Sightsong

自縄自縛日記

シカゴ・トリオ『Velvet Songs to Baba Fred Anderson』

2017-03-18 09:41:30 | アヴァンギャルド・ジャズ

シカゴ・トリオ『Velvet Songs to Baba Fred Anderson』(RogueArt、2008年)を聴く。

Ernest Dawkins (ss, as, ts, perc)
Harrison Bankhead (b, cello)
Hamid Drake (ds, frame drum) 

本盤が発表されたのは2011年。その前年にフレッド・アンダーソンが亡くなっており、かれに捧げられたアルバムである。録音は2008年のことであり、アンダーソンばかりを意識しての演奏ではなかったに違いない。とは言え、アンダーソンが経営していたシカゴのヴェルヴェット・ラウンジでのライヴであり、ここでサックスを吹いているアーネスト・ドーキンスに、同じAACMの大先輩アンダーソンが与えた影響が小さかったわけはない。

アンダーソンのサックスには、音とフレーズの止めどないだだ漏れを恐れない、得体の知れぬ魅力があった。ドーキンスのサックスはそこまで人外の領域にはないものの、いままでの印象以上に多彩。アリ・ブラウン、ハナ・ジョン・テイラー、アンドリュー・ラム、チコ・フリーマンら、シカゴ・サックスに共通の渋いエネルギッシュさがあって、このようなスタイルは本当に好きである。「Down n' the Delta」では「聖者が街にやってくる」をサックス2本吹きで延々と披露するなどの過剰ぶりも素晴らしい。CD2枚分の間吹きまくりだ。

ハリソン・バンクヘッドは情熱的に弾き続け、ハミッド・ドレイクはいつもの乾いた音を鋭く発している。こんなトリオをシカゴで観たい。

●ハリソン・バンクヘッド
ジョージ・フリーマン+チコ・フリーマン『All in the Family』(2014-15年) 
ブッチ・モリス『Possible Universe / Conduction 192』(2010年)

●ハミッド・ドレイク
イロウピング・ウィズ・ザ・サン『Counteract This Turmoil Like Trees And Birds』(2015年)
ジョージ・フリーマン+チコ・フリーマン『All in the Family』(2014-15年)
マット・ウォレリアン+マシュー・シップ+ハミッド・ドレイク(Jungle)『Live at Okuden』(2012年)
ウィリアム・パーカー『Essence of Ellington / Live in Milano』(2012年)
ブッチ・モリス『Possible Universe / Conduction 192』(2010年)
サインホ・ナムチラックの映像(2008年)
デイヴィッド・マレイ『Saxophone Man』(2008、10年)
デイヴィッド・マレイ『Live at the Edinburgh Jazz Festival』(2008年)
デイヴィッド・マレイ『Live in Berlin』(2007年)
ウィリアム・パーカー『Alphaville Suite』(2007年)
ウィリアム・パーカーのカーティス・メイフィールド集(2007年)
イレーネ・シュヴァイツァーの映像(2006年)
フレッド・アンダーソンの映像『TIMELESS』(2005年)
ヘンリー・グライムス『Live at the Kerava Jazz Festival』(2004年)
ウィリアム・パーカー『... and William Danced』(2002年)
アレン/ドレイク/ジョーダン/パーカー/シルヴァ『The All-Star Game』(2000年)
ペーター・コヴァルト+ローレンス・プティ・ジューヴェ『Off The Road』(2000年)
ペーター・ブロッツマン『Hyperion』(1995年)


ピーター・ヤンソン+ヨナス・カルハマー+ポール・ニルセン・ラヴ『Live at Glenn Miller Cafe vol.1』

2017-03-16 07:29:23 | アヴァンギャルド・ジャズ

ピーター・ヤンソン+ヨナス・カルハマー+ポール・ニルセン・ラヴ『Live at Glenn Miller Cafe vol.1』(ayler records、2001年)を聴く。

Peter Janson (b)
Jonas Kullhammar (ts, bs)
Paal Nilssen-Love (ds) 

目当てのカルハマーはもちろん期待通りに吹きまくっている。テナーもバリトンも、ここまで表通りを爆走するなら言うことはない。ヤンソンの速弾きのテクニシャンぶりも気持ちが良い。

