私が所有する「水野家時代福山城下明細地図」は郷土史研究家・平井隆夫さんが誠之会館(広島県立福山誠之館高校敷地内にある)に数日通って写したものという。地図には当時の町割りが詳しく描かれ土橋の南側に番所が置かれているのが分かる。
福山城下町の建設とその構成
福山城下の町人町は水野時代すでに町数三十におよび、その後阿部時代まで町数と地域は固定したままであるが、建設当初は十二町であったといわれる 福山語伝記。この十二町がどの町であったか明らかではないが、最初一つの町であったものが分離して二町ないし三町になったものもあったであろうし、また、町人町がその後増加したのもあろう。…入川の両岸および城郭に近い地域が建設当初から成立していた町であった。下魚屋町の三嶋屋安右衛門という者は正徳年間九十歳で死んだが、彼の語ったところによると、「下魚屋町は築城当初からの町で、自分の家の二階から西浜の薬師の燈明が見えていた。笠岡町・寺町などは、はるか後にできた」ということである 備陽六郡志。
「古美作守様御代迄ハ胡町侍町ニテ候由、中興西町ヘヒケ跡町家ニナリ候」と伝えられている 福山語伝記。古美作守とは二代水野勝俊のことであり、勝俊が没したのが明暦元年(一六五五)であるから、明暦以後に胡町は成立したと推測されるのである。
城下町の北の入口に当る吉津川を渡ったところに惣門が設けられたが、これも初めは本町通筋の古吉津町への出口に設けられていたという。胡町筋が町人町になって惣門もこの筋に移されたので、本町筋がさびれたと伝えられている 福山語伝記。
城下町の道路は、南北に走る幹線が二間半 約五・六七メートル 東西に走る幹線が二間 約四・五三メートル 程度の道幅であったようである 下魚屋町絵図。
『福山市史 近世編』
文献中の下魚屋町は現在の笠岡町西端と宝町中央部辺りを指し、西浜の薬師とは東深津町の薬師寺のことである。周囲に高い建物がないため下魚屋町の家から大川の向こうの薬師寺が見渡せたという古老の回想には驚く。
惣門・土橋
藩政時代、明治時代を通じて、北の方から福山の町中へ来る人の大半は、吉津町を経て惣門の土橋を渡って来た。
吉津町へ来るまでに、車馬交通の難所、藪路の大峠があった。…
坂を下って上井手用水を渡る橋の手前に七面山のある実相寺があり、下り切ったところに田中旅館があった。そこは吉津村であった。大仏川を渡ると吉津町である。問屋・煮売屋が目立ち、胡町・大黒町に入れば、専門の各種商店が軒を並べていた。…
さらにこの商店街が今町・笠岡町と続き、木綿橋まで商店が並んでいた。この商店の並ぶ通りの入口が惣門であった。
昭和五年(一九三〇)、神辺平野で陸軍大演習があった。それまでの石造りの土橋が、急に鉄筋コンクリートの橋に改築された。「戦車が通るので」という理由からの架け替えだったらしい。あるいは砲車だったかも知れない。
戦後、曲がっている胡町北端の道(惣門・土橋のところ)を真っ直ぐにし、道幅を広げるように計画した。道路は約一・五倍になったが直線化は難航した。土橋のつけ替えに八〇万円を要するということで挫折した。吉津町の通りも、現状変更にいささか難色を示した。直線化はついに実現しなかった。
『聞書き東学区物語(平成二五年九月増補版発行)』
現在の土橋南詰の様子。向こう(北)側・吉津町の立ち退き同意が得られなかったために江戸期以来の道筋が残った珍しい例といえる。週末のばら祭を見に来る人には霞町の中央公園からぜひ本通りの北端まで足を延ばしてもらいたい。胡町4-21には明治2年創業の徳永製菓(豆徳)がある。
福山城下町の建設とその構成
福山城下の町人町は水野時代すでに町数三十におよび、その後阿部時代まで町数と地域は固定したままであるが、建設当初は十二町であったといわれる 福山語伝記。この十二町がどの町であったか明らかではないが、最初一つの町であったものが分離して二町ないし三町になったものもあったであろうし、また、町人町がその後増加したのもあろう。…入川の両岸および城郭に近い地域が建設当初から成立していた町であった。下魚屋町の三嶋屋安右衛門という者は正徳年間九十歳で死んだが、彼の語ったところによると、「下魚屋町は築城当初からの町で、自分の家の二階から西浜の薬師の燈明が見えていた。笠岡町・寺町などは、はるか後にできた」ということである 備陽六郡志。
「古美作守様御代迄ハ胡町侍町ニテ候由、中興西町ヘヒケ跡町家ニナリ候」と伝えられている 福山語伝記。古美作守とは二代水野勝俊のことであり、勝俊が没したのが明暦元年(一六五五)であるから、明暦以後に胡町は成立したと推測されるのである。
城下町の北の入口に当る吉津川を渡ったところに惣門が設けられたが、これも初めは本町通筋の古吉津町への出口に設けられていたという。胡町筋が町人町になって惣門もこの筋に移されたので、本町筋がさびれたと伝えられている 福山語伝記。
城下町の道路は、南北に走る幹線が二間半 約五・六七メートル 東西に走る幹線が二間 約四・五三メートル 程度の道幅であったようである 下魚屋町絵図。
『福山市史 近世編』
文献中の下魚屋町は現在の笠岡町西端と宝町中央部辺りを指し、西浜の薬師とは東深津町の薬師寺のことである。周囲に高い建物がないため下魚屋町の家から大川の向こうの薬師寺が見渡せたという古老の回想には驚く。
惣門・土橋
藩政時代、明治時代を通じて、北の方から福山の町中へ来る人の大半は、吉津町を経て惣門の土橋を渡って来た。
吉津町へ来るまでに、車馬交通の難所、藪路の大峠があった。…
坂を下って上井手用水を渡る橋の手前に七面山のある実相寺があり、下り切ったところに田中旅館があった。そこは吉津村であった。大仏川を渡ると吉津町である。問屋・煮売屋が目立ち、胡町・大黒町に入れば、専門の各種商店が軒を並べていた。…
さらにこの商店街が今町・笠岡町と続き、木綿橋まで商店が並んでいた。この商店の並ぶ通りの入口が惣門であった。
昭和五年(一九三〇)、神辺平野で陸軍大演習があった。それまでの石造りの土橋が、急に鉄筋コンクリートの橋に改築された。「戦車が通るので」という理由からの架け替えだったらしい。あるいは砲車だったかも知れない。
戦後、曲がっている胡町北端の道(惣門・土橋のところ)を真っ直ぐにし、道幅を広げるように計画した。道路は約一・五倍になったが直線化は難航した。土橋のつけ替えに八〇万円を要するということで挫折した。吉津町の通りも、現状変更にいささか難色を示した。直線化はついに実現しなかった。
『聞書き東学区物語(平成二五年九月増補版発行)』
現在の土橋南詰の様子。向こう(北)側・吉津町の立ち退き同意が得られなかったために江戸期以来の道筋が残った珍しい例といえる。週末のばら祭を見に来る人には霞町の中央公園からぜひ本通りの北端まで足を延ばしてもらいたい。胡町4-21には明治2年創業の徳永製菓(豆徳)がある。