Sightsong

自縄自縛日記

富樫雅彦+三宅榛名+高橋悠治『Live 1989』

2016-07-18 11:43:05 | アヴァンギャルド・ジャズ

富樫雅彦+三宅榛名+高橋悠治『Live 1989』(Studio Songs、1989年)を聴く。

Masahiko Togashi 富樫雅彦 (perc)
Haruna Miyake 三宅榛名 (p, Korg M-1)
Yuji Takahashi 高橋悠治 (Roland D-50, Akai S 950, Apple SE/30)

1989年、深谷のホール・エッグファームでの記録である(当時はいまのホールと違って、古い蔵の2階であったらしい)。

高橋悠治はここではコンピュータに専念しており、三宅榛名が富樫+高橋デュオに加わる形でピアノとシンセを弾いている。

富樫雅彦は唯一無二のパーカッションを叩いており、そこにはピリピリした緊張感はあっても破綻はない。そしてひとつひとつの音が驚くほど美しい。確かに面白い邂逅だったに違いない。しかしこれは模索の記録である。どうしても、高橋悠治が新しモノと戯れず、三宅榛名とふたりでピアノを弾いてくれていたなら、どんなに凄い演奏だったかと思ってしまう。しばしば動悸がするほどの接触があるだけに。

●富樫雅彦
富樫雅彦が亡くなった(2007年)
『富樫雅彦 スティーヴ・レイシー 高橋悠治』(2000年)
内田修ジャズコレクション『高柳昌行』(1981-91年)
富樫雅彦『セッション・イン・パリ VOL. 1 / 2』(1979年)
富樫雅彦『かなたからの声』(1978年)
翠川敬基『完全版・緑色革命』(1976年)
富樫雅彦『風の遺した物語』(1975年)
菊地雅章クインテット『ヘアピン・サーカス』(1972年)
菊地雅章+エルヴィン・ジョーンズ『Hollow Out』(1972年)
小川紳介『1000年刻みの日時計-牧野村物語』(1968年)
『銀巴里セッション 1963年6月26日深夜』(1963年)

●高橋悠治
エヴァン・パーカー+高橋悠治@ホール・エッグファーム(2016年)
ジョン・ブッチャー+高橋悠治@ホール・エッグファーム(2015年)
姜泰煥・高橋悠治・田中泯(2008年)
姜泰煥・高橋悠治・田中泯(2)(2008年)
『富樫雅彦 スティーヴ・レイシー 高橋悠治』(2000年)


アイスピック『Amaranth』

2016-07-17 10:34:25 | アヴァンギャルド・ジャズ

アイスピック『Amaranth』(Monofocus Press、2014年)をアナログ盤で聴く。

Icepick:
Nate Wooley (tp)
Chris Corsano (ds)
Ingebrigt Haker-Flaten (b)

なんて自由でいて、かつ統制が取れた音楽なんだろうという印象を持つ。ジャズのルールにとらわれない演奏は何もいまにはじまったことではないが、どう聴いても現代的。

ネイト・ウーリーは、まるでアンリ・ルソーの絵に描かれた自由の女神のように、中空に浮かんでトランペットを吹く人のようだ。汗と情念ではなく、もっと劇場的なもの、空から鳥瞰する目を持った者のプレイ(それが激しいプレイであっても)。ウーリーの吹きだす音と対等な立場で、クリス・コルサーノの鋭く繊細きわまるドラムス、インゲブリグト・ホーケル・フラーテンの音圧集中型のベースが、実にさまざまな貌を見せる。

あらゆる動物に変身しそうなトリオである。

●ネイト・ウーリー
ネイト・ウーリー+ケン・ヴァンダーマーク『East by Northwest』、『All Directions Home』(2013、15年)
ネイト・ウーリー『(Dance to) The Early Music』(2015年)
ネイト・ウーリー『Battle Pieces』(2014年)
ネイト・ウーリー『Seven Storey Mountain III and IV』(2011、13年)
ネイト・ウーリー+ウーゴ・アントゥネス+ジョルジュ・ケイジョ+マリオ・コスタ+クリス・コルサーノ『Purple Patio』(2012年)
ネイト・ウーリー『(Sit in) The Throne of Friendship』(2012年)
ネイト・ウーリー『(Put Your) Hands Together』(2011年)
ハリス・アイゼンスタット『Canada Day IV』(2015年)