しかしそれよりも何よりも、ニルセン・ラヴである。知的かつ筋肉的というべきか、タイコもシンバルも、どの断面でも、聴いているこちらの想像を遥かに上回る複合リズムを繰り出している。しかもその強度はまったく衰えない。この人は何気筒のエンジンを積んでいるのか。今度の来日はどうしようかなと思っていたが、やはり駆けつけようかな。

●ポール・ニルセン・ラヴ
ザ・シング@稲毛Candy(2013年)
ジョー・マクフィー+ポール・ニルセン・ラヴ@稲毛Candy(2013年)
ポール・ニルセン・ラヴ+ケン・ヴァンダーマーク@新宿ピットイン(2011年)
ペーター・ブロッツマン@新宿ピットイン(2011年)
ペーター・ブロッツマンの映像『Concert for Fukushima / Wels 2011』
(2011年)
ジョー・マクフィーとポール・ニルセン-ラヴとのデュオ、『明日が今日来た』(2008年)
4 Corners『Alive in Lisbon』(2007年)
スクール・デイズ『In Our Times』(2001年)


清水潔『「南京事件」を調査せよ』

2017-03-15 23:53:09 | 中国・台湾

清水潔『「南京事件」を調査せよ』(文藝春秋、2016年)を読む。

「NNNドキュメント'15」枠で放送された『南京事件 兵士たちの遺言』(2015/10/4)は、たいへんな衝撃を受けたドキュメンタリーだった。ともすれば抽象的に扱われがちな事件だが、この番組は、実際に何が起きたのかについて、兵士たちの従軍日記などの一次資料から再現を試みたものだった。それらを重ねあわせつなぎあわせると、虐殺が、組織的にも、またそれを背景として感覚が麻痺した個人の行動としても、実際に行われたのだということがよくわかる。

本書は、その取材の様子や、ドキュメンタリーに盛り込めなかった部分を含めて書かれたものである。ここで強調されていることは、「歴史修正主義者」たちの策動のパターンだ。すなわち、一点でもアラや間違いを見つけると、それにより全体を否定してしまおうという戦略であり、これは、沖縄戦において「集団自決」を「直接的な軍命があったかどうか」という一点のみを切り崩そうとする動きにも使われた。

もうひとつ重要な点は、南京事件を否定しようとする者は、別の事件を持ち出してくることだ。たとえば「通州事件」。南京事件と同じ1937年に、通州(現、北京)において、中国の保安隊が日本軍を攻撃し、居留民200名ほどが惨殺された事件である。しかし逆に、南京と同じく日本軍が起こしたジェノサイドも少なくない。たとえば、日清戦争時の「旅順大虐殺」では、日本軍が中国の民間人を1万人以上殺した。

これらは別々の悲惨で検証されなければならない事件であり、ひとつの事件がもうひとつの事件を相殺するようなものではない。当然のことにも思えるが、そうでない言説は多い。

●南京事件
『南京事件 兵士たちの遺言』
『従軍作家たちの戦争』、笠原十九司『南京事件論争史』
陸川『南京!南京!』
盧溝橋(「中国人民抗日戦争記念館」に展示がある)
テッサ・モーリス=スズキ『過去は死なない』(歴史修正主義)
高橋哲哉『記憶のエチカ』(歴史修正主義)


ブッチ・モリス『Current Trends in Racism in Modern America』

2017-03-14 07:47:47 | アヴァンギャルド・ジャズ

ブッチ・モリス『Current Trends in Racism in Modern America』(Sound Aspects Records、1985年)を聴く。

Frank Lowe (ts)
John Zorn (as, game calls)
Tom Cora (cello)
Brandon Ross (g)
Zeena Parkins (harp)
Thurman Barker (marimba, snare drum, tambourine)
Curtis Clark (p)
Christian Marclay (turntables / records)
Eli Fountain (vib)
Yasunao Tone 刀根康尚 (vo)
Butch Morris (conductor)

見ての通り、ジョン・ゾーン、クリスチャン・マークレイ、トム・コラ、刀根康尚、ジーナ・パーキンス、ブランドン・ロスと、この時代の前衛の面々が参集している。フランク・ロウや、シカゴAACMのサーマン・バーカーにちょっと意外感を持つ。

