田中利典師の名著『よく生き、よく死ぬための仏教入門』扶桑社新書から抜粋して紹介するシリーズ、5回目の今日のタイトルは「つり革のようにいざというとき手にすれば倒れない」。いわゆる「仏教吊り革論」の話である。師のFacebook(1/18付)から抜粋する。
拙著『よく生き、よく死ぬための仏教入門』は4年前に上梓されました。もう書店では置いてないですが、金峯山寺にはまだ置いています。本著の中から、しばし、いくつかのテーマで、私が言いたかったことを紹介しています。よろしければご覧下さい。
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「つり革のようにいざというとき手にすれば倒れない」
坂本賢三さんという哲学者の先生(1931-1991年)が30数年前にお書きになった本のなかで、世の中というのはもともと宗教がすべてを支配していた。それから、王さまが支配をするようになって、政治の時代になった。現代は経済がすべてを支配している時代。そして次の時代は経済中心から技術が中心に変わるというふうに予見されていますが(『先端技術のゆくえ』 1987年/岩波新書)、これはじつはローカルなものがグローバルなものに広がっていったということでもあるのです。
このローカルがグローバルによって壊され続けることによって、いろいろな不具合が起きてきたのがいまの時代で、次の時代は、もう一度グローバルとローカルがうまく付き合う、グローカルな時代にいかなければいけないと、私は考えています。宗教が見直される時代でもあり、宗教ぬきにはわたっていけない社会がこれからは待っていると思います。
もう30年以上前ですが、『毎日新聞』の連載ルポルタージュで「宗教を現代に問う」というのがあり、菊池寛賞を受賞したと記憶しています。そのタイトルを一部拝借して、私は「仏教を現代に問う」というテーマでお話しすることも多いのですが、現代はかつてとは違った意味で、宗教ブームになっています。パワースポット、聖地巡礼、御朱印集めが流行し、仏像ガールという言葉もあります。それらを一過性のものと冷めた目で見ず、宗教への入り口になればとも願います。
「お寺(仏教)は吊り革です」…こう言うと「なにそれ?」と戸惑われる方も多いかもしれませんが、じつは「宗教吊り革論」という言葉があります。電車に乗っていて、急に電車が止まったり、カーブで曲がったりしたとき、人は吊り革をシュッと持って、倒れないようにしますね。
宗教も同じで、人生のなかではいろいろなことが起こります。いろいろな落とし穴があり、悩み、苦しみ、もがきます。そういったときに、常にそばに宗教を置いていると、吊り革をつかむがごとく、倒れずに済むことがあります。ですから、普段から宗教に接していることはたいへん大事だということです。
席に座っているときは必要がないですし、立っていてもつかむときもあればそうでないときもあります。身近なところにあるけれど、普段はあまり深く意識することはありません。でもイザというときにつかめは、自分だけでなく、周囲も守ってくれる存在でもあります。
宗教が支えになるよう、常日頃から少し親しまれておくのもいいでしょう。
まずは、人にはよりよく生きていく力があると信じて、ご自分の暮らし方を整え、ほかの人のことを思いやり過ごしていかれるといいと思います。「どんなお墓にするか」や「どんな戒名にするか」などだけにとらわれることなく、日々を丁寧に生きていくことが、結局はよりよい人生を全うする手立てとなり、自分自身にとっても家族にとっても、よい終活となるでしょう。
もちろん、死に至るまでのプロセスには、いろいろと思いがけないことが起こるでしょうが、そのようなときのためにも、宗教という「つり革」をぜひそばに置いてください。皆さんの「終活」が、その「つり革」を携えたものであってほしいと思います。葬式をやめるとか、脱葬式でなく、もう一度、祈りと弔いを取り戻すことが人間を幸せに生かすことであるし、人間が幸せに死ぬことにつながるということです。
そして、先述した「仏教を現代に問う」というのはじつは間違いで、ほんとうは、現代人が仏教に問うべきであり、それに対して、これからは、寺院なり、仏教なり、僧侶が積極的に応えていくことが大事なのだと思います。
~拙著『よく生き、よく死ぬための仏教入門』(扶桑社BOOKS新書)からの跋文/電子書籍でも読めます。
