田中利典師のブログとFacebookから、師の「宗教論」を紹介する。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に関するシンポジウムでのご発言であるという。まずは全文を掲載する
これは2年ちょっと前に、宗教人類学者の植島啓司先生や熊野本宮大社の九鬼宮司たちと、東京で開催した世界遺産シンポジュウム「紀伊山地の霊場と参詣道の本質を探る」(2017年12月9日 於:東京・ベルサール九段)での私の発言です。World Cultural Heritage(Japan)日本の世界文化遺産サイトの中でアップされています。シンポジュウムの記録はこちらです。よろしければご覧ください。
なお、今年の秋、また植島啓司先生・九鬼さんといういつもの凸凹メンバーで、世界遺産登録15周年記念のシンポが計画されています。場所は三重県尾鷲市です。
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「紀伊山地の霊場と参詣道は日本的で多様な精神風土が残る稀有な場所」
明治初年(1868)の神仏分離令によって、伝統的に神仏習合によって成り立っていた日本固有の宗教体系は世俗的権力によりつき崩されます。伊勢神宮を頂点とする神道国教化政策により、神仏習合の修験道は存在することさえ許されず、明治5年に修験道廃止令が出ます。全国各地にあった修験道は一時消滅し、大方が廃寺となったり神社になったりしました。金峯山寺も一時廃寺となり、仏寺として復興されたのは明治19年です。
一方では1906年の神社合祀の勅令により、1914年までに約20万社あった神社のうち7万社が取り壊され、次々と国有地として没収。森林は伐採され民間へと売却されていきました。そうした苦渋に満ちた歴史を踏まえた上で、我々は神道や仏教のみならず、いかなる宗教をも受け入れるという寛容で融和的なわが国の宗教風土を、改めて見直していかねばならないと思います。
明治の近代化政策の中で、レリジョン(Religion)という一神教的価値観の宗教概念を「宗教」と訳して使用しだしましたが、その宗教概念が入ってくる前から、日本には仏教や神道という信心の世界がありました。日本人が本来戻るべきは明治より前で、近代の歪みがうまれる以前からはぐくまれていた日本の風土・習慣・信仰心を見直すしか、将来をひもとく糸口はみつからないのではないかと思います。
日本人の精神の基をはぐくんできた多様な形の、創造主をもたない宗教というのは、一神教の宗教とは成り立ちが全く異なるものです。紀伊山地の霊場と参詣道はそういう、一神教の価値観に凌駕されない日本的で多様な精神風土がまだ残っている稀有な場所だと思っています。
以前師は、「Religionを『宗教』と訳したことが間違いだった、だからいまだに『私は無宗教で…』などという人がいる。これは『信仰心』と訳すべきだった」とおっしゃっていた。全く信仰心を持たない人など、ほとんどいないのではないか。その証拠に、初詣の神社やお彼岸の墓地には、たくさんの人が拝みに来ている。
「神道国教化政策」については、こんな文章を読んだことがある。『神々の明治維新~神仏分離と廃仏毀釈~』安丸良夫著(岩波新書)の一節だ。長くなるが、主要部分を抜粋する。
あらたに樹立されていった神々の体系は、水戸学や後期国学に由来する国体神学がつくりだしたもので、明治以前の大部分の日本人にとっては、思いもかけないような性格のものだった。伊勢信仰でさえ、江戸時代のそれは農業神としての外宮に重点があり、天照大神信仰も、民衆信仰の次元では、皇祖神崇拝としてのそれではなかった。だが、天皇の神権的絶対性を押しだすことで、近代民族国家形成の課題をになおうとする明治維新という社会変革のなかで、皇統と国家の功臣こそが神だと指定されたとき、誰も公然とはそれに反対することができなかった。
それは、近代日本の天皇制国家のための良民鍛冶(りょうみんたんや)の役割を各宗教がにない、その点での存在価値を国家意志の面前に競いあうことであった。この良民鍛冶の役割からすれば、仏教の反世俗性や来世主義、また信仰生活の遊楽化などは、克服されねばならなかった。しかし、仏教よりもさらにきびしく抑圧されたり否定されたりされなければならないのは、民俗信仰であった。
