tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

Topic 「奈良ゆかりフォーラム」(東京開催)の観覧者募集について

2009年09月26日 | お知らせ
平城遷都1300年祭「100日前マンスリーイベント」の一環として、東京でフォーラムが開催されます。盛りだくさんな内容ですが、無料で観覧できます(10/5締切。9/26現在で空き枠あり)。
http://www.1300.jp/about/news/press/2009/090828_2.html

荒井知事の対談では、奈良時代に交流のあった韓国から、初代文化大臣李御寧氏を迎えます(李氏は『縮み思考の日本人』の著者)。また日本各地のゆかりのある市長が集まり、奈良との文化的なつながりを探ります。

当日は、平成伎楽団の鹿坊、鹿爺、阿修羅童子などせんとくんファミリーも集まります。

■奈良ゆかりフォーラムの概要

1 日 時 平成21年10月11日(日) 13:30~16:30
2 場 所 東京商工会議所 東商ホール
(東京都千代田区丸の内3-2-2)
3 テーマ 「平城京の時代から続く交流の扉を開く」
4 内 容
○第一部 対談
「韓国と日本のゆかりを通じた新たな交流の展開」
李 御寧(梨華女子大学名誉教授・韓国初代文化大臣)・荒井 正吾(奈良県知事)
○せんとくん・平成伎楽団(せんとくんファミリー)パフォーマンス
フォーラムにふさわしい奈良らしく、華やかなパフォーマンスを披露!
○第二部 奈良ゆかりの地の取り組み
「奈良ゆかりの地の市長が、ゆかりにちなんだ地域の取り組みやイベント等について語る」
仲川 げん (奈良県 奈良市長 ・・・平城京 )
河井 規子 (京都府 木津川市長 ・・・恭仁京 )
中尾 郁子 (長崎県 五島市長 ・・・遣唐使船最西端の寄港地 )
高橋 正樹 (富山県 高岡市長 ・・・万葉集 )

■申し込みは、こちらの専用応募フォームからお願いします。
http://www.nara-download.jp/form.php?35CWgm4L

9/23の「100日前の集い・セレモニー」がたくさんの人を集めて大きく報道されるなど、ここへきて1300年祭もムードが高まってきました。東京圏にお住まいの皆さんは、ぜひ「奈良ゆかりフォーラム」に足をお運び下さい。
http://mainichi.jp/area/nara/news/20090924ddlk29040183000c.html
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和モダンキッチンNico Style(ニコスタイル)

2009年09月25日 | グルメガイド
《ならまちにワクワク空間 複合施設「花しょう舞館(はなしょうぶかん)」開業》という奈良新聞の記事を見つけたのは8/4のことだった。《奈良市西新屋町の「ならまち」に8店舗のテナントが入る複合施設「花しょう舞館」がオープンした。なら町長屋(奈良市橋本町、湯脇智子代表取締役)が企画、管理、運営する。同社は手ぬぐいの朱鳥(あけみとり)など、路面店の経営で知られ、複合施設を手掛けるのは今回が初めて》。
http://www.nara-np.co.jp/20090804102210.html

なら町長屋といえば、吉田遊福さんの「なら町長屋ふしぎ堂」を思い出すが、「なら町長屋」自体はもちいどのセンター街の北東、「花しょう舞館」は、ならまち内のどまん中である。
※ならまち長屋ふしぎ堂(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/48c92beb3bbbd47963c66edca3906e90


2階の和雑貨「はなさび」(8/4撮影)

早速その日のランチタイムに花しょう舞館を訪ねると、運良く湯脇さんがいらっしゃった。彼女のブログ(なら町長屋)には「奈良町 花しょう舞館ご紹介」(その1~4)という記事がアップされていて、「その1」(8/1付)には《本日から飲食店、奈良筆屋さんの2店舗がオープン、明日は和雑貨ショップが1店舗オープン、陶芸作家さんのお店、仏像などの骨董店、ヨーロッパのインポートカジュアルのセレクトショップ、カフェバー、着物リメイク服屋さん等いろんなお店が集まり、順次オープンしていきます》とあったが、私はこれらすべてのお店をご案内いただいた。
http://nara.areablog.jp/page.asp?idx=1000002970&post_idx_sel=10122441


奈良筆専門店「田中筆匠」(奈良筆の伝統工芸士・田中千代美さんの店 8/4撮影)

ランチは1階正面の「和モダンキッチン Nico Style」でいただいた。テープルが3つだけの狭い「和モダン」の空間である。湯脇さんのブログ記事には《本日(8/1)開店した「和モダンキッチン Nico Style」さんをご紹介します!ニコスタイルさんは、新鮮な奈良食材を生かした美味しい料理&ケーキがいただけます》《日本料理の料理人のご主人とお菓子作家の奥様が なかよく経営なさってます。夜は9時まで営業(水曜日は6時まで)定休日・月曜》(ブログ「なら町長屋」8/1付)。


大和の夏ランチ(1050円)のご飯もの(トップ写真とセット 8/4撮影)

