御手洗川は大仏川とも言う。御手洗川にそって北へ向かうと左手に「恵了坊跡」を示す石柱が建っている。妙政寺の末寺だった恵了坊は呉市に移転し寺号を廣本山法華寺と改めて現在に至る。
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石柱の先に見えるのが渡邊神社である。ここが吉津御番所跡だと知ったのは最近の話だ。高校への通学路として時々利用していたにもかかわらず…。
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番所跡
渡辺伝七さんの家あたりに、昔、番所があったそうな。正式の番所ではなく、裏木戸の類だったともいう。
ここの番所は取調べがすこぶる厳しかった。何でも手をつっこんで調べられた。木之庄・坂田の人は困っていた。
ある農家の人が新しい米桶を造った。町へはいる時は空っぽ。帰りには天秤棒に掛けた荷をかついで番所へ来た。「これ、その方、その桶をそこへ置け、中みはなんじゃ」「へい」答えを待つ間ももどかしく、藁のふたの下に手をつっこんだ。下肥だった。よごれた手では鼻もつまめない。外を指さして「早く行け!それから、余程のことがなければ、持物改めはしないで通られるようになった。オシマイ。
この道は今も高校横を通り、坂田へ通じる道になっている。昔は細い、人一人が通るのがやっとという道だった。…
『聞書き東学区物語(平成二五年九月増補版発行)』

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常夜灯の近くに建つ「吉津御番所由来記」碑には長文が刻まれているが、福山藩の歴史に興味がある人にはぜひ読んで欲しい内容だ。冒頭の一節のみを引用しておく。
吉津御番所は、旧山陽道より横尾を経て福山城下に入る重要な拠点であった。
福山城主阿部備中守正邦公、宝永七年(一七一〇)役人を配して御番所を設置し、通行人の監視体制を敷いた。
其の御番所役人を明治四年廃藩置県まで勤めたのが渡邊家である。
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石柱の先に見えるのが渡邊神社である。ここが吉津御番所跡だと知ったのは最近の話だ。高校への通学路として時々利用していたにもかかわらず…。
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番所跡
渡辺伝七さんの家あたりに、昔、番所があったそうな。正式の番所ではなく、裏木戸の類だったともいう。
ここの番所は取調べがすこぶる厳しかった。何でも手をつっこんで調べられた。木之庄・坂田の人は困っていた。
ある農家の人が新しい米桶を造った。町へはいる時は空っぽ。帰りには天秤棒に掛けた荷をかついで番所へ来た。「これ、その方、その桶をそこへ置け、中みはなんじゃ」「へい」答えを待つ間ももどかしく、藁のふたの下に手をつっこんだ。下肥だった。よごれた手では鼻もつまめない。外を指さして「早く行け!それから、余程のことがなければ、持物改めはしないで通られるようになった。オシマイ。
この道は今も高校横を通り、坂田へ通じる道になっている。昔は細い、人一人が通るのがやっとという道だった。…
『聞書き東学区物語(平成二五年九月増補版発行)』
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常夜灯の近くに建つ「吉津御番所由来記」碑には長文が刻まれているが、福山藩の歴史に興味がある人にはぜひ読んで欲しい内容だ。冒頭の一節のみを引用しておく。
吉津御番所は、旧山陽道より横尾を経て福山城下に入る重要な拠点であった。
福山城主阿部備中守正邦公、宝永七年(一七一〇)役人を配して御番所を設置し、通行人の監視体制を敷いた。
其の御番所役人を明治四年廃藩置県まで勤めたのが渡邊家である。
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