特集:筒井武文監督特集
-年/日本
感性の老いについて
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100点
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最初に「筒井武文ー映画史を逆側へと突き抜けて行く過激な現代映画作家」と題された映画監督の諏訪敦彦の文章を引用してみたい。
「東京藝大や映画美学校で教鞭をとっているからという訳ではなく、筒井武文は学生時代から教育者であった。ビデオソフトなど無い時代に、年間1000本の映画を見ていた彼が『これは傑作だ』と呟けば、われわれは否応無くその映画を見なければならなかったし、なぜそれが傑作なのかを考えなくてはならなかった。 同じ東京造形大学の学生であった、犬童一心や私をもっとも教育したのは筒井武文である。しかし作家としての彼は、映画館の暗闇にいる時とまったく別の艶やかな表情をしている。大学の教室で『レディメイド』を初めて見た時、シネマスコープで映し出されたファーストカットを見ただけで、ただただ『ああ、映画 だ!』と驚嘆したのを覚えている。映画が滴っていた。あれは理論や原理で撮れるショットではない。『ゆめこの大冒険』も、映画史との戯れといった呑気な営みなどではなく、映画への欲望によって映画史を逆側へと突き抜けて行く過激な現代映画であるし、20年前に3Dを奥行きの表現として使おうとした『アリス・イン・ワンダーランド』の映画的先見性も注目に値するが、何よりそれはジャック・ドゥミーのような呪われた愛に貫かれている。学生時代以来ゆっくりと更新されてゆくフィルモグラフィーにおいて、筒井武文が前進させてゆく『映画』に、私は未だに追いつけていない。」
『アリス・イン・ワンダーランド』は未見であるが、『レディメイド』において、シモンとマイという2人の子供の子守を頼まれた若いカップルが時間を潰そうと連れて行った遊園地で巻き起こる引っ切り無しの‘人間違い’の末の巧妙な‘つなぎ間違い’はアラン・レネというよりも、むしろ『地下鉄のザジ』(ルイ・マル監督 1960年)だと思うが、セリフの聞き取りにくさを除けば楽しいものに仕上がっているし、1984年に制作されたサイレント作品『ゆめこの大冒険』は初期のチャールズ・チャップリンのドタバタ喜劇からジョルジュ・メリエス的な特撮による世界一周旅行まで、サイレント映画が出来ること全てを盛り込んだ傑作になっており、間違いなくこれ以上のサイレント映画は二度と制作されることはないであろう。
2008年に制作された『孤独な惑星』を観る前に、私の頭に過ぎった不安は監督のセリフに関する‘感度’に関してだけであった。『ゆめこの大冒険』はサイレント作品で『学習図鑑』は舞台俳優によるセリフの言い回しなので問題は無かったのであるが、『レディメイド』に出演していた役者たちのセリフの言い回しが余りにも酷過ぎたからである。
『孤独な惑星』のセリフに関していうならばスウェーデン人の、笑いを取ろうと狙ったのかどうかよく分らない不自然な日本語を除けば、それほど悪くはなかったのであるが、全く観ていて心が弾まなかった。例えば綾野剛演じる男性が働いているレンタルヴィデオ店に三村恭代が演じる同棲している彼女が探しに来た時に、彼女に気がつかれないように男性が店を抜け出すのであるが、その時、店の入口にある防犯カメラを切ろうとして、代わりに彼女に対応していたミッキー・カーティスが演じる店長の背後のモニターにアップで映ってしまう彼の顔に彼女が気がついてドタバタ喜劇が始まるのかと思いきや、その‘伏線’は不発に終わってしまう。2人の隣に住んでいる竹厚綾が演じる女性の部屋へ彼を探しにその彼女が訪ねてくるシーンにおいても、彼女は彼と面識が無いことになるのであるが、それ以前に彼が同棲している彼女が作ったシチューを鍋ごと彼が持っていっているのだから、面識が無いことになる設定には違和感を持ってしまう。
