鰻のタレは濃口醤油と本味醂を同割で合せ少しトロミが出るまで弱火で煮詰める。確か2年ほど前に作ったのがベースとなり、以後継ぎ足して使っている。
鰻のエキスが入るほど旨みが増すという説がある。これは決して間違いではないが、タレが古くなるとアンモニア臭が出るのも事実だ。ネックになるのはタレが減るスピードと継ぎ足す量だろう。
私は鰻を焼く前に元ダレに対してほぼ同量の新ダレを加えて使っている。残ったタレは漉して冷蔵庫で保管する。
鰻は素焼きしてからタレを二度つけて炙る(面倒臭いので蒸したことはない)。炊き立てのご飯にタレを適量振りかけて鰻をのせる。タレが満遍なく掛かっていないのがミソなのである。鰻自体に濃い味がついているから白米でバランスを取るのだ。丼物で味の濃淡がないとしたら正直しんどいものがある(笑)
長期にわたる北関東暮らしで海の魚は諦めざるを得なかったが、川魚の代表格である鰻を食べる楽しみを覚えた。小さな町には牛丼チェーン店よりもはるかに多くの鰻屋があった。
広島の人間は鰻を注文してすぐに出てくると勝手に思い込んでいるが、北関東では注文を聞いてから捌くところが大半である。蒸し工程も入るので大体30~40分待つのは当たり前なのである。私は肝焼きやうざくをつまんで酒を飲み、鰻が焼きあがるのを気長に待っていた。
地元に帰って来てから鰻屋に行くことがめっきり少なくなったのは好みの味を出す店が無いためである。蒲焼のタレが甘過ぎて足が向かない店がほとんどだ。せっかく良質の鰻を仕入れてもあのくどい甘みのタレを使ったのでは台無しである。
ばら寿司の甘さには割と寛容な私だが、鰻のタレに関しては滅法厳しい(笑)。東京の上品な鰻料理に慣れてしまうとこっちのはえらく下賎に感じる。鰻に関しては素直に関東に軍配を上げたい。土用の丑=鰻と思い込む地域の人間は本当の味を知らないのが極めて多いと付け加えておこう(笑)
チャイナエアライン機が台湾桃園国際空港を飛び立ってからしばらくして機内食が配られた。後部に座っていたのでかなり待たされた。ちょうど私のところでご飯が無くなり、隣の老人は望みもしない麺類を手渡されむっとしていた。
お代わりの白ワインを注いでもらった時に突如異変が生じた。乱気流に巻き込まれた飛行機は上昇下降を繰り返した。ワインはこぼれそうになるし、食べ物を口に入れることすら難しい。揺れは10分弱続き、食事を楽しんでいる暇はなかった。旅の疲れはピークに達していたのだろう。欠伸が出始めてすぐに眠りに落ちた。
機内アナウンスで正気に戻った時には三原市の上空に入っていた。夜空を照らす街の灯りがキャンドルライトのようでとても美しかった。日本に無事帰ってこられたのが何より嬉しかった。
帰国後すぐに旅行記をまとめるつもりだったが、それが実現するには2年以上の月日を要した。私は僅かな写真と走り書きのメモを頼りに記憶の糸を手繰った。
自分でも驚くほど記憶が鮮明だったのは、やはり友人との再会が大きかったのだと思う。また、自分の目、耳、鼻、舌で感じ取った異国の雰囲気を写真をメインにして説明するのは実に愚かしいと感じた。
あくまでも文章が「造り」であって、写真は所詮脇に添えられた「つま」でしかないということだ(笑)
台北の街は雨が降ると長袖でちょうどいいが、今日みたいな好天ではTシャツ1枚で歩きたくなる。喉の渇きを覚えた私達はオープンカフェでひと休みすることにした。
Rさんは女親分という形容がぴったりの人で交渉にかけては男以上の強さを発揮する。なかなかアイスコーヒーが出てこないので彼女は店員を呼びつけた。どうやらオーダーを忘れてお喋りに夢中だったようだ。こっぴどく叱られた店員は半泣き状態で気の毒になった。
私は改めてRさんとTさんにお礼を言った。そして旅で得たことは一生の宝になると伝えた。名残は惜しいが、昼食開始時刻はとうに過ぎていた。
「そろそろ行かないとKABAちゃんが頭から湯気を出すわ。急ぎましょう」
「はい」
二人は私を昼食会場まで案内してくれた。ここで彼らとは別れた。私が最後に発した言葉は今でも憶えている。
「またお会いすることになると思います。ここ台湾でね」
私達は台北市北部の「国立故宮博物院」に移動した。ここに来るのは二度目だが、改装されて益々立派になっていた。中国文明の粋を集めた故宮には毎年多くの日本人が訪れる。精巧な青銅器にかぶりついて見ているとTさんがこう言った。
「すごいもんだねー。この頃、日本では槍を持って獣を追い回していたんだから(笑)」
