MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

長門裕之が残した8ミリフィルム

2011-05-24 00:21:24 | Weblog

長門裕之さん死去…ユーモラスで哀感ある演技(読売新聞) - goo ニュース

 正直に言うならば長門裕之を見るとどうしても桑田佳祐を思い出してしまう世代としては

弟の津川雅彦が若い頃は美男子であったと認めてもいいと思うのだが、1956年に公開

された映画『太陽の季節』を見ても、どうしてそれほど美男子ではない人が主役をしている

のか理解できず、認知症の南田洋子をテレビに“売った”印象も拭えず、結局、長門裕之

には全く良いイメージが持てないままであるが、一つ気になることがあって、以前長門が

テレビに出演していて自宅を披露していた時に、大量の8ミリフィルムが納めてある部屋

を紹介していた。長門は未整理のまま8ミリフィルムを放置したままで、自分でも整理

したいと思っているが、余りにも多すぎて手がつけられないと語っていた。長門が残している

この8ミリフィルムはかなり貴重なものだと思う。東京国立近代美術館のフィルムセンターが

保管して整理するべきだと思う。


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『特集:筒井武文監督特集』 100点

2011-05-24 00:15:34 | goo映画レビュー

特集:筒井武文監督特集

-年/日本

ネタバレ

感性の老いについて

総合★★★★★ 100

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 最初に「筒井武文ー映画史を逆側へと突き抜けて行く過激な現代映画作家」と題された映画監督の諏訪敦彦の文章を引用してみたい。
 「東京藝大や映画美学校で教鞭をとっているからという訳ではなく、筒井武文は学生時代から教育者であった。ビデオソフトなど無い時代に、年間1000本の映画を見ていた彼が『これは傑作だ』と呟けば、われわれは否応無くその映画を見なければならなかったし、なぜそれが傑作なのかを考えなくてはならなかった。 同じ東京造形大学の学生であった、犬童一心や私をもっとも教育したのは筒井武文である。しかし作家としての彼は、映画館の暗闇にいる時とまったく別の艶やかな表情をしている。大学の教室で『レディメイド』を初めて見た時、シネマスコープで映し出されたファーストカットを見ただけで、ただただ『ああ、映画 だ!』と驚嘆したのを覚えている。映画が滴っていた。あれは理論や原理で撮れるショットではない。『ゆめこの大冒険』も、映画史との戯れといった呑気な営みなどではなく、映画への欲望によって映画史を逆側へと突き抜けて行く過激な現代映画であるし、20年前に3Dを奥行きの表現として使おうとした『アリス・イン・ワンダーランド』の映画的先見性も注目に値するが、何よりそれはジャック・ドゥミーのような呪われた愛に貫かれている。学生時代以来ゆっくりと更新されてゆくフィルモグラフィーにおいて、筒井武文が前進させてゆく『映画』に、私は未だに追いつけていない。」
 『アリス・イン・ワンダーランド』は未見であるが、『レディメイド』において、シモンとマイという2人の子供の子守を頼まれた若いカップルが時間を潰そうと連れて行った遊園地で巻き起こる引っ切り無しの‘人間違い’の末の巧妙な‘つなぎ間違い’はアラン・レネというよりも、むしろ『地下鉄のザジ』(ルイ・マル監督 1960年)だと思うが、セリフの聞き取りにくさを除けば楽しいものに仕上がっているし、1984年に制作されたサイレント作品『ゆめこの大冒険』は初期のチャールズ・チャップリンのドタバタ喜劇からジョルジュ・メリエス的な特撮による世界一周旅行まで、サイレント映画が出来ること全てを盛り込んだ傑作になっており、間違いなくこれ以上のサイレント映画は二度と制作されることはないであろう。
 2008年に制作された『孤独な惑星』を観る前に、私の頭に過ぎった不安は監督のセリフに関する‘感度’に関してだけであった。『ゆめこの大冒険』はサイレント作品で『学習図鑑』は舞台俳優によるセリフの言い回しなので問題は無かったのであるが、『レディメイド』に出演していた役者たちのセリフの言い回しが余りにも酷過ぎたからである。
 『孤独な惑星』のセリフに関していうならばスウェーデン人の、笑いを取ろうと狙ったのかどうかよく分らない不自然な日本語を除けば、それほど悪くはなかったのであるが、全く観ていて心が弾まなかった。例えば綾野剛演じる男性が働いているレンタルヴィデオ店に三村恭代が演じる同棲している彼女が探しに来た時に、彼女に気がつかれないように男性が店を抜け出すのであるが、その時、店の入口にある防犯カメラを切ろうとして、代わりに彼女に対応していたミッキー・カーティスが演じる店長の背後のモニターにアップで映ってしまう彼の顔に彼女が気がついてドタバタ喜劇が始まるのかと思いきや、その‘伏線’は不発に終わってしまう。2人の隣に住んでいる竹厚綾が演じる女性の部屋へ彼を探しにその彼女が訪ねてくるシーンにおいても、彼女は彼と面識が無いことになるのであるが、それ以前に彼が同棲している彼女が作ったシチューを鍋ごと彼が持っていっているのだから、面識が無いことになる設定には違和感を持ってしまう。
 正直に言うならば『孤独な惑星』には楽しさが全く感じられなかった。例えば『レディメイド』の似たような3人の男性や『ゆめこの大冒険』のゆめことゆめこに扮装した男性のように、2人の女性を類似させることで‘活劇’に仕上げることも出来たはずである。類似という手法は決して古いものはない。先週全世界同時公開されたばかりの『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』(ロブ・マーシャル監督 2011年)においても、主人公のジャック・スパロウは自分の名を騙ってクルーを集めている、衣装がジャックに瓜二つのアンジェリカと一戦を交えることから物語に活力が宿ったはずである。
 映画の楽しさしか知らなかったシネフィルが、つまらないが真面目な大学教授に成り下がってしまったという印象を拭いえない。身内で楽しむぶんには問題無いのかもしれないが、残念ながら‘門外漢’である私には『孤独な惑星』の面白さが全く理解できなかった。しかし私の評価が低くても気にする必要は全くない。私のレビューなどほとんど読まれていないのだから。


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