正直に言うならば『孤独な惑星』には楽しさが全く感じられなかった。例えば『レディメイド』の似たような3人の男性や『ゆめこの大冒険』のゆめことゆめこに扮装した男性のように、2人の女性を類似させることで‘活劇’に仕上げることも出来たはずである。類似という手法は決して古いものはない。先週全世界同時公開されたばかりの『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』(ロブ・マーシャル監督 2011年)においても、主人公のジャック・スパロウは自分の名を騙ってクルーを集めている、衣装がジャックに瓜二つのアンジェリカと一戦を交えることから物語に活力が宿ったはずである。
映画の楽しさしか知らなかったシネフィルが、つまらないが真面目な大学教授に成り下がってしまったという印象を拭いえない。身内で楽しむぶんには問題無いのかもしれないが、残念ながら‘門外漢’である私には『孤独な惑星』の面白さが全く理解できなかった。しかし私の評価が低くても気にする必要は全くない。私のレビューなどほとんど読まれていないのだから。
海水注入中断は東電の判断 枝野氏が認識示す(朝日新聞) - goo ニュース
班目委員長「私は言っていない」 再臨界の危険性発言(朝日新聞) - goo ニュース
再臨界の恐れ、ほとんどなかった…識者の見方(読売新聞) - goo ニュース
菅首相、注水中断への政権の関与否定 復興特別委で答弁(朝日新聞) - goo ニュース
なかなか解くことが困難な案件が生じている。細野豪志首相補佐官によると菅直人が
3月12日午後6時に始まった政府内協議で「海水注入で再臨界の危険性はないか」と
聞いたところ、原子力安全委員会の班目春樹委員長が「危険性がある」と指摘したため、
ホウ酸投入を含めた方法を検討したらしいが、班目春樹が原子力安全委員会委員長として
海水注入を制止するはずは、常識で考えればありえない。結局、班目が「再臨界の可能性
はゼロではない」という趣旨の発言をしたことにするらしい。枝野幸男官房長官は「東電が
やっていることを(政権側が)止めたようなことは一度も承知していない」とし、更に
「なぜ早くやらないんだと催促したことは何度も直接知っているが、逆方向のことは一切
ない」と述べている。菅直人は海水注入の是非について、12日午後6時過ぎから、海江田
万里経済産業相や原子力安全委員会の班目春樹委員長、東電担当者らと協議したことを
明らかにしたうえで、「再臨界が起きれば大変なことになる。そういうことも含め海水注入に
あたって検討をお願いした」と認めているが、 「注水の時もやめる時点も、直接報告は
あがっていなかった。やめろとかやめるなとか言うはずもない」と述べている。つまり官邸で
協議している最中に東電が現場の判断で気まぐれに海水を注入したりしなかったりしていた
ことになる。面白い。私見では菅直人が自分が指示をしないうちに勝手に東電が海水注水
してしまい、「聞いてないよ!」と激怒してから問題がこじれている確率が最も高いと思う。
大木家のたのしい旅行 新婚地獄篇
2011年/日本
炊飯ジャーを共有する意図
総合
80点
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主人公の大木信義と咲は長い同棲生活の末になし崩し的に結婚してしまったために、結婚したまではよかったのであるが、同棲生活の延長という感じが抜けないままで喧嘩が絶えない。ある日、咲がスーパーで買い物をしている時に、スーパーの店員から「とにかく柔らかいよ。味は無いけれどね」と勧められたジゴク産の魚を「じゃぁ(=ジャー)これにします」と答えた辺りから状況が急変して、自分の家の炊飯ジャーを持ち逃げした濡れた男を追うような形で大木信義と咲は地獄へ新婚旅行に行くことになる。
2人だけで楽しく地獄巡りができていれば楽しい新婚旅行になったであろうが、2人だけで楽しむことが出来ず、楽しそうに聞こえる自分たちの背後の様子を確かめずにはいられない。振り向いてしまった結果、大木信義と咲は2人の夫婦としてのあり方を問われることになる。このまま関係の改善を怠り、理解し合えない‘赤い人’と‘青い人’になってしまうのか、あるいは理解しようと努力するのか問われるのであるが、そこで鍵となるのが青い肌の美少女であるヨシコが咲に別れ際に言うセリフなのである。