しかし何度聴いてもどうも古くさいのだ。今となっては素朴なマークレイのターンテーブルも、ゾーンの表面を疾走するアルトと笛も。もうこれは仕方がない。そんな中で土俗的なフランク・ロウのような人は逆に永遠に古びない。

ここでも音だけを聴いていては、もっと、各プレイヤーのソロをフィーチャーして欲しいというフラストレーションを感じてしまう。モリスが即興に対してさまざまな指示を出してサウンドを創り上げていった「コンダクション」、実際のステージを観ないと腑に落ちないものかもしれない。

●ブッチ・モリス
ブッチ・モリス『Possible Universe / Conduction 192』(2010年)
ブッチ・モリス『Dust to Dust』(1991年)


ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』

2017-03-13 08:00:07 | ヨーロッパ

ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』(河出書房新社、原著2015年)を読む。

冒頭の「誰が水道の元栓を閉めたのか」というくだりから既に爆笑、思い切り引き込まれる。登場するのは、決して発刊されることのない日刊紙の準備のために集められた面々。かれらは人生で辛酸を舐めたインテリたちであり(だからこそ知的なのだというプロットは、白川静『孔子伝』を想起させられる)、一癖も二癖もある。 

ムッソリーニやファシストたちを巡る陰謀論は、現実からの思わぬ攻撃により、陰謀論という構図を保ったまま、陳腐なものとなってしまう。その一方で、現実は次の現実によって表面だけ塗り替えられ、不可視の領域へと追いやられてゆく。しかし現実も陰謀論も何もあったものではない、人びとが忘れ去るだけなのだった。

エーコの作品を読むのは『フーコーの振り子』(1989年)以来だ。それもテンプル騎士団やフリーメーソンなどを巡る陰謀論を扱い、また『薔薇の名前』(1983年)(実は映画しか観ていない)も虚実あい混じる世界を描いていた。エーコ亡きいま新しい作品はもう生まれないが、せめて、遺された小説群を味わってみなければ。


オルケスタ・リブレ@神保町試聴室

2017-03-12 23:18:55 | アヴァンギャルド・ジャズ

神保町試聴室にて、オルケスタ・リブレを観る(2017/3/11)。デンマークから来日中のキャスパー・トランバーグとラース・グレーヴェとがゲスト。

芳垣安洋 (ds)
青木タイセイ (tb)
渡辺隆雄 (tp)
塩谷博之 (cl, ss)
藤原大輔 (ts)
鈴木正人 (b)
椎谷求 (g)
高良久美子 (vib)
岡部洋一 (perc)
Kasper Tranberg (tp)
Lars Greve (sax)

ファーストセット。「Better Get It Hit in Your Soul」(ミンガス)。それをやるかとビックリの「Hat and Beard」(ドルフィー)。「Hello, Dolly!」ではサッチモの演奏で有名だけあってトランペットふたりの競演。トランバーグの鋭くも丸い音が良い。

セカンドセット。「道化師と銀行員」(青木タイセイ)。芳垣さんがかつてトランバーグから渡された譜面が東洋人っぽいなあと思っていると、何のことはない加藤崇之さんの曲だったという「Shadow」。なんと「The Inflated Tear」(カーク)では、空洞を共鳴させるようなグレーヴェのテナーが、イントロ部分をカリカチュア化するかのように増幅させた。藤原大輔のつや消しのテナーも好きである。「Koutei」(加藤崇之)。そして大事故から6年目、「Canon〜 Oh Lord, Don't Let Them Drop That Atomic Bomb on Me」(ミンガス)。

芳垣さんのドラミングにはいつもの駆動力があって興奮させられる。サウンド全体としては、「美味しい部分」を小出しにするようで、もうちょっと脳内快楽物質を全面開放してほしいところだった。

●参照
MoGoToYoYo@新宿ピットイン(2016年)
須川崇志+ロッテ・アンカー+キャスパー・トランバーグ+ラース・グレーヴェ@下北沢APOLLO(2016年)
ネッド・ローゼンバーグ@神保町視聴室(2014年)
『RAdIO』(1996, 99年) 
大島保克+オルケスタ・ボレ『今どぅ別り』 移民、棄民、基地(1997年)
『RAdIO』カセットテープ版(1994年)


