胡町中央交差点より南方を望む。マスオカ洋品店(写真右手 胡町4‐17)と食遊たおごし(写真左手 同3‐10)の前(北側)辺りを天神川が流れていたことは戦前の地図(昭和11年頃)を見ると分かる。東西に延びる道路を昔は天神川筋と言った。
大正生まれの平井宏整さんが両備鉄道胡町駅周辺が時代とともに変化した様子を詳しく回想しているので紹介しておこう。現代人はJR福山駅前が明治以降ずっと繁華街であったと錯覚しがちだが、それが大間違いで歴史は浅いことを伝える貴重な証言である。人の流れが胡町周辺から駅前などに移るのはかなり後(昭和期)なのだ。
ラッキョウ汽車から電気機関車へ 平井宏整
私の生家は本町であったが、屋敷は奥行二十二間と深く、裏口は胡町と接し、垣根越しに裏より抜けさせて頂くと惣門に出られた。そのため物心ついた頃より胡町駅に発着する蒸気機関車の音と汽車のけたゝましい悲鳴を日常生活の一端として育って来た。
毎日の様に裏から聞こえてくる汽車に始めて乗ったのは府中の祖母の出所へ行くため大正十三年五才の時に乗ったことを覚えている。「ラッキョウ」を逆さに立てたような煙突から真黒い煙を出しながら奈良津の「トンネル」をあえぎながら登っていた…
昭和五年秋、福山附近を中心に陸軍大演習が展開された。その後、今の天皇陛下が演習を統監に福山へ見えられ両備鉄道にて正戸山に行かれることになり、私も小学生四年で、東堀端に整列して両備福山駅より出発される陛下をお迎えした。
…陛下の御召列車を牽引するのに最新の電気機関車が使用されていた。両備鉄道もそれまでの蒸気機関車より電気機関車に順次切替えられていた。…我が家から聞く胡町を発着する汽車の出す音は、「ボウー」という蒸気の音から、徐々に「ピュウー」という甲高い金属音に変わっていた。
昭和八年九月両備鉄道が国に買収され福塩南線と変った時、山陽線福山駅から本庄を廻って横尾に線路がつけ変えられるにおよんで、胡町駅は廃止され通町もさびれていった。私の家は本町であったが、前の通りは天神川筋と呼ばれていた。それは今の青年の家の位置に水野勝成が信仰した天神社を祀っていたからであって其の前を流れて天神町・本町・桜馬場町に抜ける水道を天神川といった。そのためこの様な通称で呼ばれていた。この川は私にとって川魚をとる日常の遊び場であった。
(文化財ふくやま第十九号から転載)
両備鉄道 その五(福塩線へ)
…昭和十年十二月十五日、本庄まわりになって胡町駅も、奈良津トンネルもその使命を終えた日であった。
吉津川べりを走っていた電気機関車の独特な警笛は聞かれなくなった。胡町駅の待合室は、閑古鳥が鳴き、くもは巣をはり、踏切の鎖は無用のものとなった。
神石・府中方面行きのバスは、以前と変わりなく、通り町、吉津坂経由で通っていたが、やがて追打ちをかけるように、昭和十五年、バス路線が変わり、大黒町の角から東町経由となった。旧両備鉄道の奈良津トンネルを切通しにし、路面をかさ上げして横尾に出るようになった。胡町界隈の賑わいは、山陽線福山駅の方へ移っていった。
『聞書き東学区物語(平成二五年九月増補版発行)』
明治2年創業の徳永製菓(同4-21)の少し先が広島銀行胡町支店(同2‐3)だが、戦前は藝備銀行と名のっておりこちらも老舗の一つと数えてよいだろう(場所は中之丁から下之丁へ移転)。銀行裏手(東側)には大きな旅館・松乃家があったが、時代の波には逆らえず倒産した。跡地は駐車場になっている。
大正生まれの平井宏整さんが両備鉄道胡町駅周辺が時代とともに変化した様子を詳しく回想しているので紹介しておこう。現代人はJR福山駅前が明治以降ずっと繁華街であったと錯覚しがちだが、それが大間違いで歴史は浅いことを伝える貴重な証言である。人の流れが胡町周辺から駅前などに移るのはかなり後(昭和期)なのだ。
ラッキョウ汽車から電気機関車へ 平井宏整
私の生家は本町であったが、屋敷は奥行二十二間と深く、裏口は胡町と接し、垣根越しに裏より抜けさせて頂くと惣門に出られた。そのため物心ついた頃より胡町駅に発着する蒸気機関車の音と汽車のけたゝましい悲鳴を日常生活の一端として育って来た。
毎日の様に裏から聞こえてくる汽車に始めて乗ったのは府中の祖母の出所へ行くため大正十三年五才の時に乗ったことを覚えている。「ラッキョウ」を逆さに立てたような煙突から真黒い煙を出しながら奈良津の「トンネル」をあえぎながら登っていた…
昭和五年秋、福山附近を中心に陸軍大演習が展開された。その後、今の天皇陛下が演習を統監に福山へ見えられ両備鉄道にて正戸山に行かれることになり、私も小学生四年で、東堀端に整列して両備福山駅より出発される陛下をお迎えした。
…陛下の御召列車を牽引するのに最新の電気機関車が使用されていた。両備鉄道もそれまでの蒸気機関車より電気機関車に順次切替えられていた。…我が家から聞く胡町を発着する汽車の出す音は、「ボウー」という蒸気の音から、徐々に「ピュウー」という甲高い金属音に変わっていた。
昭和八年九月両備鉄道が国に買収され福塩南線と変った時、山陽線福山駅から本庄を廻って横尾に線路がつけ変えられるにおよんで、胡町駅は廃止され通町もさびれていった。私の家は本町であったが、前の通りは天神川筋と呼ばれていた。それは今の青年の家の位置に水野勝成が信仰した天神社を祀っていたからであって其の前を流れて天神町・本町・桜馬場町に抜ける水道を天神川といった。そのためこの様な通称で呼ばれていた。この川は私にとって川魚をとる日常の遊び場であった。
(文化財ふくやま第十九号から転載)
両備鉄道 その五(福塩線へ)
…昭和十年十二月十五日、本庄まわりになって胡町駅も、奈良津トンネルもその使命を終えた日であった。
吉津川べりを走っていた電気機関車の独特な警笛は聞かれなくなった。胡町駅の待合室は、閑古鳥が鳴き、くもは巣をはり、踏切の鎖は無用のものとなった。
神石・府中方面行きのバスは、以前と変わりなく、通り町、吉津坂経由で通っていたが、やがて追打ちをかけるように、昭和十五年、バス路線が変わり、大黒町の角から東町経由となった。旧両備鉄道の奈良津トンネルを切通しにし、路面をかさ上げして横尾に出るようになった。胡町界隈の賑わいは、山陽線福山駅の方へ移っていった。
『聞書き東学区物語(平成二五年九月増補版発行)』
明治2年創業の徳永製菓(同4-21)の少し先が広島銀行胡町支店(同2‐3)だが、戦前は藝備銀行と名のっておりこちらも老舗の一つと数えてよいだろう(場所は中之丁から下之丁へ移転)。銀行裏手(東側)には大きな旅館・松乃家があったが、時代の波には逆らえず倒産した。跡地は駐車場になっている。