山陽新幹線及び山陽本線高架下・東10番ガード南の信号機から南西へ約70mの位置に寺町稲荷神社はある。古びた額には正一位稲荷大明神と記されている。
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神社の由緒を読むと福山空襲で焼失を免れた富吉稲荷と滝法稲荷が現在地に移築・合祀されたことが分かる。戦前の位置について年寄りに尋ねたが、はっきりした答えはかえって来なかった。
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御祭神 宇迦之御魂大神 猿田毘古大神
沿革 江戸中期、元文年間一七三六~一七四一(桜町天皇、八代将軍徳川吉宗の時代)寺町、大組の藩士、京都、伏見稲荷神社の分霊を祭祀せりと言い伝えられ、寺町(一部 旭町)の守護神で大組・新組として二箇所で祀られていました。戦前は、春の大祭が二日間行われ、町内あげての大きな行事で、その賑やかさ盛大さは今も語り草となっています。幸いにして両神社は戦災を免れましたが、都市計画により合祀され、昭和三三年現在地に移築されました。
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『聞書き東学区物語(平成二五年九月増補版発行)』には戦前の寺町に盈進の校舎があった(約25年間存在)との記述が見られ、大正六年版福山案内綴じ込み地図では校舎が賢忠寺(水野勝成公菩提寺 寺町4‐24)と増川女学校の間にある。増川の跡地にパチンコ屋「AXISⅡ(旭町1‐6)」が建設されたことから盈進の敷地の中心は旧豊田眼科医院(寺町9‐17)やこの稲荷辺りと判明した。

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高野山福山別院(真言宗)
遍照山龍華院という。明治十七年八月五日の創建である。備南真言宗七十一ヶ寺によって維持運営されている。
…本堂と付属堂宇のすべてが戦災焼失の災禍にあった。
戦後、戦災復興計画で境内の一部を縮小した。もともと檀家がなく、七十一ヶ寺もそれぞれ苦難の道を歩いているときである、それらからの支援も思うように任せなかった。信仰厚き人々の浄財も得て、昭和二十七年になりやっと本堂の落慶にこぎつけた。
境内の西北奥に、学林があり、僧侶の学問研修・集会の場になっていた。この一角を借りて、現在の盈進高校が草創のころの一時期を過ごしている。当初、東町の製紙工場のあとに、藤井曹太郎が「盈進商業実務学校」を創立し、いくばくもなく立ちのきのやむなきに至り、一時、前記高野山の学林を間借りして授業をしたという。当時の生徒数は三十余名であった。(明治三十七・八年ごろ)後、三之丸町に移転し、さらに明治四十四年、寺町に校舎を新築している。
大正一一.五 甲種商業学校に昇格
大正一一.一一 財団法人盈進学園
昭和一〇.二 三吉町校舎落成移転
昭和一九.四 商業科中止 工業学校になる
昭和二〇.八 戦災で校舎焼失
昭和二一.三 工業科廃止 商業学校になる
昭和二三.五 商業高等学校になる 中学校併設
昭和二七.六 校舎竣工
昭和三六.四 中学校休校
昭和三七.四 盈進高等学校と改称 商業科・普通科を置く
昭和四七.四 千田町新校舎に移転
戦前の校舎(最後の画像は昭和5年頃の福山市街地図から寺町周辺を拡大)跡を示す石柱があっても良さそうなものだが、盈進・増川のどちらも存在しない。誠之館の三吉町校舎跡とは対照的である。やはり卒業生の力の差であろうか。多方面から叩かれている裸の王様(実績のない高給取り=すこぶる無能な代表)が身銭を切って造ればいいのに(笑)
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神社の由緒を読むと福山空襲で焼失を免れた富吉稲荷と滝法稲荷が現在地に移築・合祀されたことが分かる。戦前の位置について年寄りに尋ねたが、はっきりした答えはかえって来なかった。
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御祭神 宇迦之御魂大神 猿田毘古大神
沿革 江戸中期、元文年間一七三六~一七四一(桜町天皇、八代将軍徳川吉宗の時代)寺町、大組の藩士、京都、伏見稲荷神社の分霊を祭祀せりと言い伝えられ、寺町(一部 旭町)の守護神で大組・新組として二箇所で祀られていました。戦前は、春の大祭が二日間行われ、町内あげての大きな行事で、その賑やかさ盛大さは今も語り草となっています。幸いにして両神社は戦災を免れましたが、都市計画により合祀され、昭和三三年現在地に移築されました。
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『聞書き東学区物語(平成二五年九月増補版発行)』には戦前の寺町に盈進の校舎があった(約25年間存在)との記述が見られ、大正六年版福山案内綴じ込み地図では校舎が賢忠寺(水野勝成公菩提寺 寺町4‐24)と増川女学校の間にある。増川の跡地にパチンコ屋「AXISⅡ(旭町1‐6)」が建設されたことから盈進の敷地の中心は旧豊田眼科医院(寺町9‐17)やこの稲荷辺りと判明した。
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高野山福山別院(真言宗)
遍照山龍華院という。明治十七年八月五日の創建である。備南真言宗七十一ヶ寺によって維持運営されている。
…本堂と付属堂宇のすべてが戦災焼失の災禍にあった。
戦後、戦災復興計画で境内の一部を縮小した。もともと檀家がなく、七十一ヶ寺もそれぞれ苦難の道を歩いているときである、それらからの支援も思うように任せなかった。信仰厚き人々の浄財も得て、昭和二十七年になりやっと本堂の落慶にこぎつけた。
境内の西北奥に、学林があり、僧侶の学問研修・集会の場になっていた。この一角を借りて、現在の盈進高校が草創のころの一時期を過ごしている。当初、東町の製紙工場のあとに、藤井曹太郎が「盈進商業実務学校」を創立し、いくばくもなく立ちのきのやむなきに至り、一時、前記高野山の学林を間借りして授業をしたという。当時の生徒数は三十余名であった。(明治三十七・八年ごろ)後、三之丸町に移転し、さらに明治四十四年、寺町に校舎を新築している。
大正一一.五 甲種商業学校に昇格
大正一一.一一 財団法人盈進学園
昭和一〇.二 三吉町校舎落成移転
昭和一九.四 商業科中止 工業学校になる
昭和二〇.八 戦災で校舎焼失
昭和二一.三 工業科廃止 商業学校になる
昭和二三.五 商業高等学校になる 中学校併設
昭和二七.六 校舎竣工
昭和三六.四 中学校休校
昭和三七.四 盈進高等学校と改称 商業科・普通科を置く
昭和四七.四 千田町新校舎に移転
戦前の校舎(最後の画像は昭和5年頃の福山市街地図から寺町周辺を拡大)跡を示す石柱があっても良さそうなものだが、盈進・増川のどちらも存在しない。誠之館の三吉町校舎跡とは対照的である。やはり卒業生の力の差であろうか。多方面から叩かれている裸の王様(実績のない高給取り=すこぶる無能な代表)が身銭を切って造ればいいのに(笑)
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