齋藤徹ワークショップ「寄港」第ゼロ回@いずるば

2017-03-12 09:36:49 | アヴァンギャルド・ジャズ

大田区の沼部駅近くにある「いずるば」というスペースに足を運んだ(2017/3/11)。

齋藤徹さんが新たなワークショップを行うということであり、また、とてもジャンル横断的・越境的であり、さらにはプロ・アマ問わず、表現者・リスナー問わずという位置付けだった。ならばわたしもオブザーバー的にハジッこに座っても叱られないだろうと思った次第。

会場には、テツさんの他に矢萩竜太郎さん、喜多直毅さん、笠松環さん、佐々木久枝さん、鈴木ちほさん、大塚惇平さんといった表現者も、わたしのようなリスナーも集まった。20人ほどで車座になってあれこれと発言した。

もとよりきっかけとしてのテーマ群が、ここに書かれているように、一貫性と発散のいずれが指向されているのか不明なものどもである。

徹とジャズ(騒・阿部薫・富樫雅彦・高柳昌行・豊住芳三郎・アケタ・川下・梅津和時・板倉克行・宇梶昌二・広木光一・井野信義・林栄一・小山彰太・黒田京子・
(エリントン・ミンガス・ドルフィー・サッチモ・オーネット・
徹と邦楽・雅楽・能楽(栗林秀明・沢井一恵・石川高・高田和子・久田舜一郎・海童道・

徹とタンゴ(シエテ・プグリエーセ・ピアソラ・小松亮太・弦311・
徹と沖縄・奄美(ジャバラ・劇団衝波ー照屋義彦・アタカーバル・オンバクヒタムへ
徹と韓国音楽(金大煥・姜泰煥・金石出・李光寿・安淑善・李太白・ジョセリンクラーク・ヒョウシンナ・アラスカ・
徹とアジア(韓国関係・ザイクーニン・タイ・ラオス・インドネシア
徹とインプロ(バール・フィリップス、ミッシェル・ドネダ、レ・クアン・ニン、今井和雄、喜多直毅、ロジャー・ターナー、ORT系、フレデリックブロンディ、ザビエ・シャルル、鈴木昭夫、
徹と歌(さとうじゅんこ・松本泰子・
徹とブラジル音楽(シコ・ブアルキ、ミルトン・ナシメント、カエターノ・ヴェローゾ、ピシンギーニャ、ジルベルト・ジル、トム・ジョビン、かみむら泰一、オオタマル
徹とコントラバス(ゲイリー・カー、ミロスラフ・ヴィトウス、バール・フィリップス、バリー・ガイ、ジョエル・レアンドル、セバスチャン・グラムス、ペーター・コバルト、井野信義、GEN311,鶴屋弓弦堂、弦楽器工房高崎、弦楽器の山本、南谷洋策
徹と美術(大成瓢吉・小林裕児・佐藤万絵子
徹とライブペインティング(小林裕児、佐藤万絵子
徹と書(乾千恵・平野壮弦
徹と舞踏(アスベスト館・アイコン・工藤丈輝・岩下徹・田中泯・
徹と演劇(演劇集団「太虚TAO」・カントール・太田省吾・岸田理生・庄﨑隆志・うたをさがして・
徹とコンテンポラリーダンス(ジャン・サスポータス・武元加寿子・黒沢美香・上村なおか・東野祥子・佐草夏美・
徹と伝統
徹と障がい者(態変・矢萩竜太郎・庄﨑隆志・鉄地川原・かたるべプラス・養護学校・
徹と聾(庄﨑隆志・南雲麻衣・貴田みどり・米内山明宏・
徹とダウン症(矢萩竜太郎
徹と自閉症(ドイツプロジェクト・東田直樹・

話題になるトピック
即興
発見(discover と recover )
技法
記憶
ノイズ
コトバ
祝祭とエンターテイメント
今・ここ・私 聴く・待つ・信じる
自分とは?
プロ・アマ
共鳴
共振
ミラーニューロン
同期
非線形
ビブラート
浸透
効果
輪郭
意味
白川静
野口晴哉
野口三千三 
三木成夫 
パスカル・キニャール

従って、話題も統一性をもって何かに収斂するものとはなりえない。むしろそれがねらいのようだった。とは言え会話でも意図してかどうなのか、いくつかのクラスターを形成するものである。

祝祭とエンタテインメント、場の共有:

祝祭的な場(「いずるば」も「出ずる場」)においては、聴き手とやり手とが同じ地平に立ち、別の地平にあるものをともに創出する。この「場」を創ることが大事であって、テツさん曰く、たとえば、韓国の故・金石出さんがちょっと演奏するだけで「空間が浮くような」感覚が生まれたのだった。

自分の演奏や表現だけに注力し周囲を敢えて見ないということは多くなされてきた。しかし、そうではなく、周囲を「ぼんやり見る」こと。ミラーニューロン。

効果的たらんとする動きへの反省と拒否:

ちょうど6年前の事故に象徴されるように、原子力の開発もそうであったかもしれない。表現においても、自分の得意技を事前に訓練してその場で再生・開陳すること、しかしそれは自分の「身体」だけが視野にある動きだった。それは身体を疲れさせていくものであり、そうではなく、身体を「場」の一部とすることにより、やればやるほど元気になっていく心と身体のありようを指向すべきもの。喜多さん曰く、ヨーロッパにおいても、巨匠主義、消費、競争といったものへの反省があり、それらとは異なる表現のありようが模索されているという。

昨年(2016年)に行われたコントラバスリサイタルにおいては、途中でいきなりテツさんが「破綻した!」と叫び、別の即興に移行した。それは、事前の準備(テツさんは「邪念」と・・・)が、「場」において意図せざる方向へと向かわせられた結果としてのプロセスだった。

コトバ:

この「場」において出てきたコトバへの期待とは、もっぱら、即興プロセスにおいて何が起きていたのかを事後的に言語化し、検証し、共有するためのものだった。わたしも即興家が何を考えて臨み、その「場」で何が起きていたのかを共有することには興味がある。しかしそれが、実践する者から一方向に出てくる「解説」や「技術論」であってはつまらないと思う。(それを期待する向きもあるように感じられたのだが。)

関係するかどうか、ここでもキーワードとして提示された白川静は、『孔子伝』において、「思想は本来、敗北者のものである」と書いた。ウンベルト・エーコの『ヌメロ・ゼロ』においても、社会権力という意味では勝者になれなかった者たちの幅広い思索が展開された。

さてここでのコトバとはなにか、表現の内容を伝えるための手段か、それとも表現と並列に存立するものか。

●齋藤徹
りら@七針(2017年)
広瀬淳二+今井和雄+齋藤徹+ジャック・ディミエール@Ftarri(2016年)
齋藤徹『TRAVESSIA』(2016年)
齋藤徹の世界・還暦記念コントラバスリサイタル@永福町ソノリウム(2016年)
かみむら泰一+齋藤徹@キッド・アイラック・アート・ホール(2016年)
齋藤徹+かみむら泰一、+喜多直毅、+矢萩竜太郎(JazzTokyo)(2015-16年)
齋藤徹・バッハ無伴奏チェロ組曲@横濱エアジン(2016年)
うたをさがして@ギャラリー悠玄(2015年) 
齋藤徹+類家心平@sound cafe dzumi(2015年)
齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン(2015年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
バール・フィリップス+Bass Ensemble GEN311『Live at Space Who』(2012年)
ミッシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐(2011年)
齋藤徹による「bass ensemble "弦" gamma/ut」(2011年)
『うたをさがして live at Pole Pole za』(2011年)
齋藤徹『Contrabass Solo at ORT』(2010年)
齋藤徹+今井和雄『ORBIT ZERO』(2009年)
齋藤徹、2009年5月、東中野(2009年)
ミッシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm(2007年)
往来トリオの2作品、『往来』と『雲は行く』(1999、2000年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ+チョン・チュルギ+坪井紀子+ザイ・クーニン『ペイガン・ヒム』(1999年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ『交感』(1999年)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、池澤夏樹『眠る女』、齋藤徹『パナリ』(1996年)
ミシェル・ドネダ+アラン・ジュール+齋藤徹『M'UOAZ』(1995年)
ユーラシアン・エコーズ、金石出(1993、1994年)
ジョゼフ・ジャーマン


ゴリラ・マスク『Iron Lung』

2017-03-11 10:13:50 | アヴァンギャルド・ジャズ

ゴリラ・マスク『Iron Lung』(clean feed、2016年)を聴く。

Gorilla Mask:
Peter Van Huffel (as)
Roland Fidezius (b, effects)
Rudi Fischerlehner (ds) 