●クリス・コルサーノ
クリス・コルサーノ、石橋英子+ダーリン・グレイ@Lady Jane(2015年)
エヴァン・パーカー+ジョン・エドワーズ+クリス・コルサーノ『The Hurrah』(2014年)
メテ・ラスムセン+クリス・コルサーノ『All the Ghosts at Once』(2013年)
ネイト・ウーリー『Seven Storey Mountain III and IV』(2011、13年)
ネイト・ウーリー+ウーゴ・アントゥネス+ジョルジュ・ケイジョ+マリオ・コスタ+クリス・コルサーノ『Purple Patio』(2012年)
ロドリゴ・アマド『This Is Our Language』(2012年)

●インゲブリグト・ホーケル・フラーテン
ザ・シング@稲毛Candy(2013年)
スクール・デイズ『In Our Times』(2001年)


パンゴ『Pungo Waltz』

2016-07-17 08:11:00 | アヴァンギャルド・ジャズ

パンゴ『Pungo Waltz』(Cut Out Records、1980-81年)。

菅波ゆり子(向島ゆり子)(accordion, vln, p, vo, perc, カズー)
今井次郎 (b, vo, perc, カズー)
篠田昌巳 (as, accordion, vo, perc, カズー)
石渡明廣 (g, b, perc, ds)
久下惠生 (ds, perc)
佐藤幸雄 (g, vo, perc, カズー)

先日オフノートの神谷さんから、生活向上委員会があって、パンゴも篠田さんを通じてその影響を受けていたのだと言われ、ああなるほどなと思った次第。

確かにライナーに寄せられた向島ゆり子さんの文章や、故・篠田昌巳のインタビューなんかを読むと、判然としないのではあるが、突出した人たちが同じ場と時間で交錯した結果生まれた結晶だということがわかる。そう考えることにすれば、時代という捉え方も悪くはない。そしてわたしは同時代を過ごしたわけではないから若干の嫉妬も覚える。

濁ったアルトサックスと濁ったアコーディオン、「ここに居るのだ」ということを主張する音楽、有象無象を認める音楽。


レニ・リーフェンシュタール『ヌバ』

2016-07-14 07:25:50 | 中東・アフリカ

レニ・リーフェンシュタール『ヌバ』(新潮文庫、原著1982年)を読む。

レニ・リーフェンシュタールは、『オリンピア』(『民族の祭典』『美の祭典』)を撮り、ナチスのプロパガンダとなるものを提供したとしてずっと批判の対象であり続けた。それらのフィルムは、確かに観る者を大きな錯覚に導く力を持っているものであり、いかにレニが直接的に何も手を下すどころかナチの政策に同調もしていないと言ったところで、凶悪な権力の下でうまく生きてきたという批判は免れ得ない。

それはそれとして、『ヌバ』の文章は実に活き活きとしている。1960年代、スーダンに住むヌバ族の存在に気付いたレニは、たいへんな労苦とともに、かれらの居住域へと入っていった。現地の政府筋さえ、もうみんな文明化していてそのような人はいないと助言した。そのような、視えない存在であった。そして、逆にかれらも視たことがない「白人」として歓迎された。

このときレニは60代。信じられないパワーである。文庫に先立ちパルコ出版から出された大判の写真文集には、さらに虫明亜呂無の良いレニ評伝が含まれているが、それを読んでも、若いときから超人的に己の興味のみに従い表現を行ってきた人なのだなと実感する。しかし、それは犯罪的な純真さでもあったのだろうね。

それにしても素晴らしい写真群である。針で自分の身体をデコレートし、ときに白い灰を塗りたくり、至上の活動としてレスリングを行うヌバ族の姿がなまなましくとらえられている。レニは「白人」の客人として大事にもてなされるアウトサイダーでもあり、またかれらに良い笑顔を向けられるほど溶け込んだ存在でもあった。

パルコ出版の写真文集の口絵には、ヌバ族の男にカメラバッグを持たせ付き従わせて、カメラを下げて歩くレニの写真が収められている。どうもライカが初めて作った一眼レフである、初代ライカフレックス(ブラック)に見えるのだがどうだろう。


高橋知己『Another Soil』

2016-07-13 23:12:14 | アヴァンギャルド・ジャズ

高橋知己『Another Soil』(DENON、1980年)を聴く。

Tomoki Takahashi 高橋知己 (ts, ss)
Kiyoshi Sugimoto 杉本喜代志 (g)
Shigeharu Mukai 向井滋春 (tb)
Junichiro Ohkuchi 大口純一郎 (p)
Tamio Kawabata 川端民生 (b)
Hideaki Mochizuki 望月英明 (b)
Elvin Jones (ds)

