ポレポレ東中野に足を運び、本郷義明『徐葆光が見た琉球』(2013年)を観た。最終日だった。
かつて琉球王国は、明国と冊封・朝貢関係にあった。すなわち、独立国でありつつ、中国のゆるやかな傘の下にあった。ところが、1609年、薩摩の島津藩による琉球王国への侵攻があった。その後、琉球王国は、明国・清国と日本の両国に帰属することとなった。(日本は、この体制から、さらに1879年の琉球処分以降、琉球王国を沖縄県として暴力的に支配下に置くことになる。)
この映画では、両国帰属の様子を説明している。明国・清国から使者が来るときには、琉球は、日本の支配を悟られないために看板や文書をすべて隠していた(いまのような情報化時代からは想像しがたいことだ)。ところが、明国・清国も、そのことを気付いていたらしいという。それほどに、「天下」概念に基づく支配のかたちがファジーであったということである。
タイトルにある徐葆光(じょ・ほうこう、但し沖縄では「じょ・ほこう」と呼ばれることが多いらしい)は、18世紀の清国の官僚であり、琉球に渡航・滞在した人物である。彼の生涯や、書き残した文書の歴史的な重要性について、徐葆光研究家の�蘯揚華(う・やんふぁ)さん(>> 「�蘯揚華のニイハオおきなわ」)が愉しそうに語る。徐が詠んだ漢詩を、葛飾北斎が目にして『琉球八景』という作品群を残したのだが、そこは琉球をいちども見たことがない悲しさ、雪が積もっている(!)。
この時代の中琉交流が、その後の沖縄文化につながっているようだ。テビチ、ナーベラー、ラフティー、ちいるんこうなどの食文化も、琉球舞踊も、これをルーツとする。那覇のチャイナタウン・久米村も、このときまですたれていたが、また交流によって復活したという。
いちど、首里城で琉球舞踊が演じられるのを観たことがあったが、あれは、清国からの冊封使をもてなすためのものであったのか。なお、もてなしの宴は、最初は崇元寺(>> リンク)、次は首里城で開かれたらしい。崇元寺の中には、立派なガジュマルがあるが、当時はやはりなかったのだろうな。
ところで、中国文化圏には媽祖(まそ)信仰がある。航海の守護神であり、中国沿岸部のみならず、海上交易のネットワークとともに拡がり、東南アジアにも拡がっている。最近では、東京の大久保に媽祖廟が建立されたというニュースがあった(2013/10/13)(>> リンク)。
沖縄や青森の大間にさえも到来していたということだけは知っていたのだが(姫田光義編『北・東北アジア地域交流史』)、映画によれば、沖縄では媽祖のことを「天妃」と称し、渡来後の中国人が礼拝していた。いま、天妃宮の跡は、天妃小学校(!)に残るという。調べてみると、天妃小学校ホームページの「学校の不思議発見」に、その説明がある。
こんなところからも、琉球が海の王国であったことが実感できるというものだ。面白い。
●参照
○上里隆史『海の王国・琉球』
○上里隆史『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』
○姫田光義編『北・東北アジア地域交流史』
○伊波普猷『古琉球』
○汪暉『世界史のなかの中国』(天下概念)
○汪暉『世界史のなかの中国』(2)(天下概念)