断言しても構わないと思うが、炊飯ジャーを無くしたことから物語が始まる『大木家のたのしい旅行 新婚地獄篇』は成瀬巳喜男が監督した1951年の作品『めし』の翻案である。1951年とは違って2011年の現代では‘めし’は炊飯ジャーでそれぞれの好み通りに簡単に出来てしまい、その利便性が逆に夫婦を疎遠にさせる要因になる可能性があるのだが、ラストシーンで2人で新しい炊飯ジャーを選んでいるところに希望が持てる。
『めし』では決して語られなかった夫婦の倦怠期の原因をあっさりと言及してしまっているところが映像作品として堪え性がないと思うのだが、はっきり言わなければ作品自体全く理解されなくなることを恐れたのかもしれない。同情に値する。
Infoseek 検索キーワードランキング (2010/12/07~12/13)(インターネットコム) - goo ニュース
2011年5月17日の夕方の動画投稿サイト「ニコニコ生放送」の新番組「田原総一朗
談論爆発!」の初回ゲストとして石原慎太郎が出演し、東京都の青少年健全育成条例の
改正案に漫画家や出版社が「表現の萎縮を招く」などとして反発し、石原慎太郎都知事が
実行委員会を務める「東京国際アニメフェア」への出展を取りやめた問題について発言
している。条例案に対する一連の批判について、石原慎太郎は「その連中に聞きたいん
だけどね、僕らが対象にしているね、エロマンガって言うのを読んだことがあるんですか。
自分で読んでみなさいって」と、成人向けマンガの内容を批判した上で「まあ、それは目を
つぶってやろうと。ただ、その本をね、子どもの手の届くところに置くなっていう条例を作った
わけ。なんでこれが言論統制なの」と、条例案への批判は当たらないとの見方を示した。
そこで司会の田原総一朗が石原慎太郎のの過去の作品について「全部レイプなんだよ。
しかも集団暴行。『そんなこと書いてたのが何を言うか』って思ってた」と指摘したことに
対して、都合の悪いことはいつものように答えない石原なのであるが、この田原のいつもの
“煽り”にまんまとはまってしまい、条例案に対する反発が起こった時期のことを振り返って、
「大きな出版社までが何を被害妄想かなんか知らんけどね、アニメフェアやったらね『あんな
とこ行かない。おれたちは幕張でやる』って言ったらね、震災が来てね両方ともパーに
なった。ざまあみろってんだよ」と暴言を吐いてしまった。不幸な目に遭遇した、自分の考えに
反対する人々に向かって「ざまあみろ」と言える政治家や作家を私は信用しない。
ラース・フォン・トリアー監督、ナチス発言でカンヌ追放 - goo 映画
カンヌ映画祭から緊急追放が発表!ラース・フォン・トリアー監督、ナチ擁護発言に「好ましからぬ人物」【第64回カンヌ国際映画祭】 - goo 映画
デンマークのラース・フォン・トリアー監督は現地時間18日の『Melancholia(原題)/
メランコリア』という新作の公式記者会見において、劇中でドイツの作曲家ワーグナーの曲
を使用している理由を語っている最中、ドイツのロマン主義からの影響を述べた後に
「長いこと自分がユダヤ人だと思っていたが、その後、ナチに傾倒した。ヒトラーの気持ちは
理解できる」と語り、それに対して記者たちが、またいつもの暴言が始まったと笑っていると、
トリアーは「OK. おれをナチと呼んでもいいよ」と発言し、ユダヤ人が建国したイスラエルに
対して「ケツの痛み」と表現し、いらつかせる問題だと言ったそうだ。私はフォン・トリアーの
作品は見ていて面白くないので、好きにはなれないし、彼が“ヒトラーの気持ちが理解
できる”ことを止めることはできないと思うが、これ程の著名な映画監督がドイツのロマン
主義の歴史的陥穽を知らないことに驚いた。何よりも自分の信念を貫けずにフォン・トリアー
が同日のうちに映画祭サイトで謝罪してしまったことが情けない。
「原子炉の火は神様の火」…緩む官邸 失言3連発(産経新聞) - goo ニュース
平田オリザ氏「撤回し謝罪」 「米要請で海洋放出」発言(朝日新聞) - goo ニュース