彼の言う通りである。私は黙って笑みを浮かべた。Tさんは話を続けた。
「中国はカンカンだよね。日帝のせいで自分とこの財宝がごっそり船で台湾に運ばれたんだから。中国が返せと言っても台湾は馬耳東風だよ。金のなる木をみすみす手放す馬鹿がどこにいるかっての」
「我々の先祖がまいた種がこのような形で発芽するとは…。皮肉なもんですな」
私は歴史の暗部について手短に語ったが、内心では別のことを考えていた。
「これらの財宝が中国大陸から海を渡らなかったとして、果たして無傷で現在まで残っただろうか。共産主義国家の大汚点として語り継がれる文化大革命で破壊される危険性は大きかったはずだ…」
愚民は歴史を負の側面からしか見つめない。しかし、正の側面から冷静に物を考えることも実は重要なのである。
最も古いとされる篆刻の複製品を手に取ることができたのでパンフレットに押印して持ち帰った(※冒頭の画像)。数々の展示を見て古代、印がいかに重要視されていたかがよくわかった。
Rさんは小さな公園の前で運転手に停まるように言った。学生が鐘の周りに自転車を置いて談笑していた。
「有名な場所だから見てもらおうと思って」
彼女が私に指差したのは「傅鐘」だった。名学長として称えられる傅斯年の名をつけた鐘は講義の始まりと終わりの合図として鳴らされていたそうだ。無言で鐘を見つめていた私は、ふと台湾大学の校訓を思い出した。
・徳を修める
・学問に励む
・国を愛する
・人を愛する
今の日本人(学生を含む)はどれ一つとしてできていないのではないか。疑問に思ったことなどを自発的に調べ、大量の情報から正確なものだけを選び出し緻密な検証を経て結論を出すのが真の学問である。
鋭い眼力と論理的思考は本来学生時代に培うものだが、丸暗記が唯一の取り柄である日本人は不確かな情報を集めた時点で満足し、再考するのを止めるのが大いに問題なのだ。
「正門で記念撮影して終わりにします。ここに来られて本当によかった。お二人に感謝しますよ」
旧台北帝国大学表門(現・台湾大学正門 昭和6年竣工)を出て戦前の着色絵はがきと同じアングルで写真を撮り、大学を後にした。次に向かうのは私が一番楽しみにしている所だった。
TさんとRさんがホテルまで迎えに来てくれた。私以外の日本人観光客はガイドと一緒に博物館に行くことになっていた(別料金)。彼等とはしばらく別行動になる。別れ際にKABAが強い口調でこう言った。
「昼食までには絶対帰ってきて下さい」
「多分大丈夫でしょう。最悪の場合、空港へ直行しますから」
笑いながら答えた私にガイドは憎悪の眼差しを向けていた。タクシーで約7km先の「国立台湾大学(かつての台北帝大)」に向かう。最高学府は台北市の南部、大安区羅斯福路(ルーズベルト通り)にある。戦前は富田町と呼ばれたエリアだ。
冷静を装っていたが、気持ちは昂っていた。大学に合格して広島駅からタクシーに乗り千田キャンパスの前に降り立った時とまさに同じだった。
「ゆっくりしたいでしょうが、時間があまりないわ。写真を撮りたいところで車を停めるから合図してね」
Rさんの呼びかけで我に戻った。大学内に居られるのは1時間ほど。効率よく回るにはタクシーが最適であることに気づいた。
「わかりました」
南国情緒あふれる椰子並木に母校の森戸道路を重ね合わせ懐かしい感情が湧き上がってきた。
台北帝国大学は、上山満之進台湾総督時代の昭和3(1928)年3月に創設された。当初、文政、理農の2学部だけだったが、後に医学部と工学部が増設された。
そして昭和16年6月に要望の多かった大学予科(3年制の旧制高校に相当するもの)が開校した。※卒業生は四八八人、在籍者は一六一三人(定員)とされ、台湾人の比率は一割強と推定される(「旧制高校物語」秦郁彦 文春新書 平成15年)。大日本帝国の敗戦により台北帝大はわずか17年で短い歴史の幕を閉じた。
台中市の(旧制)中学4年修了で昭和19年4月に予科入学を果たした名武昌人さんは自由な雰囲気の中で学業を続けられたのは最初の1年だけと回想している。偉そうな配属将校が学内にいて鬱陶しかったことについては他に何人もの大学関係者が手記を残しており、不快感をあらわにしているのを読んだ記憶がある。
パッケージツアーの日程には当然の如く旧台北帝大は含まれていなかったが、私はどうしてもここを訪れたかった。TさんとRさんの尽力の甲斐あって最終日のスケジュールの大半を変更することができたのである。