今回はじめてピーター・ヴァン・ハフェルのアルトサックスを聴くのだが、一聴して薄い音だなあと思ってしまった。しかし繰り返して耳に入れてゆくと好きになってくる。

かれのアルトには、塩っ辛いような、沸騰して泡立つような、細かいヴィブラートがある。ロングトーンでも、トリオのサウンド全体に自分自身も常に追従するようなフレージングでも、ベースとドラムスとを挑発するように介入してくるときも、アルトの音のマチエールが高い摩擦係数の粘っこさを生み、鼓膜もその粘り気に絡めとられてしまう。ときおりフレーズの終わりにみせる、喉の奥に潜っていくような音もなかなかである。


内田静男+橋本孝之、中村としまる+沼田順@神保町試聴室

2017-03-11 09:01:10 | アヴァンギャルド・ジャズ

神保町試聴室(2017/3/10)。

■ 内田静男+橋本孝之

内田静男 (b)
橋本孝之 (harmonica, as)

橋本さんのハーモニカを聴くのははじめてだ。寒い風の中での呻き声、出口を求めて土壁に爪を立てて血だらけの者の声、それが次第に聴きとれるようになってくる。音を発したあとの響きにはたいへんな寂寥感がある。

アルトサックスに持ち替える。それまで内田さんは抑制したベースを弾いていた。しかしここからふたりは蓋を外す。情を排しながら無機物が人格を持っていくような橋本さんのアルトは、やはり独特なものである。暴風の中で朽ちてゆく廃屋の叫びを幻視した。

 

■ 中村としまる+沼田順

中村としまる (no input mixing board)
沼田順 (g, etc.) 

いきなりのキーンという高音に脳のあちこちが刺激されて覚醒する。中村さんの音の層がなすなにものかの強度が凄い。そこには物語は皆無であり、一方の沼田さんの音には物語があった。もちろんそれがあろうとなかろうと何の判断基準にもならない。外で猫の鳴き声が聞こえたような気がしたが、そうでなかったかもしれない。

Nikon P7800

●橋本孝之
グンジョーガクレヨン、INCAPACITANTS、.es@スーパーデラックス(2016年)
鳥の会議#4~riunione dell'uccello~@西麻布BULLET'S(2015年)
橋本孝之『Colourful』、.es『Senses Complex』、sara+『Tinctura』(2013-15年)


スリランカ音楽のコンピレーション

2017-03-10 08:10:14 | 南アジア

『Sri Lanka / The Golden Era of Sinhalese and Tamil Folk-Pop Music』(AKUPHONE、2016年)を聴く。古いスリランカのレコードから収集した2枚組のコンピレーション盤である。

1曲目、ポール・フェルナンド(16-17世紀に統治したポルトガル系の名前)のバイラが流れた瞬間に、紛う方なきスリランカ音楽の雰囲気が室内に充満する。まぶたをとろんと落として微笑み、上から見ながら甘い声で唄うイメージ。

しかし、実はそんな一面的なものばかりではないのだ。バイラは多数派シンハラ族の大衆歌だが、ヴァイオリンやシタールや各種太鼓を入れてより高踏的に展開するサララ・ギーもある(エリートはバイラを「聴かない」ことになっていた)。サララ・ギーはともすればシンハラ・ナショナリズムを煽るような歌詞の内容のことが少なくなかったというが、本盤にはタミル族のポップスも収録されている。

とは言え、はっきりそれらの区別がつくかと言えば、そうでもない。図式的に見るのはよくないことである。そんなことよりサウンドの多様さに驚かされる。

バイラをインストで展開したスタンリー・ピーリスというサックス奏者もいた。やはり声と同様にサックスも微笑み上滑りして甘い。面白いな。

嬉しいことに、名前だけしか知らなかったW.D. アマラデーワのサララ・ギーが3曲収録されている。スリランカ音楽にインドのラーガを持ち込んだと評価される人物であり、さすがの貫禄と雰囲気。また、やはりパイオニアのひとり、ヴィクター・ラトヤーナカの中性的な歌声と、ハルモニウムやヴァイオリンによる気持ちいいサウンドも聴くことができた。

オリジナル盤のジャケット写真やしっかりした解説もあり、充実している。おススメ。

●参照
スリランカの歌手、Milton Mallawarachchi ・・・ ミルトン・マルラウアーラッチ?


