福山市胡町7‐8「Kazuoki Hirata Hall」の北側を流れる蓮池川(吉津川)。川の南岸に大きな門と赤い太鼓橋があり、それぞれに「惣門番所」「願掛橋」という名がつけられている。昭和の後期に造られたもののようだ。
…西国街道から城下に入る表門というべき惣門に置いた番所は、陸路における人や物資の城下町との出入を監視したものである。ことに惣門は城下の表門として特別に取り扱われ、番所は町奉行所支配下に置かれたが、惣門自体は大目付支配下とし、掃除なども城内並みに「御掃除方」が行ない、町方支配とはいちおう別個の系列に入っていたほどである。
『福山市史 近世編』
つる橋・かめ橋
古老の中には、吉津川を大川という人もいる。外堀川といったり蓮池川ともいう。子どもたちはよく泳いでいた。浮かびあがったら顔がダベツの泥まみれになっていた。とんぼつり、魚つりなど今から考えると自然が豊かであった。川面へ下りる石段が何か所かあり、洗い場になっていた。北岸では釣人がおおぜい釣を楽しんでいた。(南岸は両備鉄道)
夏は夕方から夜の更けるまで、近所の大人たちが涼をもとめて川べりに集まり、うちわ片手に世間話がはずんでいた。殊に橋上は賑わっていた。
この川幅はもっと広かったし深かった。…
この川には、西から極楽橋・新橋・つる橋・明治橋がかかっていた。土橋は惣門の橋であまりにも有名である。戦前は県道であって、頑丈な作りで、巨大な欄干の親柱と手の込んだ装飾の欄干は、よそでは見られない。…
大正八年七月、野上土手が切れて芦田川の水が氾濫し、福山中が水浸しになった。この大水のとき吉津町一帯は、吉津川のおかげで浸水被害はゼロであった。大川があふれる水を全部呑み込んでくれたのだ。
『聞書き東学区物語(平成二五年九月増補版発行)』
願掛橋の上から吉津川東方を望む。私が子どもの頃、既に川で泳ぐ者はいなかったが、古老の回想と同じようにフナやザリガニ釣りはよくしていた。仲間と作った簡易ボートに試乗して川の真ん中でひっくり返って真っ黒になったことは懐かしい思い出だ。
願掛橋そばの「惣門跡」を示す記念碑によれば江戸期の土橋の全長は十七間(約30メートル)。つまり現在の川幅は昔の約3分の1ほどである。大川と言われて首をかしげたくなるのも無理はない。土橋は願掛橋より少し西側に架かっている。
…西国街道から城下に入る表門というべき惣門に置いた番所は、陸路における人や物資の城下町との出入を監視したものである。ことに惣門は城下の表門として特別に取り扱われ、番所は町奉行所支配下に置かれたが、惣門自体は大目付支配下とし、掃除なども城内並みに「御掃除方」が行ない、町方支配とはいちおう別個の系列に入っていたほどである。
『福山市史 近世編』
つる橋・かめ橋
古老の中には、吉津川を大川という人もいる。外堀川といったり蓮池川ともいう。子どもたちはよく泳いでいた。浮かびあがったら顔がダベツの泥まみれになっていた。とんぼつり、魚つりなど今から考えると自然が豊かであった。川面へ下りる石段が何か所かあり、洗い場になっていた。北岸では釣人がおおぜい釣を楽しんでいた。(南岸は両備鉄道)
夏は夕方から夜の更けるまで、近所の大人たちが涼をもとめて川べりに集まり、うちわ片手に世間話がはずんでいた。殊に橋上は賑わっていた。
この川幅はもっと広かったし深かった。…
この川には、西から極楽橋・新橋・つる橋・明治橋がかかっていた。土橋は惣門の橋であまりにも有名である。戦前は県道であって、頑丈な作りで、巨大な欄干の親柱と手の込んだ装飾の欄干は、よそでは見られない。…
大正八年七月、野上土手が切れて芦田川の水が氾濫し、福山中が水浸しになった。この大水のとき吉津町一帯は、吉津川のおかげで浸水被害はゼロであった。大川があふれる水を全部呑み込んでくれたのだ。
『聞書き東学区物語(平成二五年九月増補版発行)』
願掛橋の上から吉津川東方を望む。私が子どもの頃、既に川で泳ぐ者はいなかったが、古老の回想と同じようにフナやザリガニ釣りはよくしていた。仲間と作った簡易ボートに試乗して川の真ん中でひっくり返って真っ黒になったことは懐かしい思い出だ。
願掛橋そばの「惣門跡」を示す記念碑によれば江戸期の土橋の全長は十七間(約30メートル)。つまり現在の川幅は昔の約3分の1ほどである。大川と言われて首をかしげたくなるのも無理はない。土橋は願掛橋より少し西側に架かっている。