何しろエルヴィン・ジョーンズに弱く、これもエサ箱で見つけるや握りしめてしまった。

1966年にトラブルでアメリカに帰国できなくなり、しばらく新宿ピットインにおいて連夜のセッションを繰り広げてから14年。このときも、エルヴィンはまだ伝説的で、かつ親しみやすくもある存在であったに違いない。

本盤での主役は若干30歳の高橋知己。エルヴィンを煽るでもなくマイペースな感じに聴こえるのが面白いが、一方、エルヴィンは常に共演者を煽り立てる。特にB面の盛り上がりなんて興奮させられる。ついエルヴィンばかり聴いてしまうのだ(申し訳ない)。

最近、高橋さんとよく共演するドラマーの本多滋世さんに訊くと、彼女のフェイヴァリットはエルヴィンだという(いちど訊いただけなので違うかもしれない)。タイミングが合えば、ぜひ本多さんが高橋さんをどのように煽るのか、目撃してみたいと思っている。

●エルヴィン・ジョーンズ
エルヴィン・ジョーンズ(1)
エルヴィン・ジョーンズ(2)
チコ・フリーマン『Elvin』(2011年)
ベキ・ムセレク『Beauty of Sunrise』(1995年)
ソニー・シャーロック『Ask the Ages』(1991年)
エルヴィン・ジョーンズ+田中武久『When I was at Aso-Mountain』(1990年)
エルヴィン・ジョーンズ『Live at the Village Vanguard』(1968年)、ジョージ・コールマン『Amsterdam After Dark』『My Horns of Plenty』(1978、1991年)
アルバート・マンゲルスドルフ『A Jazz Tune I Hope』、リー・コニッツとの『Art of the Duo』(1978、1983年)
菊地雅章+エルヴィン・ジョーンズ『Hollow Out』(1972年)
フィニアス・ニューボーンJr.『Back Home』(1969年)
藤岡靖洋『コルトレーン』、ジョン・コルトレーン『Ascension』(1965年)
ロヴァ・サクソフォン・カルテットとジョン・コルトレーンの『Ascension』(1965、1995年)
マッコイ・タイナーのサックス・カルテット(1964、1972、1990、1991年)
『Stan Getz & Bill Evans』(1964年)
ソニー・シモンズ(1963、1966、1994、2005年)


阿部芙蓉美『EP』

2016-07-13 21:42:37 | ポップス

井上剛『その街のこども』は傑作だった(井上剛『その街のこども 劇場版』『その街のこども』テレビ版)。あまりにも最後に心を動かされるだけに、ぜんぜん意識していなかったのだが、大友良英と阿部芙蓉美による主題歌も、それだけで聴いてみると平常心ではいられない力がある。

そんなわけで、思い出して、阿部芙蓉美『EP』(3rd Stone F.T.S.、2014年)を聴く。(なお、「その街のこども」は本盤には収録されていない。)

息の風を起こすことによって、想いと生命力とが前面に押し出されるヴォイス。シンプルなビートとサウンド。

なるほどこれは魅力的。他のテイストの阿部芙蓉美も聴いてみたい。


アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『Jazz Now! - Live at Theater Gütersloh』

2016-07-13 06:45:19 | アヴァンギャルド・ジャズ

アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『Jazz Now! - Live at Theater Gütersloh』(Intuition、2015年)を聴く。

Alexander von Schlippenbach (p)
Rudi Mahall (bcl)
Antonio Borghini (b)
Heinrich Köbberling (ds)

何しろハービー・ニコルスである。シュリッペンバッハがエリック・ドルフィーやセロニアス・モンクの曲を演奏していることは多くあったが、それらに加え、ニコルスの曲とは新鮮だ(「12 Bars」「The Gig」「Every Cloud」)。あまりシュリッペンバッハの熱心な聴き手ではないのでわからないのだが、ニコルスにも熱い視線を向けていたのかもしれない。それにしても、ICPオーケストラなどヨーロッパの面々にニコルスの奇妙な曲がとても合うのはなぜだろう。