よりひろい視野からすれば、民俗信仰の抑圧は、明治維新をはさむ日本社会の体制的な転換にさいして、百姓一揆、若者組、ヨバイ、さまざまの民俗行事、乞食などが禁圧され、人々の生活態度や地域の生活秩序が再編成され、再掌握されてゆく過程の一環、そのもっとも重要な部分の一つであった。この過程を全体としてみれば、民衆の生活と意識の内部に国家がふかくたちいって、近代日本の国家的課題にあわせて、有用で価値的なものと無用・有害で無価値なものとのあいだに、ふかい分割線をひくことであった、といえよう。
廃仏毀釈は、その内容からいえば、民衆の宗教生活を葬儀と祖霊祭祀にほぼ一元化し、それを総括するものとしての産土(うぶすな)社と国家的諸大社の信仰をその上におき、それ以外の宗教的諸次元を乱暴に圧殺しようとするものだった。
ところが、葬儀と祖霊祭祀は、いかに重要とはいえ、民衆の宗教生活の一側面にすぎないのだから、廃仏毀釈にこめられていたこうした独断は、さまざまの矛盾や混乱を生むもとになった。そして、こうした単純化が強行されれば、人々の信仰心そのものの衰滅や道義心の衰退をひきおこす結果になりやすかった。
廃藩置県によって集権国家樹立の基礎を固めた明治政府は、4年以降、近代的国家体制樹立のためのさまざまの政策を推進した。
伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は、一見すれば祭政一致という古代的風貌をもっているが、そのじつ、あらたに樹立されるべき近代的国家体制の担い手を求めて、国民の内面性を国家がからめとり、国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。
そして、それは、復古の幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態からみれば、なんらの復古でも伝統的なものでもなく、民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であった。
末尾の「民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であった」は、かつての私には、まさに目からウロコの話だった。だから利典師の「近代の歪みがうまれる以前からはぐくまれていた日本の風土・習慣・信仰心を見直すしか、将来をひもとく糸口はみつからない」とう言葉には合点がいく。皆さんも、そう思いませんか?
これは2年ちょっと前に、宗教人類学者の植島啓司先生や熊野本宮大社の九鬼宮司たちと、東京で開催した世界遺産シンポジュウム「紀伊山地の霊場と参詣道の本質を探る」(2017年12月9日 於:東京・ベルサール九段)での私の発言です。World Cultural Heritage(Japan)日本の世界文化遺産サイトの中でアップされています。シンポジュウムの記録はこちらです。よろしければご覧ください。
なお、今年の秋、また植島啓司先生・九鬼さんといういつもの凸凹メンバーで、世界遺産登録15周年記念のシンポが計画されています。場所は三重県尾鷲市です。
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「紀伊山地の霊場と参詣道は日本的で多様な精神風土が残る稀有な場所」
明治初年(1868)の神仏分離令によって、伝統的に神仏習合によって成り立っていた日本固有の宗教体系は世俗的権力によりつき崩されます。伊勢神宮を頂点とする神道国教化政策により、神仏習合の修験道は存在することさえ許されず、明治5年に修験道廃止令が出ます。全国各地にあった修験道は一時消滅し、大方が廃寺となったり神社になったりしました。金峯山寺も一時廃寺となり、仏寺として復興されたのは明治19年です。
一方では1906年の神社合祀の勅令により、1914年までに約20万社あった神社のうち7万社が取り壊され、次々と国有地として没収。森林は伐採され民間へと売却されていきました。そうした苦渋に満ちた歴史を踏まえた上で、我々は神道や仏教のみならず、いかなる宗教をも受け入れるという寛容で融和的なわが国の宗教風土を、改めて見直していかねばならないと思います。
明治の近代化政策の中で、レリジョン(Religion)という一神教的価値観の宗教概念を「宗教」と訳して使用しだしましたが、その宗教概念が入ってくる前から、日本には仏教や神道という信心の世界がありました。日本人が本来戻るべきは明治より前で、近代の歪みがうまれる以前からはぐくまれていた日本の風土・習慣・信仰心を見直すしか、将来をひもとく糸口はみつからないのではないかと思います。
