「昭和史 1926-1945」半藤一利
読み返し。
毎日出版文化賞特別賞受賞。
昭和史の決定版、文章も読みやすい。
満州事変について
P81
この人たち(本庄繁・石原莞爾・三宅光治・板垣征四郎)は本来、大元帥命令なくして戦争をはじめた重罪人で、陸軍刑法に従えば死刑のはずなんです。
(中略)
昭和がダメになったのは、この瞬間だというのが、私の思いであります。
上海事変
P96
中央からもらった2万円で、自分の愛人で「東洋のマタ・ハリ」と言われている川島芳子も使って中国人に金をまき、事件を起こす算段をしました。そして1月18日、ついに事件はおきます。日蓮宗の坊さん2人が信徒3人を連れて上海の街を「南無妙法蓮華経」と托鉢して歩いている時、抗日運動が盛んな頃ですから、反日分子――といってもそう装わせた中国人――がそれを襲撃し、結果としては2人が死に3人が重症を負うという殺人事件になりました。
この無法をチャンスとした日本軍は、「犯人をだせ」と厳重抗議をします。中国側は覚えがありませんから「何を言うか」ともみ合って一触即発になります。向こうは反日で燃えてますし、こっちはやる気じゅうぶんというか元々そのつもりなんですから、あっという間に火を噴いて、10日後、中国軍と日本軍が弾を撃ち合う大事件に発展したのです。
今話したことはのちにわかったことで、当時はまさか日本軍の謀略で田中隆吉と川島芳子が組んでしかけたなんて誰も知りませんから「やっぱりはじまったか」と日本人の皆が思った。
2.26事件
P159
私は生き残った少尉4人に戦後もずっと後に会いまして「殺すことはなかったんじゃないですか」と聞いたところ、4人共「そうなんだよなあ」と、どうも後悔していたようです。
P177
この年の5月18日、かの有名な「安部定事件」が起きます。(中略)
ちょうどこの時に、チャップリンとフランスの詩人ジャン・コクトーが来日しましたが、ともにあまり騒がれないほど国民は安部定事件の話題で沸いていました。
P181
西安というのは、唐の時代(618~907)の世界的大都市だった長安で、始皇帝の墓や兵馬俑、三蔵法師が仏教の経典を持って来て納めたという大雁塔などがあります。その街はずれの温泉「華清地」で玄宗皇帝と楊貴妃が喋々喃々やっていたという話もあり、今は大歓楽地になっています。(その華清地の裏山に、蒋介石が軟禁された穴倉が残っているそうだ=即ち「西安事件」)
P182
西安事件とは、中国のナショナリズムが一つになって誕生する、まさに対日抗戦を可能にする歴史の転換点だったのです。
しかし日本は、この情報が伝わってきたにも関わらず、中国が今や一つになろうとしていることをまったく理解していませんでした。
昭和12年、野上弥生子さん、年頭の新聞紙上での挨拶
P183
「(前略)洪水があっても、大地震があっても、暴風雨があっても、・・・・・・コレラとペストがいっしょにはやっても、よろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように・・・・・・」
盧溝橋事件の際の牟田口廉也
P188
「敵に撃たれたら撃て、断固戦闘するも差し支えなし」
まさしく抗戦命令です。こういう命令は、ほんとうはその上の旅団長にきちんとしらせるかたちをとって、統帥命令といいいますか、天皇命令にしないまでも、参謀本部命令にしないといけないのですが、牟田口さんは独断命令を一木大隊長に下したのです。
トラウトマン和平工作は昭和13年1月15日で打ち切られてしまうその翌日
P206
1月16日、近衛さんは声明を発します。これが有名な「国民党政府を相手にせず」、つまり国民政府を政府としては認めない、もう和平なんてしないというもので、これでは戦っている当事者は最後までやらざるを得なくなってしまいます。実に馬鹿げた話で、せっかく参謀本部が乗り気だったのに、政府が強行でぽしゃってしまったのです。(近衛文麿は昭和20年12月、服毒自殺している)
南京大虐殺
P197-201
その根拠は・・・
旧日本軍の集まりである偕行社「南京戦史」
いわゆる不法な行為によって殺されたとすれば、三万強がその数ということになりましょうか。
(中略)
ただ、中国が言うように三十万人を殺したというのは、東京裁判でもそう言われたのですが、あり得ない話です。当時、南京の市民が疎開して三十万もいなかったし、軍隊もそんなにいるはずはないのですから。
(比較の問題じゃないけど、文化大革命では40万人から1000万人以上と言われる)
P236
この戦い(ノモンハン事件)を指揮した関東軍の参謀が、服部卓四郎中佐と辻政信少佐でした。(中略)二人とものほほんとしたことを言っていますが、そこからは責任のセの字も読み取れません。まことにひどい話です。
P238
つまりノモンハン事件で膨大な被害を被らせた二人が再び参謀本部に戻って「今度は南だ」と南進政策――これはイギリス、アメリカとの正面衝突を意味します――を、「こんどこそ大丈夫」と言わんばかりに推進したのです。
P239
作戦課長・服部卓四郎大佐「サイパンの戦闘でわが陸軍の装備の悪いことがほんとうによくわかった・・・(後略)」
何たることか、ノモンハンの時にすでにわかっていたではないか(後略)。
