン(現・ホーチミン)や那覇との共時性を示しつつ、映画は、強烈な磁場・新宿において展開される。出鱈目で、優柔不断で、実存に不安と不満を抱える者たちが、欲望を漲らせて、新宿に集まってくるのである。わたしのもっとも好きな街、新宿をこのように見せられると、誰の中にも<新宿>というものがあるのだろうな、などと思ってしまう。

その磁場において、膨大なテキストという新たな磁場。ジャン・ジュネ、魯迅、スターリン、吉本隆明、田村隆一、・・・欲望と欲求不満はその中で別の形に変貌していく。

キャスティングも、ドキュメンタリー臭をことさらに出すことも、大島のあざとさ満開だ。登場人物たちが性の権化・高橋鉄の家を訪れて高説を聴く場面などは、シンクロ録音をしながら、敢えて、カメラのモーター音を入れている。ちょうど、小川紳介『三里塚の夏』(1968年)と同時代に、同じ手法が使われていながら、まったく色の異なる映画であることが面白い。

それにしても、このときまだ30歳になる前の唐十郎の迫力は凄い。数年前に井の頭公園でテントの間に座っている氏を見つけ、愚かにも、近寄って、写真を撮ってもよいかと尋ねたことがある。氏はにこりと笑い、あちらの人に訊いてください、と応えた。怖かった。

参照
大島渚『アジアの曙』
大島渚『夏の妹』
大島渚『少年』
大島渚『戦場のメリークリスマス』
中原みすず『初恋』と塙幸成『初恋』
半年ぶりの新宿思い出横丁とゴールデン街
東松照明『新宿騒乱』
平井玄『愛と憎しみの新宿』
新宿という街 「どん底」と「ナルシス」

●参照(ATG)
淺井愼平『キッドナップ・ブルース』
大島渚『夏の妹』
大島渚『少年』
大森一樹『風の歌を聴け』
唐十郎『任侠外伝・玄界灘』
黒木和雄『原子力戦争』
黒木和雄『日本の悪霊』
実相寺昭雄『無常』
新藤兼人『心』
勅使河原宏『おとし穴』
羽仁進『初恋・地獄篇』
森崎東『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』
若松孝二『天使の恍惚』
アラン・レネ『去年マリエンバートで』
グラウベル・ローシャ『アントニオ・ダス・モルテス』


合田正人『レヴィナスを読む』

2012-06-01 07:30:00 | 思想・文学

合田正人『レヴィナスを読む <異常な日常>の思想』(ちくま学芸文庫、原著1999年)を読む。

エマニュアル・レヴィナスはリトアニア出身のユダヤ人哲学者であり、その出自が自身の哲学に大きな影響を及ぼしている。わたしがレヴィナスの『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』(『存在の彼方へ』)を読んだのはわずか1年前のことだが、そのときの驚きが、まだ残響となって残っている。それは多くの人に共通するレヴィナス体験なのかもしれず、著者も、「さまざまな分野で日常の深刻さと格闘する多くの人々がレヴィナスに注目しているのは決して偶然ではない」と述べている。

もっとも、本書全体は「言った、言わない」の細かな検証であり、その意味で、興味を持てない箇所も多々ある。レヴィナス自身による他の著作を読んだほうがよかったのかもしれない。

著者の表現によれば、娑婆は満員電車である。「語りうるものは語られたことである」とする大きな物語に世界や自身を預けるのではなく、すべての要素を並列に置くこと。ならば、この満員電車で、如何に他者と接触し、他者からの予期せぬ攻撃に敢えてわが顔を晒すかという点において、レヴィナスのいう「倫理」が問われる。いかに、「他者性とのアレルギーなき連関」を探っていくかということだ。勿論、実際の、あるいは比喩としての満員電車はこの意味では非倫理であり、それだからこそレヴィナスが求められている。

ただ、著者はレヴィナスを現代逃走論の系譜の筆頭に挙げられるとしている。実際に「逃走論」を書いているとはいえ、これには違和感がある。常に新たな文脈での逃走線を描き、権力構造を無化するという逃走論ではなく、レヴィナスは、権力構造であれ何であれ、死の危険がある顔を晒し続けることを説いたのではなかったか。もっとも、それは、「私は私であらねばならない」という自同律の不快さ、居心地の悪さを意図しており、それが思考の出発点であるかもしれないのだが。

本書において、ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの思想との連関をみていることは興味深い。ヴィトゲンシュタインは、「語りえないことについては沈黙しなければならない」と書いた。「語りうることは、既に語られたことである」の裏返しである。それは、語りえぬこと=予見不可能性の支配する世界でこそ、勇気をもって死を賭すのではなく、死を前提に、顔を晒さなければならないという倫理につながるのであろう。いかなる身振りも、既に類型化されたものであってはならず、ましてや馴れ合いや権力構造の是認であってはならない。暴力と非倫理が充満する満員電車の娑婆において、さまざまな想像の出発点になるものではないか。

●参照
エマニュエル・レヴィナス『倫理と無限』
エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』
ジャック・デリダ『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』
末木文美士『日本仏教の可能性』