ニコスタイルのご主人も、ブログを開設されている(和モダンキッチンNico Style 徒然日記)。私が訪れた日(8/4)の記事には《今日の奈良新聞にちょっとだけですが載りました!!!!うれしいですね^^ご来店されてるお客様に中には「ブログしてるので写真いいですか??」と言う声が沢山頂けます 本当にありがとうございます!どーぞ!どぞぉーぞ!載せてやってください! リンクしてもらっても嬉しいデス》とあった。「写真いいですか?」の中には、私も含まれていることだろう。
http://blog.goo.ne.jp/nico4641/d/20090804


長月ランチ(1050円)の前菜(季節の小鉢3種)

さて、前置きが長くなったが、ニコ スタイルさんのランチを紹介する。ランチは時節に応じて変えられるとのことなので、8/4の大和の夏ランチ(8/4)と、再訪した9/15の長月ランチの2種類を紹介する。まずトップ写真が、涼しげな大和の夏ランチである。メイン料理は「ヤマトポークと大和野菜のサラダ仕立て塩ポン酢風味」と「チキンの香味焼き完熟トマトソース大和野菜添え」から選べた。私は「ヤマトポーク…」をチョイス。シンプルに見えて、材料をよく吟味し丁寧に調理していて好感が持てる。食器も良い。



こちらの写真は長月ランチのメイン料理。チキン、ヤマトポーク、魚の3品から選べたが、この日は欲張って「W(ダブル)メイン料理」にした。これは、プラス300円でメイン料理を2品つけてもらうシステムである(=計1350円)。写真は、サラダ仕立てのヤマトポークとサンマの蒲焼き風だ。うまく季節感を盛り込んであり、どちらも、とても美味しい。食卓のマットも、8月と9月で変化をつけておられた。



長月ランチの汁物は「南瓜の和風ポタージュスープ ラスク添え」が初のお目見え(夏ランチでは「三輪そうめんの夏ジェレ添え」だった)。私はどちらかというと、いかにも女性が好みそうな、瀟洒でこぢんまりとした料理は苦手(甘いものも苦手)なのだが、ニコスタイルの食事は基本がしっかりしているのだろう、しっかりと味わえる料理である。



ご主人のブログに面白い話が出ていた。毎週水曜日はご主人の剣道のため午後6時閉店であるが、9/2(水)、閉店間際の5時過ぎに中国のメディア関係の方が来店された。「コーヒーを」とおっしゃるので「どうぞ」と招き入れたところ「12人です」とのこと。《どうぞと言ったからには最後まで!と言うことで大家さんの計らいもあって 中庭にも分かれて頂き入っていただきました》。

《奈良のよいところを知って欲しいと言うことなんで 色々当店の使っている大和野菜を紹介。試食会に発展 紫唐辛子で「おおおおおおおおおお」 素麺カボチャでも「おおおおおおおおおおおおおおおお」 白なすびで「へぇぇぇぇぇぇー」 日本の方にない反響でぼくは楽しかったです・・ハイ 会計終わって一行は外の格子で女将となんだかんだと談話 そこへチョット参入 いろいろインタビューうけ サインまでくださぁーーーいっと ちょっとスター気分です サインって・・・とりあえず店のチラシにフルネーム書いて渡しましたが よかったのかな?? 約10分くらいですがTVカメラにずっと映ってました 日本で放映されないんだろうな・・・中国か・・見たいな・・・と思いながら、ご一行は満面の笑みで帰宅されました このまま・・・海外進出・・・・・ナイカ・・あははは》。
http://blog.goo.ne.jp/nico4641/d/20090902

ところが、ちゃんと中国の新聞載ったというから驚きだ。《先日書きました中国のメディアの方達が本当に!ほんとぉーに HPに書いてくれました、もちろん個人ブログってのではなく なんたら新聞社の公式HPです 一番下の写真です・・・ハイ もぉーびっくりです》。
http://news.163.com:80/09/0903/11/5I9K1US3000120GR.html

中国語は読めないが、仲の良いご夫婦が狭いカウンター内で懸命にコーヒーをいれ、外国メディアを歓待した様子が好意的に描かれている様子である。ブログ「和モダンキッチンNico Style 徒然日記」には、このような心あたたまるエピソードや、ご主人の日々の雑感がほのぼのとした筆致で綴られているので、ぜひお読みいただきたいと思う。
http://blog.goo.ne.jp/nico4641/


花しょう舞館の外観(8/4撮影)

花しょう舞館には次々にお店がオープンしている。冒頭の奈良新聞で湯脇さんは《「小さいが、観光客が来てワクワクしてもらえるような空間を作りたかった」と話し、「異なる店が一緒に入ることで、お客さんの興味の幅に対応でき、店の運営も助け合うことができる」》と話されている。近いうちにまたお邪魔して、当ブログで紹介させていただくことにしたい。
http://janavi.jp/nara/modules/gnavi/index.php?lid=505
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Topic 当ブログ記事「プリントアウト」の改善について

2009年09月24日 | お知らせ
今回は、私からのちょっとしたお知らせです(今後「Topic」のタイトルで書かせていただきます)。

当ブログはgooのblogサービスを使っていますが、このサービスでは最近、新しいデザインの形式(カスタム・テンプレート)に移行しつつあります。

当ブログでも、折々の最新デザインのものを使用していましたが、読者の方から「うまくプリントアウトできない」という声をいただくことが多くなりました(当ブログ記事は長いので、プリントして読まれる方が、結構いらっしゃるようです)。確かに、ブラウザによってはうまく印刷されないようです。gooに問い合わせましたが、「もともとプリントアウトを前提としていないので…」という返事でした。

