ブルーバレンタイン
2010年/アメリカ
一味違う「犬の映画」
総合
90点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
‘倦怠期’の夫婦間の問題は傍目からはなかなか理解できないということは『めし』(成瀬巳喜男監督 1951年)で既に述べたのであるが、この『ブルーバレンタイン』の若い夫婦が抱える問題も傍目から見る限りでは圧倒的に夫のディーンの分が悪い。しかし既製の物語に囚われずに作品そのものを注意深く見るならば、必ずしもディーンだけに責任を押し付けるわけにはいかなくなる。
事の発端は妻のシンディが檻にカギをかけることを忘れてしまったために家族で飼っていた愛犬が車に轢かれて死んでしまったことからである。この夫婦にとって愛犬が重要な意味を持つ理由は一人娘のフランキーがディーンの実の娘ではないことにある。つまりディーンにとっては愛犬が仮想としての夫婦の実の子供なのである。朝食の最中にディーンとフランキーがテーブルの上にじかにレーズンを並べて犬のように舌を使って舐めて食べるシーンは2人の悪ふざけというよりも、寧ろ死んだ愛犬を家族同様に見倣して一緒に同じように食べていたと捉えるべきであろう。
そもそも家族に恵まれず高校を中退しながらも運送業に携わり、仕事を一つ一つ丁寧にこなしていた誠実なディーンが、結婚後に何故あのようになってしまったのか不思議なのだが、その前にシンディについて考えてみたい。
元々医学部に在籍しており、将来は医者になるはずだったのであるが、何故か今は看護婦として働いているシンディに対する誰もが抱く疑問は、妊娠した時に何故父親であるはずのボビーに全く相談しないのかである。恐らくボビーのその後の言動を見るならばボビーの暴力が怖くて相談できなかったのであろうと推測できる。暴力をふるうのはボビーだけではない。シンディの父親も癇癪持ちで妻の作った料理が気にいらないだけでも怒鳴り散らす男である。シンディは初体験が13歳の時でディーンと結婚するまでに男性経験は25人くらいだと告白している。この人数が多いのかどうかよく分からないが、私はシンディは男性に対して恐怖心があり、その結果自らをネグレクトしていると思う。
ディーンはそんなシンディの全てを受け止めて結婚するのであるが、7年間の結婚生活で2人には性交渉が一度も無かったのではないだろうか? ディーンが無理やり求めれば出来ないことは無かったであろうが、それはシンディがいつも他の男性にされたレイプまがいのものになってしまい、それは誠実なディーンが望んでいるものではない。愛犬がいる間はディーンはその愛犬を2人の子供と見倣して絆を保つことができたが、シンディの愛犬に対するネグレクトのためにディーンは改めて2人の子供が欲しくなる。しかし状況は変わらないどころか7年間でディーン自身がシンディにネグレクトされていたためにすっかり心が荒廃していたのであり、そのことに気がついたディーンは自ら家を出ていくのである。
ネグレクト(=無関心)というなかなか表面化しない微妙なテーマを上手く映像化していると思うが、残念ながら見ていて楽しくない。
【東日本大震災 今何ができる】GW後のボランティア活動(産経新聞) - goo ニュース
今朝の毎日新聞の「みんなの広場」に載っていた仙台市若林区の被災者の投書を
引用してみる。「ひもじい、寒い、眠れない。とにかく、避難所でじっとしていると“間”が
持たない。少しでも心静かに疲れないようにと、ただ横になって目をつぶる。/そこに
『大変ですか』『大丈夫ですか』『困ったことは?』と、次々と声がかかる。被災地以外から
来たボランティアの若者たちだ。ぎこちない口調から、まだ活動を始めたばかりのように
みえる。/私はせっかくの善意と思って愛想よく応えるが、気持ちが落ち着かない。正直に
言って、私の心中を今、話したくない。休みたいだけなのだ。一方で、医療などの支援
活動はただただ慌ただしく、頼もうとする間に去ってしまう。避難民になって初めて、
ボランティアの世話になった。」と書いているこの被災者は今は全壊に近い自宅を応急処置
して住んでいるそうである。誰が悪いというわけではないが、ボランティアも避難民も
お互いが初めてだと意志の疎通が上手くいかず、結局肝心なものほど避難民に届いて
いないという状況は変わっていないということが分かる。