ロラン・バルト『中国旅行ノート』(ちくま学芸文庫、原著1974年)を読む。
バルトが1974年に中国を旅したときに記したメモであり、そのほとんどは思いつきや印象で占められている。いまの眼でみると、このフラグメントのクラスターは、ほとんどtwitterである。ヒトサマに見せるほど練られてはいない。したがって、バルトならではの魔術性はないものの、それでも、これらのクラスターは、中国版『表徴の帝国』に発展しえたのではないかと感じられる。
面白いことに、バルトは、旅の間、歴史や文化の吸収をするわけではなく、ほとんど人の挙動を観察していた。言説の隙間にあるものを抽出しようとしての呟きが、このノートとなったわけである。
1974年、文化大革命の後期。旅で何度も中国側に示されたことは、林彪と孔子に対する批判(批林批孔)であった。既に1971年、林彪は毛沢東に対するクーデターを企て、モンゴルで墜落死している。彼が呼び込もうとした魔の資本主義、そして孔子の旧弊に対する批判であり、いま振り返ってみれば、権力争いの歴史とイデオロギーの変遷しか見えてこない。
バルトは、繰り返されるステレオタイプの常套句にウンザリしつつ、そのような言説がブロックとして発せられる中国論を生み出そうとしていたようにみえる。それがどのような形になったのか、わからないが。
ノートには、ミケランジェロ・アントニオーニが1972年に撮ったドキュメンタリー『中国』についての言及がある。出来あがりを観た毛沢東と江青の逆鱗に触れ、30年間、陽の目をみることがなかった。そして上意下達のメカニズムが当然のように働き、バルトの耳にも届いた。
「老人: 1972年、1人のイタリア人、名前はアントニオーニ・・・・・・ アントニオーニ・・・・・・ アントニオーニ・・・・・・ イタリア人には中国人に対する友愛があるのだが。アントニオーニには裏表がある: 彼は5階建ての家を映したくなかった。彼はあばら家となった博物館(子供への教育のために保存されたもの)を撮影した; アントニオーニは撮影のために土まみれになった! 中国人を中傷している。」
おそらく、この老人の悪態自体が既に常套句と化しているものなのだろう。ただ、Youtubeにアップされている映画を観ると、毛沢東と江青が不快に思ったこともむべなるかなと思える。
>> Michelangelo Antonioni "Cina"
ここでは、北京をはじめ、河南省、蘇州、南京、上海などの風景が映し出されている。当時の王府井や天安門広場の映像など、非常に興味深い。中国との関係の深さに応じて、誰もが古い中国といまも残る中国を見出すに違いない。わたしは「皮膚をなでただけ」ゆえ、それなりである。そして、アントニオーニもそうであった。
当時の中国人たちは、不審な表情でカメラを見つめており、アントニオーニも、己を異物だと自虐的に語っているのである。その挙句に、上海の精製工場について、「大きいだけである」、「ほとんど廃材でつくられている」と、挑発しようとしているのではないかというほどの酷いコメントを付してさえいる。これでは依頼者は怒る。
映画の最後(上海を中心とした第3部)では、もはや、解釈やコメントを放棄して、ひたすらに上海の映像を提示することに努めているようだ。これも面白いと言えないこともない。
ところで、万里の長城において、記念撮影のためにカメラを取り出す人の映像があった。これはライカコピー機の「上海」ではないだろうか。既に江青の肝入りで「紅旗」も存在していたはずだが、そのような超高級機がここに登場するわけはない。