残念ながらシュリッペンバッハには往年の勢いがない。しかし、ここではルディ・マハールのバスクラがそれを補って余りある魅力を発散する。バスクラらしからぬ軽さとよれ具合はとても面白い。エヴァン・パーカーとはまた違う意味で、マハールの天使の舞いがシュリッペンバッハの音楽を浮上させているように感じられる。

90年代後半に、エヴァンの代役としてシュリッペンバッハ・トリオの一員として吹いたマハール、またベルリン・コンテンポラリー・ジャズ・オーケストラでエヴァンの隣で吹いていたマハールの鮮烈な印象はまだ消えない。昨年(2015年)のアンサンブル・ゾネでの演奏もよかった。

●アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ
アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『ライヴ・イン・ベルリン』(2008年)
シュリッペンバッハ・トリオ『Gold is Where You Find It』(2008年)
シュリッペンバッハ・トリオ『Detto Fra Di Noi / Live in Pisa 1981』(1981年)
シュリッペンバッハ・トリオ『First Recordings』(1972年)

●ルディ・マハール
アンサンブル・ゾネ『飛ぶ教室は 今』(2015年)
「失望」の『Vier Halbe』(2012年)
アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『ライヴ・イン・ベルリン』(2008年)
『失望』の新作(2007年)
高瀬アキ『St. Louis Blues』(2001年)


ユニヴァーサル・インディアンス w/ ジョー・マクフィー『Skullduggery』

2016-07-11 21:49:12 | アヴァンギャルド・ジャズ

ユニヴァーサル・インディアンス w/ ジョー・マクフィー『Skullduggery』(clean feed、2014年)。

Universal Indians:
John Dikeman (sax)
Jon Rune Strøm (b)
Tollef Østvang (ds)
with
Joe McPhee (sax, pocket tp)

何度も、もっと面白いはずだと思って繰り返し聴いているのだが、どうもノリきれないのはなぜだろう。ジョー・マクフィーの熱気もいいし、ブギョーと身体の内と外をひっくり返してすべてぶちまけるようなジョン・ダイクマンのサックスも素晴らしい。

典型的なフリージャズのバンドとしてまとまりすぎているからかな。

●ジョー・マクフィー
ジョー・マクフィー+ポール・ニルセン・ラヴ@稲毛Candy(2013年)
ジョー・マクフィー『Sonic Elements』(2012年)
ロドリゴ・アマド『This Is Our Language』(2012年)
ペーター・ブロッツマンの映像『Concert for Fukushima / Wels 2011』(2011年)
ジョー・マクフィーとポール・ニルセン-ラヴとのデュオ、『明日が今日来た』(2009年)
『Tribute to Albert Ayler / Live at the Dynamo』(2008年)
ジョー・マクフィーの映像『列車と河:音楽の旅』(2007年)
ウィリアム・パーカー、オルイェミ・トーマス、ジョー・マクフィーら『Spiritworld』(2005年)
Vision Festivalの映像『Vision Vol.3』(2003年)

●ジョン・ダイクマン
ジェイムスズー『Fool』(2016年)
ジョン・ダイクマン+スティーヴ・ノブル+ダーク・シリーズ『Obscure Fluctuations』(2015年)


安ヵ川大樹+廣木光一@本八幡Cooljojo

2016-07-10 19:38:13 | アヴァンギャルド・ジャズ

本八幡の響きのいいハコ・Cooljojoに足を運び、昼のライヴ(2016/7/10)。

Daiki Yasukagawa 安ヵ川大樹 (b)
Koichi Hiroki 廣木光一 (g)

ファーストセット、「Everything I Love」(ポーター)、「Duke Ellington's Sound of Love」(ミンガス)、「Isfahan」(エリントン)、「Como Siento Yo」(ルーベン・ゴンザレス)、「Loco」(安ヵ川)。セカンドセット、「人生は風車」(カルトーラ)、スタンダード「I've Never Been in Love Before」、「Morning Lullaby」(安ヵ川)、「Zuzu」(廣木)、「Cheers」(安ヵ川)。アンコール、「I Didn't Know About You」(エリントン)。

安ヵ川さんのベースはとても表情豊かである。過激なことはしないのに、ずっと緊張感を持って、しかしリラックスして聴くことができる。微妙な音変化に耳をそばだてればそばだてるほど素敵なのだ。