これまで、そういう方には、Wordなどのワープロ文書に「コピー&ペースト」すればプリントできますよ、と申し上げてきましたが、考えてみれば、これもなかなか煩雑なことです。そこで今回より、あえて古いデザインの形式に戻すことにいたしました。これまでうまくプリントアウトできなかった方も、これだと大丈夫だと思います。この際ぜひ、お試しいただきたく。

♯古いデザインのテンプレートは、どんどん新しい形式に移行しています。いつまで保(も)つかは分かりませんが、当面はこれでやりたいと思います。プリントアウトされる方は、お早めに。
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「奈良を大いに学ぶ」講義録(6)平城京PARTⅡ.

2009年09月23日 | 奈良にこだわる
少しブランクができてしまったが、今回は奈良大学教授・寺崎保広氏の講義「平城京とその時代」(9/2および9/4)の第2回目である。

Ⅱ.平城宮と平城京
「鎮護国家(ちんごこっか)」とは、政府が仏教を利用して内政の安定を図ろうとした政策であり、仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想である。この考え方ではあくまで天皇が上、仏教が下という位置づけである。しかし聖武天皇は東大寺への行幸で、南面する大仏の前に建てられた前殿に、大仏に向き合って北面して立った(天皇は本来南面して立つもので、北面するのは大仏に臣従することを意味する)。しかも自らを「三宝の奴(仏に仕える卑しい身分)」と卑下したので、仏と天皇の地位が逆転した。これが後の道鏡進出の素地となった。

藤原京までは「歴代遷宮」といって、天皇の代が替わると同時に、必ず宮の移し替えがあった。それが藤原京から変わった。宮を内に含んで人々が住む特別行政区域(京)は、自然発生的に出来上がっていたもので、計画的には作られていなかった。藤原京からは、政治経済の中心として機能するよう、都市計画に基づいて「京」が造営された。

平城宮は約1km四方、平城京は約5km四方。平城京の土地は、1丁四方(125m×125m=15000㎡=5千坪)単位で区分された(下級官人などはその1/16=1000㎡=300坪)。平城京の造営は極めて正確・厳密に行われ、測量の技術も精緻なものだった。当時の天皇の「住まい」は、掘立柱・檜皮葺だった(大極殿などは政務を行うところであり、ここに住んではいなかった)。


平城宮跡朱雀門を望む(9/17撮影)

平城宮は《平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏即ち内廷と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙の所謂外朝から成り、約120ヘクタールを占めていた。周囲は5メートル程度の大垣が張り巡らされ、朱雀門はじめ豪族の氏名にちなんだ12の門が設置され役人らはそれらの門より出入りした。 東端には、東院庭園がおかれ、宴などが催された。 また、この東院庭園は今日の日本庭園の原型とされている。794年の平安京遷都後は放置され、しだいに農地となっていった。 しかし南都と呼ばれ、あくまでも本来の都は奈良と云う認識が大宮人の間にはあった》(Wikipedia「平城宮」)。

Ⅲ.奈良時代の暮らし
貴族は5位以上、6位以下は下級官人。貴族150人、下級官人1~2万人。全国では500万人。待遇は、5位以上と以下で、全く違った。「このごろの我が恋力記し集め功に申さば5位の冠」(私の恋心を記録し集めて勤務評定をしてもらったならば、おそらく5位の冠をもらうことができるでしょう)という万葉歌もあった。このように、奈良時代の役人は毎年、所属する役所の長官から勤務評定を受けていた。

当時の暮らしを知るのに、長屋王木簡が手がかりになる。これは、現イトーヨーカドーとなっている《奈良市二条大路南で1986年に発見された悲劇の宰相、長屋王(684〜729)邸跡などから出土した11万点の木簡。「長屋親王」などの記載から、親王の扱いを受けるような存在だったことや豪華な食事、邸内工房などが判明。反乱の疑いをかけられて自害した「長屋王の変」事件の後、邸宅跡は事件発端の人物、光明皇后の皇后宮になった可能性を示唆するものもあった。古代史研究の生々しい資料として、価値が高い》(知恵蔵2009)。

木簡の例としては次のようなものがある。「雅楽寮移長屋王家令所 平群朝臣廣足 右人請因倭舞」。これは雅楽寮という役所が長屋王家にあてた木簡で、平群朝臣廣足が、儀式のため「倭舞(やまとまい)」の名手を貸してほしいといっている、という意味である。他の木簡には加須津毛瓜(粕漬の瓜)、醤津名我(たまり醤油漬のミョウガ)、牛乳煎人(牛乳を煮詰めて「蘇」を作る人)などの文字が見える。


門を通して建設中の大極殿が見える(9/17)