菅直人は18日に計画的避難区域に指定された福島県飯舘村議会の要望を受けた際、
「皆さんも議員として地元の有権者の皆さんから突き上げというか、大変な要請も受けて
いると思う」と述べた。この時に使われた“突き上げ”という言葉の使い方は間違っては
いるのであろうが、首相の実感ではあるのだろう。国際ジャーナリストの日高義樹は4月
12日に都内で開かれた会合で馬淵澄夫首相補佐官(原子力発電所問題担当)と同席した
際に馬淵は原発事故について「秘密のことが多くてほとんど何も語れない」と話した上で、
「原子炉の火は神様の火」発言をしたという。馬淵は「かような発言はしていない」と否定
しているのであるが、これはまさに“困った時の神頼み”なのか? いつもの2人のことは
もうどうでもいいのであるが、問題は内閣官房参与の平田オリザである。米政府の要請で
福島第一原発事故の汚染水を海洋放出したと語ったことについて「事実関係について
知りうる立場になかった。撤回して謝罪します」としているが、問題は何故知りうる立場に
なかった人物が「米政府からの強い要請で(海に)流れた」と述ることができたのかである。
私は知らないが平田オリザは劇作家として著名らしく、言わば“話術の専門家”として、
例えば上記2人の言葉使いの誤ちを正す役割として内閣官房参与として勤めているはず
なのだから、そのような人が言い間違いをした場合は謝罪ではなくて内閣官房参与を辞任
するべきで、謝れば済むと思っている事が平田オリザの才能の限界である。
冬の小鳥
2009年/韓国=フランス
頼みになる強気
総合
90点
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この作品のラストシーンに希望が見て取れるというレビューを多々見かけるのであるが、残念ながら私にはこの作品の最初から最後まで希望など全く見出すことができなかった。
主人公のジニは父親と継母の間にできた赤ん坊を安全ピンで刺したと誤解されたことでソウル郊外にあるカトリックの児童養護施設に無理やり入所させられ、孤立していた時にようやく友達になったスッキとは一緒に養女になってアメリカに行こうと約束していたのであるが、結局、スッキだけが養女としてアメリカへ行くことになり、唯一の友人に裏切られることになる。足が悪いイェシンが大好きな男性にふられるように性格が悪くては養女に選ばれることはない。
ジニは傷ついた小鳥をスッキと一緒に大人には知られないように世話をするようになるが、雨にうたれた小鳥は死んでしまう。一度は小鳥を土に埋葬するが、ジニの家族が元々住んでいた家から引っ越してしまい今はどこにいるのか分らないということを院長から聞かされた時には、埋葬した小鳥を掘り出して代わりに自分自身を埋葬することにするのであるが、結局死にきれない。
そして遂にジニ自身が施設を出て、養父母のいるフランスへ行く日が来るのであるが、よくよく見るとここは不思議なシーンである。
スッキがアメリカ人の養父母にもらわれる時には事前に数回会ってお互いの相性を確かめていたはずなのだが、何故かジニは養父母と一度も会うことなく異国へ一人で行かされることになる。養父母の性格さえ確認しないことは養子縁組のやり方として極めて不自然で、はっきり言ってしまうならば、ジニは児童養護施設に捨てられたのである。
しかしこのように全く救いのないストーリーでも素晴らしいと思える理由は、人形をズタズタに引き裂くことを厭わず、このような逆境の中でも自殺することなく、一瞬だけでも作り笑顔をして施設を後にするジニの気の強さが信じるに足りるものだからであろう。
リベルタンはフランス政界の伝統?(産経新聞) - goo ニュース
仏大統領夫人が妊娠…サルコジ氏の父親が明かす(読売新聞) - goo ニュース
フランスのリベラシオン紙のジャン・カトルメールのブログによると「フランスでは嘲笑
で済まされる振る舞いも、アメリカでは職業生命の終わりだ。『郷に従う』べきだった」と
指摘しているようだが、大衆紙パリジャンの電子版世論調査でドミニク・ストロスカーンの