*写真は『先端技術のゆくえ』(岩波新書刊)
拙著『よく生き、よく死ぬための仏教入門』は4年前に上梓されました。もう書店では置いてないですが、金峯山寺にはまだ置いています。本著の中から、しばし、いくつかのテーマで、私が言いたかったことを紹介しています。よろしければご覧下さい。
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「つり革のようにいざというとき手にすれば倒れない」
坂本賢三さんという哲学者の先生(1931-1991年)が30数年前にお書きになった本のなかで、世の中というのはもともと宗教がすべてを支配していた。それから、王さまが支配をするようになって、政治の時代になった。現代は経済がすべてを支配している時代。そして次の時代は経済中心から技術が中心に変わるというふうに予見されていますが(『先端技術のゆくえ』 1987年/岩波新書)、これはじつはローカルなものがグローバルなものに広がっていったということでもあるのです。
このローカルがグローバルによって壊され続けることによって、いろいろな不具合が起きてきたのがいまの時代で、次の時代は、もう一度グローバルとローカルがうまく付き合う、グローカルな時代にいかなければいけないと、私は考えています。宗教が見直される時代でもあり、宗教ぬきにはわたっていけない社会がこれからは待っていると思います。
もう30年以上前ですが、『毎日新聞』の連載ルポルタージュで「宗教を現代に問う」というのがあり、菊池寛賞を受賞したと記憶しています。そのタイトルを一部拝借して、私は「仏教を現代に問う」というテーマでお話しすることも多いのですが、現代はかつてとは違った意味で、宗教ブームになっています。パワースポット、聖地巡礼、御朱印集めが流行し、仏像ガールという言葉もあります。それらを一過性のものと冷めた目で見ず、宗教への入り口になればとも願います。
「お寺(仏教)は吊り革です」…こう言うと「なにそれ?」と戸惑われる方も多いかもしれませんが、じつは「宗教吊り革論」という言葉があります。電車に乗っていて、急に電車が止まったり、カーブで曲がったりしたとき、人は吊り革をシュッと持って、倒れないようにしますね。
宗教も同じで、人生のなかではいろいろなことが起こります。いろいろな落とし穴があり、悩み、苦しみ、もがきます。そういったときに、常にそばに宗教を置いていると、吊り革をつかむがごとく、倒れずに済むことがあります。ですから、普段から宗教に接していることはたいへん大事だということです。
席に座っているときは必要がないですし、立っていてもつかむときもあればそうでないときもあります。身近なところにあるけれど、普段はあまり深く意識することはありません。でもイザというときにつかめは、自分だけでなく、周囲も守ってくれる存在でもあります。
宗教が支えになるよう、常日頃から少し親しまれておくのもいいでしょう。
まずは、人にはよりよく生きていく力があると信じて、ご自分の暮らし方を整え、ほかの人のことを思いやり過ごしていかれるといいと思います。「どんなお墓にするか」や「どんな戒名にするか」などだけにとらわれることなく、日々を丁寧に生きていくことが、結局はよりよい人生を全うする手立てとなり、自分自身にとっても家族にとっても、よい終活となるでしょう。
もちろん、死に至るまでのプロセスには、いろいろと思いがけないことが起こるでしょうが、そのようなときのためにも、宗教という「つり革」をぜひそばに置いてください。皆さんの「終活」が、その「つり革」を携えたものであってほしいと思います。葬式をやめるとか、脱葬式でなく、もう一度、祈りと弔いを取り戻すことが人間を幸せに生かすことであるし、人間が幸せに死ぬことにつながるということです。
そして、先述した「仏教を現代に問う」というのはじつは間違いで、ほんとうは、現代人が仏教に問うべきであり、それに対して、これからは、寺院なり、仏教なり、僧侶が積極的に応えていくことが大事なのだと思います。
~拙著『よく生き、よく死ぬための仏教入門』(扶桑社BOOKS新書)からの跋文/電子書籍でも読めます。
*写真は『先端技術のゆくえ』(岩波新書刊)
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