一方、廣木さんのギターはタッチが実に繊細で、しかもシャープでもある。まるで柔らかな木の枝を注意深く細く削っていって、それを見事に操るような感覚。

このふたりのデュオは、上品で、また、曲の合間合間にため息が出るほどのものだった。

Fuji X-E2、Pentax K18mmF3.5

●参照
吉野弘志+中牟礼貞則+廣木光一@本八幡Cooljojo(2016年)
廣木光一+渋谷毅@本八幡Cooljojo(2016年)
Cooljojo Open記念Live~HIT(廣木光一トリオ)(JazzTokyo)(2016年)
廣木光一(HIT)@本八幡cooljojo(2016年)


佐藤洋一郎『食の人類史』

2016-07-10 08:40:58 | 食べ物飲み物

佐藤洋一郎『食の人類史 ユーラシアの狩猟・採集、農耕、遊牧』(中公新書、2016年)を読む。

食べ物はそれぞれルーツを持つ。そして輸送はそう簡単ではなかった(とくにタンパク質)。このことが食文化の違いを生み出してきた。たとえばアジアにおいては「コメと魚」、ヨーロッパにおいては「肉とミルク」である。

原初は個々の交換や取引、のちの市場経済は、たしかに食と土地との結びつきを大きく歪めてきたことがよくわかる。ヨーロッパはもともと肉食中心の土地であった。パンは決して昔からの主食でもなんでもなく、中東にルーツを持つ麦(特に小麦)が入ってくるも、中世においても手に入れやすいものではなかった。アンデスをルーツとするジャガイモはさらに遅く伝播し、たくさん栽培されるようになるが、19世紀のジャガイモ飢饉によって多くの餓死者を出すことになった。多様性よりも食糧生産を重んじた結果である。

わたしたちは、日本の稲作は、弥生時代に、朝鮮半島からの渡来人がもたらしたものと学んできた。面白いことに、著者によれば、その物語もいまや確たる根拠を持たないのだという。縄文時代にも稲作が行われていた証拠があり、一方、朝鮮半島にも縄文土器が見つかっている。従って、時期の区切りも、移動のヴェクトルも、さほど単純ではなく、実際のところはよりファジーな交流によって稲作が広まってきたことになる。

他にも、小麦を中東から東方に運んだのは誰なのか、照葉樹林文化という観念が長い歴史のダイナミズムの中で本当に確実なとらえかたなのか、氷期の到来や温暖化の進行など環境変動が文明の盛衰をもたらしたとする説は本当か、など、興味深い指摘が本書にはたくさん散りばめられている。

しかし、残念ながら、専門論文とは異なる一般向けの新書としては、明らかに詰め込み過ぎだ。ああでもない、こうでもないと、饒舌な独り言をまき散らしている印象ばかりが残る。情報量を4分の1にして、よりわかりやすくまとめるべきである。

●参照
佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』
佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』


喜多直毅 Violin Monologue @代々木・松本弦楽器

2016-07-09 23:31:09 | アヴァンギャルド・ジャズ

喜多直毅さんのヴァイオリン・ソロを観るために、代々木の松本弦楽器さんに足を運んだ(2016/7/9)。そこはマンションの一室であり、壁にはヴァイオリンなどが所狭しと並べて掛けられている。そんなわけで定員は少なくて12人で満員。

Naoki Kita 喜多直毅 (vln)

ファースト・セットでは、まず、バッハのシャコンヌ。間近で聴くと、本当に滑らかで艶やかないい音である。昂る部分では、まるで弾いたあとでも慣性で楽器が鳴っているような印象さえもあった。次に、アラブ音楽だという「Longa Hijaz Kar Kurd」。譜面にはトルコとクルドの文字が見えたのだが、そのあたりの歌だろうか。バッハとはうってかわって、乾いて摩擦係数が高くなったような音色と、微細な音変化。そして、ファドの女王ことアマリア・ロドリゲスの「失った心」を、歌詞を口ずさみながら弾いた。「二度と帰って来ないように・・・」という言葉とともに哀切なヴァイオリン。消えてしまいそうな音、発しながら発することのない声、街の向こうから聞えてくる声、そんな情が、かすかな弦の擦音にからみついた。

セカンド・セットは即興演奏。中国の笛を思わせるノイズたっぷりの音からはじまり、ときにコミカルでもあり、また、鳥が調子に乗って囀る歌声、断末魔の叫び、重たいドアが閉まるときの軋みなどのイメージがやって来ては去っていった。