「政治復活あり」との回答が31・7%もあったようで、どうやらこの程度の女性に対する
性的虐待はフランスでは許容範囲らしいことに驚きを通り越して呆れてしまう。それに
加えて政敵(性的?)とされているニコラ・サルコジ現フランス大統領の妻カーラ・ブルーニ
が妊娠していることがこのタイミングで発覚した。まるで来年の大統領選挙を見越して
サルコジ本人の“清く正しいセックスをしてますアピール”に見えて笑える。
米大統領選、トランプ氏も不出馬へ 共和党候補選び波乱(朝日新聞) - goo ニュース
シュワちゃんに隠し子「言い訳しない」…米紙(読売新聞) - goo ニュース
実業家のドナルド・トランプはアメリカ大統領選挙への出馬を断念した理由について
「選挙は中途半端な気持ちでは乗り切れないと分かった。私がもっとも情熱を持っている
のはビジネスであり、民間部門を去る用意はできていない」と述べているが、ようするに
「オバマ大統領はアメリカ生まれではない」などと根拠の無いことを言って注目を集めた
かっただけの売名行為だったのである。それにしても共和党の人材不足は深刻なもので、
ジョージ・W・ブッシュあたりから何故かわざわざ頭の悪い人を担ぐ傾向があって、その
象徴として前アラスカ州知事のサラ・ペイリンがいるのであるが、彼女の頭の悪さは
治っていない。確実に言えることは保守派草の根運動「ティーパーティー(茶会)」は
素質よりも話題性だけで選んでいるからまともな人物が選ばれないのである。おそらく
共和党がロナルド・レーガンの再来のように大統領候補として期待していたであろう
アーノルド・シュワルツェネッガーはもう暫く子育てに時間をとられるようだし。
ソフィアの夜明け
2009年/ブルガリア
物語が停滞する理由
総合
60点
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この作品の成り立ち方を理解していなければ、途中で面食らってしまうであろう。
舞台はブルガリアの首都ソフィア。木彫師を生業としている38歳の主人公のイツォはドラッグ中毒を克服すべくメタドン治療を続けている。恋人ニキの誕生日の晩、レストランに出かけるが、ニキに興味を持てないイツォは彼女にそっけない態度をとって喧嘩別れになってしまう。その帰り道、観光客のトルコ人一家がネオナチの集団に襲われている現場に遭遇し、スキンヘッドの17歳の弟であるゲオルギの姿を見つける。助けに入って怪我をしたイツォはその一家の娘のウシュルと親しくなるのであるが、ネオナチ集団に暴行されて重傷を負った彼女の父親は、彼女の母親共々、助けてもらったにも関わらずイツォを好きになれない。ウシュルの母親が娘の携帯電話に送られてきたメールを見て、娘がイツォと密かに会っていることを知り、予定を一日早めて病院から退院してしまったために、イツォとウシュルは逢えなくなってしまう。ソフィアを後にしようとしている途中でウシュルの家族が乗っている車は車道に飛び出してきたゲオルギを轢きそうになる。
ここまでは丁寧に物語が描かれていたのであるが、ここから不可思議な展開を見せる。この後の物語の展開を勘案するならば、自分たちを襲ったネオナチの集団の一人であるゲオルギを見つけたウシュルはイツォに携帯電話で連絡をして、そこから、実はイツォとゲオルギが兄弟であることをウシュルが知るというようなものだが、そのようになることはない。イツォが家にダンボールを運ぼうとしている老人を手伝い、一緒に老人が住む家を訪れた時に懐かしさを感じ、老人の家の中の棚に並べてあるものに興味を示す。それは当然イツォが芸術に関心を示すヒントになるはずなのであるが、結局それが何かは明かされないままである。
敷かれてあった伏線が全く生かされない理由は主人公のイツォを演じていたフリスト・フリストフが撮影の途中で急死してしまったためなのであるが、さすがに『Dr.パルナサスの鏡』(テリー・ギリアム監督 2009年)のように撮影途中の主人公の急死で却ってカルト映画に化けてしまうようなことはなく、現代のブルガリアの社会を辛辣に描くつもりが、中途半端なファンタジー映画に堕ちてしまっていることは隠しようがない。