Ⅳ.平城京以後の奈良
1.桓武天皇と平安遷都
桓武天皇の《父は天智天皇の孫,施基 (しき) 皇子の子で白壁 (しらかべ) 王といい,天武系皇統の世に官人として仕え,大納言に昇ったが, 770 年 (宝亀 1) 称徳天皇が没したとき, 62 歳で皇位を継承した。光仁天皇には皇后井上 (いかみ) 内親王との子とする他戸 (おさべ) 親王があり,これが皇太子に立てられた。渡来人系の卑母から生まれた山部王は親王として中務縁となっていたが, 772 年井上皇后と他戸皇太子が位を追われ,非業の死をとげる事件が起こり,代わって山部親王が 37 歳で皇太子に立てられ, 781 年 (天応 1) 即位した。ここに至るまでには,藤原氏の永手 (ながて)・百川 (ももかわ)らの策動があったとされる》(ネットで百科「桓武天皇」)。

《桓武朝は奈良時代後期のたびかさなる権力闘争や過度の崇仏などによる政治的混乱,および班田制の矛盾や国司の不正などによる社会不安に直面していたが,天皇は気力,体力ともにすぐれ,また壮年に至るまでの官人としての豊富な体験をもち,治世の間,左大臣を置くことなく,みずから強力に政治を指導し,独裁的権力を行使した。この点歴代天皇の中でも異色の存在である》(同)。

《在位の間における最大の事業は平城京からの遷都と蝦夷の征討である。前者はまず 784 年 (延暦 3) 6 月長岡京造営工事をはじめ, 11 月遷都を行ったが,翌年この事業を推進していた藤原種継が暗殺され,しかも皇太弟早良 (さわら) 親王が連座して廃され,淡路国へ流される途中死ぬという事件によって,計画の進行がいちじるしく妨げられた。そこで天皇は 793 年山背国損野郡宇太村の地を選んで造営工事をはじめ,翌年 11 月これを〈平安京〉と名付け遷都した。その後も和気清麻呂らを中心に造営事業が続けられた》(同)。

《平安京の建設と蝦夷征討の後世に及ぼした影響は大きいが,両者に要した巨額の費用は財政を圧迫し,ひいては民生の窮乏を招き,さらに早良親王の怨霊の祟りによって皇后藤原乙牟漏 (おとむろ) の死や皇太子安殿 (あて) 親王 (のちの平城天皇) の病気が起こるなど,桓武朝後半には暗い社会情勢がつのった。そこで天皇は 800 年早良親王に崇道天皇の号を贈り,井上内親王をも皇后位に復するなど怨霊の慰撫につとめ,また 805 年参議藤原緒嗣の意見を用いて造都,征夷の両事業を停止した。 桓武天皇は渡来人の血をひくため中国文化に心酔し,また鷹狩を愛し,後宮も盛大をきわめるなど,古代帝王的面目を発揮した。その子平城・嵯峨・淳和天皇がつづいて皇位を継承し, 損原 (かつらはら) 親王の子孫は桓武平氏として栄えた》(同)。



2.平城天皇と薬子の変
平城天皇は《第 51 代に数えられる平安初期の天皇。在位 806‐809 年。名は安殿 (あて)。桓武天皇を父とし,藤原良継の女皇后乙牟漏 (おとむろ) を母として生まれた。 785 年 (延暦 4) 皇太弟早良 (さわら) 親王が藤原種継暗殺に連座して廃されたため皇太子となり, 806 年 (大同 1) 即位した。父桓武天皇の平安京建設と蝦夷征討の大事業による国家財政の破綻を収拾するために,律令制の官司を大幅に整理し,地方の民情視察のため観察使を創設するなど政治に努めた。しかし早良親王の怨霊のたたりとされた〈風病〉に悩み, 809 年,皇太弟 (嵯峨天皇) に譲位した》(ネットで百科「平城天皇」)。

皇太子時代から、妃の母である藤原薬子を寵愛して醜聞となり、父(桓武天皇)から薬子の追放を命じられていた。上皇となってからは《平城旧京に移り,寵愛する尚侍藤原薬子らにかこまれて政治に介入し,ついに 810 年 (弘仁 1) 薬子 (くすこ) の変によって失脚した。その後失意の日を送り,824 年 7 月 7 日没した。詩文や和歌を愛し,その子阿保 (あぼ) 親王の子に在原行平・業平が出た》(同)。

3.嵯峨天皇と平安王朝の確立
方丈記には「この京のはじめを聞けるは、嵯峨天皇の御時、都と定まりにける…」(嵯峨天皇の時、都を京都に移した)とある。平城上皇の時、一旦奈良に都を戻そうとした。その案が破綻して平安京に都が確定したのが嵯峨天皇の時なので、このように書かれたのだろう。

嵯峨天皇は《桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他》《当時は農業生産が極度の不振にあり、その結果として当時財政難は深刻であった。また、最末期には墾田永年私財法の改正などを行って大土地所有の制限を緩和して荒田開発を進め、公営田・勅旨田の設置などが行われている。皇子皇女多数おり、その生活費も財政圧迫の原因となった。そこで皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた(源氏の成立)。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。河原左大臣源融は嵯峨天皇の子の一人》(以上、Wikipedia「嵯峨天皇」)。