須川崇志+ロッテ・アンカー+キャスパー・トランバーグ+ラース・グレーヴェ@下北沢APOLLO

2017-03-08 22:58:28 | アヴァンギャルド・ジャズ

下北沢のBar Apolloに足を運ぶ(2017/3/7)。何しろ須川崇志さんのソロに、ゲストとしてデンマークから来日中の3人が参加するということであり、見逃すわけにはいかない。

Takashi Sugawa 須川崇志 (b, cello)
Lotte Anker (as, ss)
Lars Greve (ts, cl)
Kasper Tranberg (tp, cor) 

最初に須川さんのコントラバスとチェロのソロを30分程。ハードな弦のサウンドである。

そしてデンマークの3人が参加し、1時間くらい演奏した。ロッテ・アンカーのアルトにはかなり驚かされた。泡立ち、震え、突き刺さるような音を強度を失うことなく継続している。(ところで、アンカーも左手の親指をあんなに付け根から逆に曲げるのだな。わたしは下手で悪い癖が付いていて、いつも痛かった。)

ラース・グレーヴェのテナーは空洞的な響かせ方をして、かなりユニークだ。また、キャスパー・トランバーグは音の出し入れにたけていた。

●須川崇志
蓮見令麻@荻窪ベルベットサン
(2015年)


マル・ウォルドロン『Meditations』

2017-03-06 23:58:34 | アヴァンギャルド・ジャズ

マル・ウォルドロン『Meditations』(RCA Victor、1972年)を聴く。

Mal Waldron (p)

マル・ウォルドロンの吹き込みはどんなものでもマル的で、「外れ」みたいな作品がない。日本制作盤の『You and the Night and the Music』(1983年)や『Plays Eric Satie』(これも1983年)も滋味があって好きである。浮ついたものになりようもなかった個性だったというべきか。

本盤は、実に多作で人気もあった時代における日本でのライヴ。1972年、新宿DUGでのピアノソロである。親密な雰囲気の中で弾く、淡々としたピアノはやはりとても沁みる。

それはそれとして、「All Alone」とか「Left Alone」とか人気曲を弾き始めた途端に、知っているぞ自分は反応するぞと言わんばかりに火がついたように拍手する様子には、聴いていて恥ずかしくなってしまう。いまもその行動パターンは生き残っていると思うが。

●マル・ウォルドロン
マル・ウォルドロン最後の録音 デイヴィッド・マレイとのデュオ『Silence』(2001年)
マル・ウォルドロンの映像『Live at the Village Vanguard』(1986年)
『Interpretations of Monk』(1981年)
エリック・ドルフィー『At the Five Spot』の第2集(1961年)
ビリー・ホリデイ『At Monterey 1958』(1958年)


デイヴィッド・ビニー『The Time Verses』

2017-03-06 22:09:40 | アヴァンギャルド・ジャズ

デイヴィッド・ビニー『The Time Verses』(Criss Cross Jazz、2016年)を聴く。

David Binney (as, vo, eletronics)
Jacob Sacks (p)
Eivind Opsvik (b)
Dan Weiss (ds)
Jen Shyu (vo) (6)
Shai Golan (alto part) (11) 

ビニーは不思議な音楽家だと思う。アルトサックスを吹くと、早いパッセージや低音・高音の迫力やコードからアウトした即興やなんかでは決してアピールしない。だからと言って面白くないわけではなく、聴けば聴くほど、中音域のぬめぬめしたソロが好きになってくる(ドナルド・ハリソンだってそうだったかもしれない)。

そして、ペドロ・アズナールの声がパット・メセニーのサウンドに与えた色のように、ビニーの声が入るとポップ色が快感領域まで急に高まる。本盤でも2曲目はそのように気持ちが良い。ダニー・マッキャスリン『Beyond Now』『Casting for Gravity』への貢献も忘れてはいけない。

本盤は、前作『Anacapa』とはうって変わってシンプルな編成。ジェイコブ・サックスの品のあるピアノ、アイヴィン・オプスヴィークの包み込むようなベース、柔軟なダン・ワイスのドラムスも良い。1曲だけ参加しているジェン・シューもやはり気持ちよく華を添えている。