ところで、激しい即興演奏の途中で、ヴァイオリンの弦を支える駒が小気味良い音とともに床にはじけ飛んだ。何でも、2週間前に、雑司ヶ谷のエル・チョクロにおいても演奏中に駒が壊れ、急遽、この松本弦楽器さんに電話して代わりのヴァイオリンを持ってきてもらったことがあったらしい。休憩時間にそんな話をして、皆で笑っていた直後のことである。喜多さんは口笛を吹きながら、別のヴァイオリンに持ち替えて演奏を続けた。終了後、松本弦楽器のご主人が、普通の演奏なら何年も持つんだと呆れたように話し、再び大爆笑。

Fuji X-E2、XF35mmF1.4

●参照
喜多直毅+黒田京子@雑司が谷エル・チョクロ(2016年)
齋藤徹+かみむら泰一、+喜多直毅、+矢萩竜太郎(JazzTokyo)(2015-16年)
うたをさがして@ギャラリー悠玄(2015年)
http://www.jazztokyo.com/best_cd_2015a/best_live_2015_local_06.html(「JazzTokyo」での2015年ベスト)
齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン(2015年)
喜多直毅+黒田京子『愛の讃歌』(2014年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
『うたをさがして live at Pole Pole za』(2011年)


齋藤徹の世界・還暦記念コントラバスリサイタル@永福町ソノリウム

2016-07-09 07:06:05 | アヴァンギャルド・ジャズ

齋藤徹さんが還暦を記念して、さまざまなエッセンスを取りだして、ソロリサイタルを行った(2016/7/8、永福町ソノリウム)。

Tetsu Saitoh 齋藤徹 (b)

ファーストセット。演奏は、まずオリジナル曲「月の壺」。テツさんは、リディアン旋法(ファが半音上がるコード)に囚われてきたという。その、独特な雰囲気の曲。弓弾きにより、哀しみともなんとも言えぬ情感が刺激される。そして、高柳昌行とのつながりもあってやはり氏の一部をなしたタンゴ、ピアソラの「コントラバヘアンド」。1986年に高柳、富樫雅彦というふたりの頂点と共演しながらも、ブルースやフォービートは自身の体内になくて、若いうちにジャズを「断念」(テツさんによれば、20世紀末の往来トリオは「ジャズの実験」であった)、しかし、特別な存在たるエリントン、ミンガス、ドルフィー。ここではミンガスの「Goodbye Pork Pie Hat」。そのあとに、テツさん自身が「なんということでしょう」と苦笑しながら、バッハの無伴奏チェロ組曲。

セカンドセット。金石出たちとの共演により独特極まりない世界への扉を開いた「ユーラシアン・エコーズ」があった、その韓国シャーマン音楽。最近、かみむら泰一さんと展開しているブラジル・ショーロのノスタルジックな曲。人の喉が震えるようなイメージを喚起する「浸水の森」。再度、リディアンの曲。そしてまた、バッハの無伴奏チェロ組曲、第六番。先日の横濱エアジンにおける演奏では、実は、テツさんはその場において韓国シャーマン音楽との重なりを見出していたのだった。しかし、演奏が途中で「破綻」(テツさん曰く)し、インプロヴィゼーションに移行。枷からの解放が素晴らしかった。また、コントラバスというまるで人の肉体を触っていながら触らないような演奏は、アントニオーニ『愛のめぐりあい』において、女性を触りそうで触らない愛撫を続けた男の狂気=愛を思い出させてくれた。

静寂の中でささやき軋む音の数々。そのつど立ち上がる音楽。ガット弦による音も、「軋み」というもの自体も、綺麗な山を描く周波数のプロファイルとは違うところから発生する音波に違いない。連続的な弓の音であっても、それは振れ幅が大きく、小さな立ち上がりの連なりなのだった。コントラバスというマテリアルを震わせ叩くことによる音波には無数のざわめきがあった。

実はこの日、いろいろと疲弊していて、最初の何分間かは夢うつつ、椅子から転げ落ちそうになっていた(本当に転げ落ちてしまったらリサイタルが中断されて迷惑をかけるだろうな、と馬鹿なことを思いつつ)。一方、テツさんの音楽は、目の前にいる奏者を観て聴いている瞬間に共振し、またそれを無意識に反芻する記憶のなかでも、震えを喚起させられるものだった。どちらが本当なのか、どちらも本当なのだろうな。奥深く豊かな世界を垣間見せていただいた。