なお臣籍降下とは、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りること(皇親賜姓=こうしんしせい)である。《奈良時代の皇統(天皇の血筋)が断絶したことを教訓として、平安時代には安定した皇位継承のため、多くの皇子をもうけることがよく行われた。しかし、実際に皇位継承できる皇子はごく少数に限られ、平安前期から中期にかけて、皇位継承の道を閉ざされた皇族が多数発生することとなった。これらの皇族に対しても律令の定めにより一定の所得が与えられることで財政を圧迫する要因となったため、皇位継承の可能性がなくなった皇族たちを臣籍降下させることが行われるようになった》(Wikipedia「臣籍降下」)。

《また、この頃になると、皇族が就任できる官職が限定的になり、安定した収入を得ることが困難になったために、臣籍降下によってその制約を無くした方が生活が安定するという判断から皇族側から臣籍降下を申し出る例もあった。だが、臣籍降下して一、二代ほどは上流貴族として朝廷での地位を保証されたが実際には三代以降はほとんどが没落して地方に下向、そのまま土着し武士・豪族となるしかなかった》(同)。

嵯峨天皇は《823年、財政上の問題を理由(上皇が2人(平城・嵯峨)では財政負担が大きい)に反対する藤原冬嗣の主張を押し切って大伴親王に譲位した。退位後は冷然院・嵯峨院を造営して財政を逼迫させただけでなく、実子正良親王(仁明天皇)が即位すると「皇室の長」として政治に干渉する場面も多くなり、更に淳和上皇や仁明天皇の反対を押し切って自分の外孫でもある淳和上皇の皇子恒貞親王を皇太子とするなど、朝廷内で絶大な権力を振るって後に様々な火種を残した》(Wikipedia「嵯峨天皇」)。

4.平城京の発見
《1852年(文政8年)、奉行所の役人であった北浦定政が『平城宮大内裏跡坪割之図』を著し、平城京の跡地を推定した。 明治時代に建築史家、関野貞が田んぼの中にある小高い芝地が大極殿(第二次)の基壇であることを発見、1907年『平城京及大内裏考』を奈良新聞に発表した。この研究記事がきっかけとなり、棚田嘉十郎・溝辺文四郎らが中心となり平城宮跡の保存の運動が起こった。1921年には、平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付された。その後、「平城宮址」は1922年に国の史跡に指定された(後に特別史跡)》(Wikipedia「平城宮」)。


画像は平城宮跡にある棚田嘉十郎翁の銅像(トップ写真とも。6/24撮影)

《のちに「址」(し・あと)が常用漢字外であるため「平城宮跡」と書かれるようになる。1960年代に私鉄電車の検車庫問題と国道建設問題に対する二度の国民的保存運動がおこった。現在は、ほぼ本来の平城宮跡地が指定され保存されている。なお、唐招提寺の講堂(国宝)は平城宮朝堂院にあった建物の一つである東朝集殿を移築したものである。切妻屋根を入母屋にしたり、鎌倉時代の様式で改造されている箇所もあるが、平城宮唯一の建築遺構として貴重である》(同)。

私は棚田嘉十郎のことを、中田義明著『小説 棚田嘉十郎』(京都書院)で知った。《明治-大正時代の文化財保護運動家。万延元年4月5日生まれ。大和奈良町の植木商。明治30年関野貞によって発見された平城宮跡が放置されていたため、33年私財を投じて保存運動をはじめる。45年奈良駅前に道程をしめす大石標をたてる。大正2年発起人として平城宮大極殿跡保存会を発足させた。大正10年8月16日死去。62歳》(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)。以前、当ブログでも紹介したことがあるので、こちらも参照していただきたい。
※棚田嘉十郎翁を偲ぶ(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/6af447d39a767de00b70ee1d8b05566c

以上が(私が理解できた限りの)「平城京とその時代」である。寺崎氏の話は論旨明快で、A3版12ページもの豊富な資料をご用意いただき、丁寧に説明して下さった。特に氏が調査に携わった長屋王木簡の話はとても興味深かった(パソコンでは漢字の変換が難しいので、あまり紹介できなくて残念だった)。また黒作懸佩刀(くろつくりかけはきのたち)のエピソードや臣籍降下の話など、新鮮な驚きの連続だった。

寺崎先生、有り難うございました。
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今井町で学ぶもてなしの心(第4回古社寺を歩こう会)PARTⅡ.

2009年09月21日 | 古社寺を歩こう会
今日は「古社寺を歩こう会」(9/12)午後の部を紹介する(午前の部はこちら)。この会でお世話いただいた町の方は約30人、各町家の皆さんを加えると約45人に上るという。私たちのためにたくさんの方におもてなしいただき、心からお礼申し上げます。

今井の歴史を復習すると《江戸時代には大商人がひしめき繁栄を誇った。町史によれば、元禄2(1689)年の「今井町覚書」に「市歴史的な町並みを大切に守っている橿原市今井町中交易繁美にして商家の都の地にひとしく、諸大名御旗本の蔵元賄御用達輩当処より勤するの家柄も数多く…」とある》(奈良の食文化研究会『出会い 大和の味』奈良新聞社刊)。