・・・学習能力のない陸軍だった。
三国同盟が結ばれた時の西園寺公望の言葉
P319
「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上で死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」
P356
『昭和天皇独白録』には「・・・・・・国際信義を無視するもので、こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷める様に云ったが、・・・・・・」と驚くようなことが記されている。
P356
私などは調べれば調べるほど、近衛はこりゃだめな宰相だと思うのですが、昭和天皇はそうじゃなかったんですねえ。
ミッドウェー海戦について
P405
山本五十六の部下であった黒島亀人先任参謀がこう断言しているのです。
「作戦は少しも間違っていなかった。機動部隊指揮官の南雲中将が、あらゆる機会を捉えて、アメリカ空母を攻撃するようにという連合艦隊の命令を正しく実行していたら、この海戦は日本海軍が勝利をおさめていたことであろう」
P469
すでに7月24日、ポツダム宣言が出る前に、(原爆)投下命令が出されていたのです。(鈴木貫太郎は、ポツダム宣言に対して「黙殺」すると言明したが、どう訳したのかよく問題になる――ignore なのか、reject なのか?、と。しかし、既に投下命令が出ていたのなら、どうしようもない。「歴史をかえた誤訳」鳥飼玖美)
著者・半藤一利さんの感想&結論
P498
それにしても何とアホな戦争をしたものか。この長い授業の最後には、この一語のみがあるというほかはないのです。ほかの結論はありません。
歴史からの教訓
P503
①国民的熱狂をつくってはいけない
②具体的な理性的な方法論を検討せねばならない(希望的観測に頼ってはいけない)
③日本型タコツボ社会における小集団主義の弊害・・・参謀本部と軍令部は小集団エリート主義の弊害そのもの
④ポツダム宣言の受諾が意志の表明でしかなく、終戦はきちんと降伏文書の調印をしなければ完璧なものにならないという国際的常識を、理解していなかった
⑤対症療法で、その場その場のごまかし的な方策で処理してしまった
南進について・・・
P529
根拠なき自己過信、驕慢な無知、底知れない無責任と評するのは容易です。けれども、よく考えると、いまの日本も同じようなことをやっているのじゃないかと、・・・(後略)
ノモンハンの教訓
P533
①失敗を率直に認めず、その失敗から何も教訓を学ばないという態度
②情報というものを軽視し、非常に「驕慢な無知」に支配されていた
③「底知れぬ無責任」勇猛敢闘させるようなものであれば、失敗しても責任が問われなかった
【参考図書】
「地図と写真でみる半藤一利昭和史1926-1945」
「昭和史裁判」半藤一利/加藤陽子
「昭和の名将と愚将」半藤一利・保阪正康
「昭和史 戦後篇」半藤一利
「歴史認識」とは何か 対立の構図を超えて」大沼保昭/江川紹子
「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」加藤陽子
【ネット上の紹介】
授業形式の語り下ろしで「わかりやすい通史」として絶賛を博した「昭和史」シリーズ戦前・戦中篇。日本人はなぜ戦争を繰り返したのか―。すべての大事件の前には必ず小事件が起こるもの。国民的熱狂の危険、抽象的観念論への傾倒など、本書に記された5つの教訓は、現在もなお生きている。毎日出版文化賞特別賞受賞。講演録「ノモンハン事件から学ぶもの」を増補。
[目次]
昭和史の根底には“赤い夕陽の満州”があった―日露戦争に勝った意味
昭和は“陰謀”と“魔法の杖”で開幕した―張作霖爆殺と統帥権干犯
昭和がダメになったスタートの満州事変―関東軍の野望、満州国の建国
満州国は日本を“栄光ある孤立”に導いた―五・一五事件から国際連盟脱退まで
軍国主義への道はかく整備されていく―陸軍の派閥争い、天皇機関説
二・二六事件の眼目は「宮城占拠計画」にあった―大股で戦争体制へ
日中戦争・旗行列提灯行列の波は続いたが…―盧溝橋事件、南京事件
政府も軍部も強気一点張り、そしてノモンハン―軍縮脱退、国家総動員法
第二次大戦の勃発があらゆる問題を吹き飛ばした―米英との対立、ドイツへの接近
なぜ海軍は三国同盟をイエスと言ったか―ひた走る軍事国家への道
独ソの政略に振り回されるなか、南進論の大合唱―ドイツのソ連進攻
四つの御前会議、かくて戦争は決断された―太平洋戦争開戦前夜
栄光から悲惨へ、その逆転はあまりにも早かった―つかの間の「連勝」
大日本帝国にもはや勝機がなくなって…―ガダルカナル、インパール、サイパンの悲劇から特攻隊出撃へ
日本降伏を前に、駆け引きに狂奔する米国とソ連―ヤルタ会談、東京大空襲、沖縄本島決戦、そしてドイツ降伏
「堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ビ難キヲ忍ビ…」―ポツダム宣言受諾、終戦
三百十万の死者が語りかけてくれるものは?―昭和史二十年の教訓
ノモンハン事件から学ぶもの