●参照
かみむら泰一+齋藤徹@キッド・アイラック・アート・ホール(2016年)
齋藤徹+かみむら泰一、+喜多直毅、+矢萩竜太郎(JazzTokyo)(2015-16年)
齋藤徹・バッハ無伴奏チェロ組曲@横濱エアジン(2016年)
喜多直毅+黒田京子@雑司が谷エル・チョクロ(2016年)
うたをさがして@ギャラリー悠玄(2015年) 
齋藤徹+類家心平@sound cafe dzumi(2015年)
齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン(2015年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
バール・フィリップス+Bass Ensemble GEN311『Live at Space Who』(2012年)
ミッシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐(2011年)
齋藤徹による「bass ensemble "弦" gamma/ut」(2011年)
『うたをさがして live at Pole Pole za』(2011年)
齋藤徹+今井和雄『ORBIT ZERO』(2009年)
齋藤徹、2009年5月、東中野(2009年)
ミッシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm(2007年)
往来トリオの2作品、『往来』と『雲は行く』(1999、2000年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ+チョン・チュルギ+坪井紀子+ザイ・クーニン『ペイガン・ヒム』(1999年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ『交感』(1999年)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、池澤夏樹『眠る女』、齋藤徹『パナリ』(1996年)
ミシェル・ドネダ+アラン・ジュール+齋藤徹『M'UOAZ』(1995年)
ユーラシアン・エコーズ、金石出(1993、1994年)


レオ・キュイパーズ『Corners』

2016-07-07 23:35:59 | アヴァンギャルド・ジャズ

レオ・キュイパーズ『Corners』(VARAJAZZ、1981年)をアナログ盤で聴く。

Leo Cuypers (p)
Arjen Gorter (b)
Han Bennink (ds, perc, bcl)

レオ・キュイパーズは、言うまでもなく、ウィレム・ブロイカー・コレクティーフにおいてお茶目で端麗でもあるピアノを聴かせてくれた人である。そのかれが、生命力を過剰に発散するハン・ベニンクと組んだピアノトリオであり、面白くないわけはない。

ベニンクは絶好調だ。荒れた海の波濤のように叩いているかと思えば、突如、直前までのことは忘れたと言わんばかりの高速ロールのブラッシュワーク。怪音のバスクラも駆使する。

このダダイスティックな音楽への介入はキュイパーズについても言うことができる。文脈など関係なく、もちろんヴァースだとか起承転結的な展開なんてあったものではない。一瞬先には顔を変えて呵々大笑。聴くわたしも引きつりながら大笑。

●レオ・キュイパーズ
ウィレム・ブロイカーの映像『Willem Breuker 1944-2010』(1944-2010年)
ウィレム・ブロイカーの『Misery』と未発表音源集(1969-94年、2002年)
レオ・キュイパーズ『Heavy Days Are Here Again』(1981年)
ウィレム・ブロイカーとレオ・キュイパースとのデュオ『・・・スーパースターズ』(1978年)

●ハン・ベニンク
ハン・ベニンク@ディスクユニオン Jazz Tokyo(2014年)
ペーター・ブロッツマンの映像『Soldier of the Road』(2011年)
ハン・ベニンク『Hazentijd』(2009年)
イレーネ・シュヴァイツァーの映像(2006年)
ハン・ベニンク キヤノン50mm/f1.8(2002年)
エリック・ドルフィーの映像『Last Date』(1991年)
レオ・キュイパーズ『Heavy Days Are Here Again』(1981年)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(1981、91、98年)
ウェス・モンゴメリーの1965年の映像(1965年)


加々美光行『未完の中国』

2016-07-07 22:25:18 | 中国・台湾

加々美光行『未完の中国 課題としての民主化』(岩波書店、2016年)を読む。

たとえば、文化大革命をどう見るか。権力をふるうことにより、その過程に参加する者は、「自己を喪失」し、「何者でもない者」に容易に変貌し得た。この恐ろしさを肌で知った紅衛兵の経験や、下放された者たちの経験が、のちの民主化運動へとつながった。

それは文革そのものだけについて言えることではない。著者は、そもそも中国共産党の権力の網に「自己の喪失」が見られたからこそ、生起してくる政治を取り戻すべく、毛沢東が文革を仕掛けたのではないかと示唆している(ように読める)。何も劉少奇や林彪を打倒するだけであれば、組織全体の屋台骨を揺るがすようなことをする必要はなかった。