「ええ古都なら」(南都銀行提供)ホームページより

《明治から昭和にかけては、さしもの今井町も衰退に一途をたどり、歴史の表舞台から退いて静かな住宅地となったが、住民の方々の町並み保存の努力により、今も江戸時代の様式を保った民家が軒を連ねる。昔ながらの街路には、ガス灯を思わす街灯がともり、街全体が文明開化の時代の雰囲気を醸し出している》(同)。

「海の堺、陸の今井」というが、今井と堺は商取引だけでなく、古くから縁があった。堺の豪商で茶人の今井宗久(いまい・そうきゅう)は、今井の生まれなのだ。《安土桃山時代の堺の商人、茶人である。子に今井宗薫。家系は尼子氏の一族とも。千利休、津田宗及と共に茶の「三大宗匠」と称せられた》(Wikipedia「今井宗久」)。



宗久は《大和国(奈良県)今井町の出身。祖は近江佐々木氏の末裔で近江国高島郡の今井氏という。堺に出て納屋宗次の居宅に身を寄せ、武野紹鷗に茶を学ぶ。やがて紹鷗の女婿となり、茶器などを譲り受けたという。1554年(天文23年)には大徳寺塔頭大僊院に百七十貫を寄進している。初めは当時軍需品としての需要があった鹿皮などの皮製品(甲冑製造などに用いる)の販売を扱っており、それによって財をなした》(同)。宗久は近江国(滋賀県)高島郡の生まれという説もある。なお武野紹鷗は大和国(奈良県)吉野郡の生まれである。



宗久は《織田信長に摂津西成郡芥川で相見え、名物の松島の茶壺や紹鷗茄子などを献上。いち早く信長の知己を得て、足利義昭からは大蔵卿法印の位を授かる》《宗久は信長に重用され、さまざまな特権を得る。1569年(永禄12年)には、堺近郊にある摂津五カ庄の塩・塩合物の徴収権と代官職、淀過書船の利用(淀川の通行権)を得て、1570年(元亀元年)には長谷川宗仁とともに生野銀山などの但馬銀山を支配する。また、代官領に河内鋳物師ら吹屋(鍛冶屋)を集め、鉄砲や火薬製造にも携わった。これらにより、会合衆の中でも抜き出た存在として堺での立場を確実なものにし、信長の天下統一を支えた。また、茶人としても千利休、津田宗及とともに信長の茶頭を務めた》(同)。



そんな今井でお抹茶をいただいた。若林さんがよく「茶道は、お手前(客の前でお茶をたてること)だけでなく、茶の心(もてなしとしつらい[設け整えること])が大切です」とおっしゃるので、お手前抜きでお抹茶と「塩屋の宗久饅頭」をいただいた。場所は重文・音村家住宅(もと金物問屋)のお座敷である。こちらでは友村久子さん(若葉会会長)はじめ約10人の方にお世話いただいた(トップ写真)。



宗久饅頭に説明がついていた。02年(平成14年)の「第7回今井町並み散歩」の茶席の菓子として創作されたのが始まりで《江戸時代から塩谷玉泉堂で製造されていた「薯蕷饅頭」に遠く思いを馳せながら、お茶の味を一層引き立ててくれる味をと考え、甘みを抑え、ちょっぴり塩味を効かせてみました》とある。薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)は「上用饅頭」とも書かれ、山芋の粘りで米粉(薯蕷粉、上新粉)を練り、その生地で餡を包み蒸し上げた饅頭のことで、南北朝時代に、奈良の林浄因が考案したものだ。制作協力に山本鈴音堂(橿原市兵部町)の名前があった。店頭には置いていないが、予約すれば買える。
http://home.att.ne.jp/wind/pei/my/8gatsu/my01825-1.html



お茶(宇治の抹茶)は熱々でたっぷり入り、塩屋の宗久饅頭は皮の塩味が餡の甘みを引き出している。立派な茶道具も拝見した。床の間には「お峰山(畝傍山)から今井を見れば 今井千軒お手の下」という俚謡が墨書されていた。参加者には茶道を嗜んでいる方もいらっしゃったので、大変喜んでおられた。



音村家住宅では、田川欽三氏(通産大臣指定伝統工芸士 名筆匠)に筆づくりの実演を見せていただいた。「万葉ラブストーリーでやってましたね」と申し上げると「あれは私が指導したのやが、長いこと待たされてしもうて…」と苦笑しておられた。様々な獣毛を取り混ぜながら、手早く1本の筆に仕上げるさまは、さすが名匠の技である。田川氏は奈良市南京終町にお住まいなのに、「歩こう会」のために駆けつけて下さったのである。

今井が舞台になった「ドラマ 万葉ラブストーリー 春」は、この9/23(水)13:50~14:33、NHK総合テレビ(全国ネット)で再放送されるので、お見逃しなく(全3話のうち第2話「愛しき、古」が今井の筆職人の話で、若林さん宅でロケが行われた)。
http://www.nhk.or.jp/nara/manyou/oshirase.html



こちらは称念寺(しょうねんじ)。寺内町今井の中核的存在である。本堂内はご住職に案内していただいた。《平安時代に興福寺の荘園として開発されていた今井町周辺に、現在のような町がつくられたのは中世・戦国時代。石山本願寺は、支配権の争いから絶えず戦乱の場であったこの地に、一門の今井兵部卿豊寿を送りこんだ。彼は戦さで散っていった人々を呼び戻し、自衛のための濠をめぐらせた城塞都市を建設、そのとき一向宗の道場として再建したものが、のちに称念寺に発展した。今井町は「今井御坊」とも呼ばれる称念寺を中心に発展した寺内町(じないちょう)である》(南都銀行の「ええ古都なら」HP)。
http://www.nantokanko.jp/mytown2006092.html



