寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

夏日に食すおろしぶっかけうどん(冷)

2014年05月11日 | 家飯
今日は最高気温が25℃を超えご飯よりも麺類が欲しくなった。讃岐うどんの乾麺を茹でて冷水にさらしよく水切りして器に盛る。ぶっかけの出汁は地元メーカー・アサムラサキのかき醤油をベースに自作。

大根おろし、おろし生姜、天かす、白胡麻、青ねぎをのせて出汁を加えてよくかき混ぜて一気に啜る。生姜の爽やかな風味がクセになりそうだ。次は植物性蛋白・挽き割り納豆を加えて試してみるかな。

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福山市吉津町4‐6・清瀧稲荷神社(古吉津町集会所)

2014年05月11日 | 郷土史
胎蔵寺前を流れる御手洗川(大仏川)に架かる大仏橋。橋の横(すぐ東側)に古吉津町集会所があり鳥居も建っている。

鳥居

額

鳥居の扁額及び集会所の額には「清瀧稲荷神社・恵美須神社・木野山神社」と書かれているが、恵美須神社と木野山神社は後に合祀されたものである。

故(古)吉津
 吉津村は奈良時代からすでにあった。ヨシやアシの生い茂る海べであった。好字を選んで葦洲を吉津とした。漁師といっても半農半漁、自給自足の人たちが住む良い浜、吉い津であっただろう。…
 時代が下って、吉津荘のころがあった。…
 さらに近世初頭、秀吉の天下統一の後、江戸幕府の政治がかたまってきて、元和偃武の世になったとき、支配者水野勝成が前任地大和郡山から、備後へ移封されてきた。ほどなく常興寺山周辺の遠干潟を埋めて城下町を造った。海から薬師寺前の大川(のちに吉津川)をさかのぼって、妙政寺前まで築城の資材が運ばれたという。
 築城に際し、領内九郡から毎日数千人の人夫が集められた。…突貫工事にもかかわらず精力的に働き、三年で築城が完成し、以後しだいに町づくりを進めた。妙政前から、本町を経て、元(本)橋(天下橋)に通じる通りがメーンストリートであった。
 のちに惣門が東へ移り、土橋から南へ通り町ができ、本通りが本町から、胡町・大黒町という新しい町に移った。北郊からの入口に当たる新しい吉津に集落ができ、もとの吉津が故(古)吉津になった。

 大仏橋のたもとに、標記の三社が一つ屋根の下に鎮座している。古くは清瀧稲荷神社の小さな祠が一つだけあった。大正の初めごろ、神野呉服店の四つ角の南西角に祀ってあった恵比須神社が、稲荷社に並んで合祀された。大正の末には木野山神社も同居することになった。木野山神社はもと宮川筋にあった。…
 昭和三十六年、三社合祀の祠を、町内全戸の浄財で拡張大修理した。屋根瓦は手城小学校改築に伴う市の払下げを用い、りっぱな町の集会所ができた。…

 古吉津町内は昔から火事がなかった。清瀧稲荷さんのお蔭だと信じられている。吉津町の清瀧稲荷は、ここ清瀧稲荷の分祀である。

戦災
 …新橋から胎蔵寺に至る通りの両側と古吉津町の西部は、奇跡的に焼けなかった。しかし東の家並の裏は一部焼失した。

『聞書き東学区物語(平成二五年九月増補版発行)』

木札

土曜日の高校からの帰り、太宰ファンの友人と「さとう」というお好み焼き店(吉津町1‐29)でたまに食事をしたものだが、旧木野山神社は店の西側にあったとは驚きである。福山独特のお好み焼きを頬張りながら友人が「君、人間失格を読んだか。あれは凄い小説だよ」と語るのを私は冷淡に聞き流した。そして「仕掛人梅安シリーズの方がよっぽどおもしれーわ」と勝手に結論付けて止めをさしたものだった(笑)

新築された鳥居

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えんどう豆の翡翠煮

2014年05月11日 | 家飯
ドライカレーのトッピング用に茹でたえんどう豆が残ってしまった。豆ご飯の材料にすることも考えたが、翡翠煮が食べたくなった。本来は鞘から取り出した豆(グリンピース)を薄味の出汁で煮て冷まして味を含ませる料理である。しかし今回は横着をして茹で豆を出汁に30分浸けた。

鮮やかな緑色が食欲をそそる。豆本来の色合いと風味を生かした翡翠煮は初夏の逸品だと思う。注意すべき点は豆を長時間煮ないこと。また(急冷して)豆にシワが入ってしまうとこの料理は失敗である。

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