そしてまた、いまの日本にも「自己の喪失」=「何者でもない者」化を容易に見出すことができる。これは「政治」に関与する「市民」とは対極にあると言うこともできる。

もとより「天下」概念と近代国家とが、お互いに相容れない概念なのだった。その矛盾は、少数民族の置かれる場所において激しくあらわれた。(民族自決主義に対する考え方が、中国において如何に変貌していったかについては、加々美光行『中国の民族問題』に詳しい。)

本書において中国近現代史を振り返ってみると、「中国」というものが、タイトル通り未完の壮大なプロジェクトであったことがよくわかる。大躍進政策や文革は失敗だった、第二次天安門事件もおぞましい国家的暴力であった、それは否定しようのない事実なのだが、あとから善悪でのみ単純な結論に依りかかることは思考の放棄に他ならない。

●参照
加々美光行『裸の共和国』
加々美光行『現代中国の黎明』 天安門事件前後の胡耀邦、趙紫陽、鄧小平、劉暁波
加々美光行『中国の民族問題』
L・ヤーコブソン+D・ノックス『中国の新しい対外政策』
国分良成編『中国は、いま』
稲垣清『中南海』
ダイヤモンドと東洋経済の中国特集
白石隆、ハウ・カロライン『中国は東アジアをどう変えるか』
『世界』の特集「巨大な隣人・中国とともに生きる」
『情況』の、「現代中国論」特集
堀江則雄『ユーラシア胎動』
天児慧『中華人民共和国史 新版』
天児慧『中国・アジア・日本』
天児慧『巨龍の胎動』
汪暉『世界史のなかの中国』
汪暉『世界史のなかの中国』(2)
加藤千洋『胡同の記憶』
藤井省三『現代中国文化探検―四つの都市の物語―』


ネイト・ウーリー+ウーゴ・アントゥネス+ジョルジュ・ケイジョ+マリオ・コスタ+クリス・コルサーノ『Purple Patio』

2016-07-06 22:23:12 | アヴァンギャルド・ジャズ

ネイト・ウーリー+ウーゴ・アントゥネス+ジョルジュ・ケイジョ+マリオ・コスタ+クリス・コルサーノ『Purple Patio』(NoBusiness Records、2012年)を聴く。300枚限定のアナログ盤である。

Nate Wooley (tp)
Hugo Antunes (b)
Jorge Queijo (ds)
Mário Costa (ds)
Chris Corsano (ds)

何人ものパーカッションの中でのトランペットとなれば、日野皓正『Spark』(1994年)を思い出してしまう。当時、Mt. Fuji Jazz Festivalに出かけて行って、炎天下で朦朧としながら、けだるく進行していつまでも終わらない演奏を聴いた。あれはなんだったのか。

この音楽はそれとはまるで異なり、かまいたちで斬れそうな緊張感をはらんでいる。ドラマー3人の誰がどう音を発しているのかよくわからないのだが、ときに、魅入られそうな妖刀の鋭さを持っているクリス・コルサーノかなと思える音色が聴こえてくる。

言ってみれば、パルスと響きのモビールである。その中を肩でかわしながら、ネイト・ウーリーがさまざまなトランペットを聴かせる。偏執的な循環奏法あり、朗々とした響きあり、フラグメンツもあり。本人にとってはサウンドの実験だったのかな。

●ネイト・ウーリー
ネイト・ウーリー+ケン・ヴァンダーマーク『East by Northwest』、『All Directions Home』(2013、15年)
ネイト・ウーリー『(Dance to) The Early Music』(2015年)
ネイト・ウーリー『Battle Pieces』(2014年)
ネイト・ウーリー『Seven Storey Mountain III and IV』(2011、13年)
ネイト・ウーリー『(Sit in) The Throne of Friendship』(2012年)
ネイト・ウーリー『(Put Your) Hands Together』(2011年)
ハリス・アイゼンスタット『Canada Day IV』(2015年)

●クリス・コルサーノ
クリス・コルサーノ、石橋英子+ダーリン・グレイ@Lady Jane(2015年)
エヴァン・パーカー+ジョン・エドワーズ+クリス・コルサーノ『The Hurrah』(2014年)
メテ・ラスムセン+クリス・コルサーノ『All the Ghosts at Once』(2013年)
ネイト・ウーリー『Seven Storey Mountain III and IV』(2011、13年)
ロドリゴ・アマド『This Is Our Language』(2012年)