《山門前で見上げる太鼓楼(県指定文化財)は新しいものだが、境内右手に建つ本堂(重要文化財)は江戸時代に再建された大規模な入母屋造り。浄土真宗の本堂として典型的な様式をもつ。しかしこの本堂と山門を入った正面の庫裏(くり)は、もともと老朽化が進んでいたところに、平成8年の台風で大きな被害をこうむった。現在もその傷跡は痛々しく、一日もはやく称念寺を復興することは、住職はじめ今井町の人々の願いだ》(同)。お寺は「大地震が来ると危いな」という状態であるが、2011年から修復がスタートする予定だそうだ。



《山門前には「明治天皇行在所(あんざいしょ)」の石碑が建つ。明治10年の畝傍御陵行幸(うねびごりょうぎょうこう)のときに宿泊所となったのを記念して建てられたもので、このとき寺には長屋門しかなかったため、談山神社から表門を移築したという驚愕のエピソードも残る。ちなみに明治天皇は、称念寺での滞在を短くせざるを得なかった。明治政府樹立後、不満分子の残る九州から、「西南の役」ぼっ発の第一報を受けたためだ。知られざる歴史の一日を刻む称念寺である》(同)。



こちらは尾崎家。今西家、上田家とともに今井の惣年寄を務めていたお家だ。茶人・尾崎喜助(尾崎家3代目)は、小堀遠州や古田織部などとも交流があったという。現在は空き家になっているが、「歩こう会」のためにご家族がわざわざ遠方から拭き掃除に来られ、保存会の方は庭の草を刈って下さったそうである(この日も鍵を開けるため、お1人来ておられた)。申し訳なくて頭が下がる。



これは上田家。《珍しく、西側に入口を開いていて、道路から半間ほど下がって建っています。入母屋造りで、18世紀の中頃の建築と思われます。上田家は、元亀2年(1571)に今井に移住し、17世紀の前半から、今西・尾崎家と共に、惣年寄を務めていました。惣年寄の中でも司法を担当した家柄でした。そのため、旗指物や火事装束・手錠などが多数残されています》(真神原風人さんのHP)。司法担当だったから、家の前(画像の建物と石塀の間)にはお白洲(罪人を取り調べる場所)があったそうだ。
http://sanzan.gozaru.jp/imai/im5/imai-5.html


挨拶される保存会・西川会長

午後3時の(一旦)解散場所は順明寺だった。ここは《本願寺派寺院。もとは、多田源八郎仲貞が親鸞聖人の弟子となって十市郡新賀庄で堂を建てたのが始まりという。鎌倉時代のことだ。時は経って、1626(寛永3)年に了恵が堂を今井に移したという。その後衰退したのを1680(延宝8)年に隆元が再建し現在に至っている。明治時代には英昭皇太后が宿をとった》(美と歴史HP)。瓦には、菊の御紋がついていた。
http://www.digistats.net/usakoji/m/06/1459.htm



順明寺で一旦解散したが、希望者は午後4時半から、町の方と打ち上げ(懇親会)に参加した。それまでの間、私たちは若林さんのご案内で再び町を散策したが、そのとき目に止まったお店を紹介しておく。

まずは恒岡醤油醸造本店。《明治時代から続く老舗。濃口かけ醤油の『夢ら咲』が主流。「醤油は春夏秋冬の四季を経て、風味が出てくる」と4代目店主・新一朗さんが話す通り、杉樽でじっくりと1年余りかけて醸造する。土産として買った観光客からリピーターも続出する人気ぶり》(奈良っ子の「地醤油特集」)とある。私は「夢ら咲(むらさき)」200ml入り370円を買い求めたが、コクのある甘口醤油(みりん添加)なので、刺身や卵かけご飯にピッタリだ。
http://www.narakko.com/tokusyuu/soysauce/kataoka.html



はにわ饅頭は、2年前に今井を訪ねたときに買い求めた。ふんわりしたカステラ風の皮にほどよい甘さの餡が入る。橿原神宮の皇紀2600年祭に際し、今井の琴福堂が1940年(昭和15年)に発売して以来、人気の菓子だったが、後継者が途絶えてしまい、1年半ほど製造がストップしていた。
http://www1.kcn.ne.jp/~oakhotel/haniwa/haniwapage.htm



しかし橿原オークホテルが、これを途絶えさせてはいけないと商標権を譲り受け「はにわ本舗」として製造を再開した。
http://home.att.ne.jp/wind/pei/my/9gatsu/my01929-1.html

ヨシノさん姉妹や銀とき子さんは「大和御用達(やまとごようたつ)by 十返舎」という漬物と甘味喫茶のお店に入られた。「とても美味しかったので、お薦めします」とのこと。
http://blog.livedoor.jp/goyotatsu/?blog_id=2274660


