胎蔵寺前から大仏橋を渡り南下する。思い出のお好み焼き店「さとう」の横を通過すると蓮池川(吉津川)に架かる新橋の北詰に至る。北詰までが吉津町域で橋を渡ると本町および胡町である。
橋の袂に架橋記念碑らしきものが建っており裏面には明治廿一年一月の刻銘があった。碑の後ろの建物が「リカーフードショップうちやま(内山商店 本町10‐10)」で私が生まれる前から営業しているはずだ。
新橋南詰より東方を望む。現在の道路が両備(軽便)鉄道の路線跡で「胡町停車場(後の胡町駅)」は新橋と土橋の間(やや土橋寄り)にあった。昭和5年(1930)頃の福山市街地図を参考にすると駐車場辺りが駅の跡と思われる。
…両備鉄道の方も鞆にやや遅れて、明治四十四年十二月に創立され、着々工事を急ぎました。ここには奈良津から、横尾に抜ける所にトンネルをうがつ工事があり、鉄橋も十四カ所にのぼり、中には天井川があって、橋では抜けられず、川底にトンネルを掘るなど難工事が続きます。最初資本金四十五万円が、後に増資されて七十万円となり、大正三年六月やっと福山-府中間の工事が完成し七月十七日に開通式をあげています。
福山駅は城の東側で、胡町の駅を経て、現在の府中街道の奈良津の坂をあえぎつつのぼり、トンネルに入ったものです。神辺から、平野の北部を連ね、延々一三・五四マイルに及んでいます。
『続備後物語 / 村上正名』
両備鉄道 その四(胡町駅)
吉津町の繁栄が、胡町・大黒町に移る契機は大正三年の両備鉄道開通によって胡町駅が開業したことである。福山行の上り列車が胡町駅に着くと、人の流れが南へ陸続として続く。乗客の八割以上は胡町駅へ下車したという。
下り列車がくるころには、胡町駅に向かう人が北へ北へと動く。
駅前に人力車が一台、常時客待ちをしていた。高橋善次郎さんは、子どものころ遊びで胡町駅から両備鉄道に乗り、お城の下の両備福山まで三銭であった。時々乗って遊んだ。帰りは歩いた。大人は五銭か六銭の時代の話。
福山歩兵第四十一連隊の練兵場で招魂祭が行われるときは、両備鉄道のかき入れどきであった。増結の客車が胡町駅に着くと、うしろの二・三両はプラットホームからはみ出し、道床や踏み切りへ飛び降りる客がいっぱいいた。
通り町は、招魂祭の参拝者・見物客で人が続いた。各店の軒には慰忠魂の紙札を下げている松の小枝が挿してあり、色とりどりのモールにかざられ、福山の年中行事の最大のものの一つであった。招魂祭は祭礼期間中、余興催物があり、それが目当ての人出であった。
『聞書き東学区物語(平成二五年九月増補版発行)』
福塩線のルートが(備後本庄駅経由で横尾に入る)新ルートに付け替えられる(昭和10年)迄存在した短命駅である。廃線跡の大部分は国道313号(旧国道182号)として利用されている。
橋の袂に架橋記念碑らしきものが建っており裏面には明治廿一年一月の刻銘があった。碑の後ろの建物が「リカーフードショップうちやま(内山商店 本町10‐10)」で私が生まれる前から営業しているはずだ。
新橋南詰より東方を望む。現在の道路が両備(軽便)鉄道の路線跡で「胡町停車場(後の胡町駅)」は新橋と土橋の間(やや土橋寄り)にあった。昭和5年(1930)頃の福山市街地図を参考にすると駐車場辺りが駅の跡と思われる。
…両備鉄道の方も鞆にやや遅れて、明治四十四年十二月に創立され、着々工事を急ぎました。ここには奈良津から、横尾に抜ける所にトンネルをうがつ工事があり、鉄橋も十四カ所にのぼり、中には天井川があって、橋では抜けられず、川底にトンネルを掘るなど難工事が続きます。最初資本金四十五万円が、後に増資されて七十万円となり、大正三年六月やっと福山-府中間の工事が完成し七月十七日に開通式をあげています。
福山駅は城の東側で、胡町の駅を経て、現在の府中街道の奈良津の坂をあえぎつつのぼり、トンネルに入ったものです。神辺から、平野の北部を連ね、延々一三・五四マイルに及んでいます。
『続備後物語 / 村上正名』
両備鉄道 その四(胡町駅)
吉津町の繁栄が、胡町・大黒町に移る契機は大正三年の両備鉄道開通によって胡町駅が開業したことである。福山行の上り列車が胡町駅に着くと、人の流れが南へ陸続として続く。乗客の八割以上は胡町駅へ下車したという。
下り列車がくるころには、胡町駅に向かう人が北へ北へと動く。
駅前に人力車が一台、常時客待ちをしていた。高橋善次郎さんは、子どものころ遊びで胡町駅から両備鉄道に乗り、お城の下の両備福山まで三銭であった。時々乗って遊んだ。帰りは歩いた。大人は五銭か六銭の時代の話。
福山歩兵第四十一連隊の練兵場で招魂祭が行われるときは、両備鉄道のかき入れどきであった。増結の客車が胡町駅に着くと、うしろの二・三両はプラットホームからはみ出し、道床や踏み切りへ飛び降りる客がいっぱいいた。
通り町は、招魂祭の参拝者・見物客で人が続いた。各店の軒には慰忠魂の紙札を下げている松の小枝が挿してあり、色とりどりのモールにかざられ、福山の年中行事の最大のものの一つであった。招魂祭は祭礼期間中、余興催物があり、それが目当ての人出であった。
『聞書き東学区物語(平成二五年九月増補版発行)』
福塩線のルートが(備後本庄駅経由で横尾に入る)新ルートに付け替えられる(昭和10年)迄存在した短命駅である。廃線跡の大部分は国道313号(旧国道182号)として利用されている。