いやー、ホントに気持ちいい。ビニーは日本で過小評価されていると言いたい今日この頃。

●デイヴィッド・ビニー
ダニー・マッキャスリン『Beyond Now』(2016年)
デイヴィッド・ビニー『Anacapa』(2014年)
ダニー・マッキャスリン『Fast Future』(2014年)
ダニー・マッキャスリン『Casting for Gravity』(2012年) 


タナハシ・コーツ『世界と僕のあいだに』

2017-03-05 20:32:04 | 北米

タナハシ・コーツ『世界と僕のあいだに』(慶應義塾大学出版会、原著2015年)を読む。

この本が出たときに、ブルックリンの「Unnameable Books」という良い感じの書店で買って読んだ(タナハシ・コーツ『Between The World And Me』)。とは言え、何を言っているかよく解らない箇所も多く、そんなところは解らないままに流した。「訳者あとがき」によれば、批評家でさえ「何について語っているのかまるでわからないことがある」そうであり、わたしの理解が及ばないのも当然なのだった。

本書は、黒人として生まれ育ったコーツが、それは何を意味するのかについて延々と思索し、自分の息子に語りかける形になっている。それは当事者であるからこそ得られた理解に違いないものである。

すなわち、マジョリティは、いかに善良であろうとも、己の居場所を根こそぎ奪われる恐怖に怯えることはない。あるいは「わたしは差別者ではない」と意識する。著者にいわせれば、それは「ドリーム」であった。一方のマイノリティは、長い間暴力と抑圧との対象となり、そのために、居場所とコードを逸脱することに対する恐怖や危険に意識的であった。そのことが、仲間内での暴力再生産を生み出したのだとする著者の指摘は的を射たものだろう。

「黒人の生命の略奪は、この国の揺籃期にさんざんぱら教え込まれ、歴史を通じて強固なものにされてきたのであって、今や国の世襲財産であり、知性であり、直感であり、僕らがたぶん最後の日までいやおうなく立ち戻ることを強いられるデフォルト設定にまでなっているんだよ。」

コーツのこの書は、単なる告発や弾劾の書ではない。世界の非対称性や、世界を分かつ線を引く手が何によるものなのかを考え、それに対して、自己を守り、確立し、闘わなければならないというメッセージだと言うことができる。

●参照
タナハシ・コーツ『Between The World And Me』
リロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)『ブルース・ピープル』
リロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)『根拠地』 その現代性
マニー・ピットソン『ミニー・ザ・ムーチャー』、ウィリアム・マイルズ『I Remember Harlem』ジーン・バック『A Great Day in Harlem』
2015年9月、ニューヨーク(2) ハーレム
2014年6月、ニューヨーク(4) ハーレム
ハーレム・スタジオ美術館再訪(2015年9月)
ハーレム・スタジオ美術館(2014年6月)
MOMA PS1の「ゼロ・トレランス」、ワエル・シャウキー、またしてもビョーク(ロレイン・オグラディ)
ナショナル・アカデミー美術館の「\'self\」展(ハーレムで活動するトイン・オドゥトラ)
チコ・フリーマン『Kings of Mali』


土井徳浩@新宿ピットイン

2017-03-05 20:09:22 | 中南米

新宿ピットイン昼の部にて、土井徳浩DUO(2017/3/5)。

Tokuhiro Doi 土井徳浩 (cl)
Takeshi Obana 尾花毅 (7 strings g)
Sawori Namekawa 行川さをり (vo)

クラとギターのデュオ、またはヴォーカルを加えたトリオで、ブラジルのギタリスト・作曲家であるギンガ(Guinga)の曲ばかりを演奏するという趣向。 

確かに行川さんが「おたまじゃくしが多い」という通り、トリッキーでうねうねした曲ばかり。それでいて愉しくも物哀しくもある調子であり、それを、土井・尾花の超ハイテクにて何てことないといわんばかりに展開していく。クラもギターも音色が少しドライでとても滑らかである。行川さんもちょっとかすれた良い声でスピーディーに唄う。

ギンガって聴いたことがなかったが、こんなユニークな曲を書く人だったのか。(ところで、「Mingus Samba」という曲もあったが、あまりミンガスっぽくなかった。)amazon musicにも入っているし、あとで聴いてみよう。