画像はお店のHPより

さて、いよいよ懇親会である。場所は「今井まちや館」。《18世紀初期の町家。明治以降は空き家で老朽化していましたが、調査の結果、指定民家にも劣らない貴重な建物であることが判明。現在は当初の姿に復元され、資料館として公開されています。1階には土間や「しもみせ」がある、2列6間という大型民家の間取りです。周りの敷居が高くなった「帳台構え」、必要に応じて全開、半開できる「あげ戸」など、当時の建築手法を目のあたりにできます》(奈良ビジターズビューローのHP)。ツアー参加者19人に町の方4人が加わり、計23人の大宴会となった。



ここでサプライズがあった。今井の河合酒造さんが「宗久」という日本酒を醸造され、この日初めて口切していただいたのだ(「宗久」の字は若林さんの揮毫)。保存会の西川会長と歩こう会世話役のN先輩が、それぞれ1升瓶と4合瓶を開け、乾杯した。キリリとよく冷えた「宗久」は、やや辛口・重め(アルコール度数は18~19度)の美味しいお酒であった(「宗久」は、この日から発売開始。その後、販売は好調とのこと)。
http://homepage3.nifty.com/nara-sake/kuramoto/kawai.html

河合酒造(河合家住宅)は《酒造業を営む商家である。主屋は南面し西妻を切妻・東妻を入母屋造りとし、本瓦葺・二階建で南と東を道路とする角地に建つ。内部は平入り東側を通り土間とし西側に2列3室の床上部がある。この建物は今井町の古い町家の痕跡が残る過渡期の町家である》(NPO法人全国重文民家の集いのHP)。
http://www.jminka.gr.jp/blocphot/kink/nrphot/nrkawai.htm


乾杯の音頭は西川会長。左奥は第2班リーダーの井上芳光氏

懇親会では、町の皆さんへのお礼やこの日の感想を1人ずつ順番にお話しさせていただいた。歩こう会の全員から、温かいおもてなしへのお礼の言葉があった。町の方からは、今井の保存や町おこしについての貴重なお話を聞かせていただいた。

私はこれまで何度も今井を訪ねているが、ここまで丁寧に見せていただいたのは初めてである。今井は《明治期には近隣(今井町の北側=順明寺の北あたり)に持ち上がった鉄道駅建設計画に反対したことから都市化を免れることができた(畝傍駅として開業)。それゆえ現在も、町の大半が江戸時代の姿を残しており、大部分は実際に住居としても使用されている。ただし中には廃屋同然に放置された建物も存在し、空家対策が必要である》(Wikipedia「今井町」)とあるように、空き家問題が深刻化している。


歩こう会世話役のN先輩。「宗久」を手に、とても嬉しそうだ

この問題に取り組むため、06年3月、NPO法人今井まちなみ再生ネットワークが発足した。《老朽化し空き家となっている建築物や放置された空き地が100件以上もあり、町の活性化をさまたげ、景観が失われつつあります。また江戸時代前期には、4,400人の人口があり、にぎわっていましたが、現在は、1,300人あまりとなり、活性化されないことはもとより、コミュニティを維持することができず崩壊するのではないかという危機感を私たちは持っています》《今後、空き家の再生、再活用を中心としたまちづくり活動をすすめていきたいと考えます》(以上、同法人のHP)。このNPOの中心的な事業が、空き家と新たな居住者をマッチングさせる事業であるが、これを発展させた形で、県下全域を対象とした「町家バンクネットワーク」構築に向けての取り組みも進んでいる。
http://web1.kcn.jp/imaisaisei-net/



観光面で今井は、たくさんの人が訪ねる有名観光地(マスツーリズムの対象)としての発展は望んでおられない。今井を知りたいという目的を持った人々だけを対象としたツアーの受け入れを主眼としている。いわば「着地型観光」である。若林さんは《「歩こう会」は、これまで「家庭画報」(07年11月号)や「ミセス」(08年10月号)が募集されたツアーの3度目という位置づけになる。今後も、このようなツアーを実施したい。そのため人材育成など、受け入れ体制を整備していきたい》とおっしゃる。 人気雑誌で募集され、各80人も参加されたツアーと「歩こう会」を並べていただくのは僭越ではあるが、趣旨は同じということなのだろう。


若林副会長

全国に通俗観光地、がっかり名所は掃いて捨てるほどある。時代は物見遊山型の団体旅行から、個人旅行や特定目的のグループ旅行にシフトしている。だから、今井のめざす方向は間違っていない。
※若林さんのホームページ。今井の動きがよく分かる
http://homepage3.nifty.com/syodou-yamakitiman/

高齢化、空き家問題と今井が直面する課題は少なくないが、前向きな取り組みも活発だ。今回の「歩こう会」で拝見した町衆の一致団結力で、この困難を乗り切り、優れた観光資源と温かい「もてなしの心」で、素晴らしい「日本一の歴史景観都市」の名を全国にとどろかせていただきたいものだ。

今井の皆さん、有り難うございました。また帰らせていただきます!

※参考:今井町の「もてなし」は「まごころ」満点 (歩こう会参加の南都さんのブログ)
http://kichinosuke-kai-dog.blogspot.com/2009/09/blog-post_20.html
コメント (7)
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