日本人の精神の基をはぐくんできた多様な形の、創造主をもたない宗教というのは、一神教の宗教とは成り立ちが全く異なるものです。紀伊山地の霊場と参詣道はそういう、一神教の価値観に凌駕されない日本的で多様な精神風土がまだ残っている稀有な場所だと思っています。
以前師は、「Religionを『宗教』と訳したことが間違いだった、だからいまだに『私は無宗教で…』などという人がいる。これは『信仰心』と訳すべきだった」とおっしゃっていた。全く信仰心を持たない人など、ほとんどいないのではないか。その証拠に、初詣の神社やお彼岸の墓地には、たくさんの人が拝みに来ている。
「神道国教化政策」については、こんな文章を読んだことがある。『神々の明治維新~神仏分離と廃仏毀釈~』安丸良夫著(岩波新書)の一節だ。長くなるが、主要部分を抜粋する。
あらたに樹立されていった神々の体系は、水戸学や後期国学に由来する国体神学がつくりだしたもので、明治以前の大部分の日本人にとっては、思いもかけないような性格のものだった。伊勢信仰でさえ、江戸時代のそれは農業神としての外宮に重点があり、天照大神信仰も、民衆信仰の次元では、皇祖神崇拝としてのそれではなかった。だが、天皇の神権的絶対性を押しだすことで、近代民族国家形成の課題をになおうとする明治維新という社会変革のなかで、皇統と国家の功臣こそが神だと指定されたとき、誰も公然とはそれに反対することができなかった。
それは、近代日本の天皇制国家のための良民鍛冶(りょうみんたんや)の役割を各宗教がにない、その点での存在価値を国家意志の面前に競いあうことであった。この良民鍛冶の役割からすれば、仏教の反世俗性や来世主義、また信仰生活の遊楽化などは、克服されねばならなかった。しかし、仏教よりもさらにきびしく抑圧されたり否定されたりされなければならないのは、民俗信仰であった。
よりひろい視野からすれば、民俗信仰の抑圧は、明治維新をはさむ日本社会の体制的な転換にさいして、百姓一揆、若者組、ヨバイ、さまざまの民俗行事、乞食などが禁圧され、人々の生活態度や地域の生活秩序が再編成され、再掌握されてゆく過程の一環、そのもっとも重要な部分の一つであった。この過程を全体としてみれば、民衆の生活と意識の内部に国家がふかくたちいって、近代日本の国家的課題にあわせて、有用で価値的なものと無用・有害で無価値なものとのあいだに、ふかい分割線をひくことであった、といえよう。
廃仏毀釈は、その内容からいえば、民衆の宗教生活を葬儀と祖霊祭祀にほぼ一元化し、それを総括するものとしての産土(うぶすな)社と国家的諸大社の信仰をその上におき、それ以外の宗教的諸次元を乱暴に圧殺しようとするものだった。
ところが、葬儀と祖霊祭祀は、いかに重要とはいえ、民衆の宗教生活の一側面にすぎないのだから、廃仏毀釈にこめられていたこうした独断は、さまざまの矛盾や混乱を生むもとになった。そして、こうした単純化が強行されれば、人々の信仰心そのものの衰滅や道義心の衰退をひきおこす結果になりやすかった。
廃藩置県によって集権国家樹立の基礎を固めた明治政府は、4年以降、近代的国家体制樹立のためのさまざまの政策を推進した。
伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は、一見すれば祭政一致という古代的風貌をもっているが、そのじつ、あらたに樹立されるべき近代的国家体制の担い手を求めて、国民の内面性を国家がからめとり、国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。
そして、それは、復古の幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態からみれば、なんらの復古でも伝統的なものでもなく、民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であった。
末尾の「民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であった」は、かつての私には、まさに目からウロコの話だった。だから利典師の「近代の歪みがうまれる以前からはぐくまれていた日本の風土・習慣・信仰心を見直すしか、将来をひもとく糸口はみつからない」とう言葉には合点がいく。皆さんも、そう思いませんか?
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