tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

「奈良を大いに学ぶ」講義録(5)平城京PARTⅠ.

2009年09月15日 | 奈良にこだわる
9/2(水)と9/4(金)は、奈良大学文学部史学科教授・寺崎保広氏による「平城京とその時代」であった。詳しい資料に基づき、広範な内容を丁寧にご説明いただいたので、概要を以下に記す。メモが追いつかなかったところは、Wikipediaなどで補足した。

Ⅰ.奈良時代の歴史…天皇の継承を中心に
1.元明天皇と平城遷都
(1)元明即位まで…女帝の役割
奈良時代の歴史は、ほぼこの時代をカバーする正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』により知ることができる、と寺崎氏は言う。『続日本紀』についてネットで検索してみると、ある個人HPに《続日本紀の記事は、基本的に信頼できるという認識が研究者の間で一般化しているように思われる。その様子は、古事記や日本書紀に向けられる懐疑的な態度とは対照的であり、あまりの落差に違和感を覚える人もいるほどである》。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~menme/mmj05.html

《奈良朝にもなれば、多数の木簡や正倉院文書なども残されており、それらによって断片的な史実を確認できることは確かである。しかし、続日本紀以外に言及のない記述も、決して少なくないのである。当時の歴史を物語るためには、このような続日本紀のみが伝える記事を利用せざるを得ないのが現状であろう。そして、その記事は、基本的に信頼されているのである》等々とある。


ほぼ覆い屋が取れた大極殿(9/17撮影)。トップ写真は6/24に撮影したもの

701年、「大宝」という年号ができた。これが日本における年号(元号)の始まりである。《大宝年間には完成した大宝律令が施行され、都城としての藤原京や遣唐使派遣ならび、年号制定も律令国家成立の一環として行われた。『日本書紀』に拠れば、大宝以前にも大化(645年‐650年)、白雉(650年‐654年)、1年だけ存在した朱鳥(686年)などの年号があったとされるが、日本における元号制度は断絶状態にあり、『大宝』の改元により年号使用は再開される。以降、元号制度は途切れることなく現在にいたるまで続いている》(Wikipedia「大宝」)。

この時代には多くの女帝が即位した(推古天皇は39歳で即位。日本初の女帝であると同時に、東アジア初の女性君主)。順に挙げると

1.推古天皇(第33代、在位592年~628年)(第29代欽明天皇の皇女、第30代敏達天皇の皇后)
2.皇極天皇(第35代、在位642年~645年)(敏達天皇の男系の曾孫、第34代舒明天皇の皇后)
3.斉明天皇(第37代、在位655年~661年)(皇極天皇の重祚)
4.持統天皇(第41代、在位686年~697年)(第38代天智天皇の皇女、第40代天武天皇の皇后)
5.元明天皇(第43代、在位707年~715年)(天智天皇の皇女、皇太子草壁皇子(天武天皇皇子)の妃)
6.元正天皇(第44代、在位715年~724年)(草壁皇子の娘、生涯独身)
7.孝謙天皇(第46代、在位749年~758年)(第45代聖武天皇の皇女、生涯独身)
8.称徳天皇(第48代、在位764年~770年)(孝謙天皇の重祚)
(参考)
9.明正天皇(第109代、在位1629年~1643年)(第108代後水尾天皇の皇女、生涯独身)。
10.後桜町天皇(第117代、在位1762年~1770年)(第115代桜町天皇の皇女、生涯独身)

《一般的には記紀の記述を尊重し、過去に存在した女性天皇は全員が男系の女性天皇であり、また女性天皇が皇族男子以外と結婚して誕生した子が践祚したことは一度としてないとされている。歴史学界では、女性天皇は男系男子天皇と男系男子天皇の間をつなぐ「女帝中継ぎ論」が通説である》(Wikipedia「女性天皇」)。

元明(げんめい)天皇は《奈良時代初代天皇で第43代の天皇で女帝》《天智天皇の第四皇女で、鸕野讚良(うののさらら)皇女(持統天皇)は父方の異母姉妹、母方の従姉妹で、夫の母であるため姑にもあたる。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘、姪娘(めいのいらつめ)。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃である》(Wikipedia「元明天皇」)。

元明天皇の娘が元正(げんしょう)天皇である。元正天皇の《父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。即位前の名は氷高皇女(ひたかのひめみこ)》《日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。また、歴代天皇の中で唯一、母から娘へと女系での継承が行われた天皇でもある(ただし、父親は男系男子の皇族である草壁皇子であるため、男系の血統は維持されている)》《弟・文武天皇の子である首(おびと)皇子(後の聖武天皇)がまだ若い為、母・元明天皇から譲位を受け即位》(Wikipedia「元正天皇」)。



(2)藤原不比等…黒作懸佩刀(くろつくりかけはきのたち)
「黒作懸佩刀」(現物はすでに正倉院から失われている)についての記述が「東大寺献物帳」に載っている。この小太刀は、もとは草壁皇子の持ち物だったが、亡くなる前に藤原不比等に下賜し、不比等はそれを文武天皇の即位時に献上した。さらに文武天皇が25歳で亡くなる時、再び不比等に与え、不比等が死去した時に聖武天皇に奉られ、正倉院御物となった。父の形見を子が受け継ぎ、それを更に孫が受け継いだ(草壁→文武→聖武)ということであるが、その間を外戚の大臣(不比等)が仲介しているというところに、不比等の影響力が感じられ、興味深い。

2.天平の20年
(1)聖武天皇の即位
聖武天皇は《文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子》《文武天皇の第一皇子として生まれたが7歳で父は死没、母の宮子も心的障害に陥りその後は長く皇子に会う事はなかった(物心がついた天皇が病気が平癒した宮子と対面したのは天皇が37歳のときのことであった)。このため、文武天皇の母親である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年(714年)には首皇子の元服が行われて正式に立太子されるも、病弱であったことと皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ文武天皇の妹である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳の時に元正天皇より皇位を譲られて即位することになる》(Wikipedia「聖武天皇」)。

(2)長屋王の変と光明皇后実現
《聖武天皇の治世の初期は皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子の立后を願っていた。しかしながら皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた》(同)。長屋王は遵法精神に富んだ人物だったという。

《ところが天平元年(729年)に長屋王の変が起き長屋王は自殺、反対勢力がなくなったため光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は長屋王を取り除き光明子を皇后にするために不比等の息子で光明子の兄弟である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている》(同)。

(3)天平9年…天然痘の猛威
《しかし天平9年(737年)に疫病(天然痘)が流行して藤原四兄弟をはじめとして政府高官の殆どが死亡するという惨事に見舞われて、急遽長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。更に天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている》(同)。



(4)聖武彷徨から東大寺造営へ
《天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平16年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。また度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。また藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が取り仕切っていた。天平16年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため新たに墾田永年私財法を制定した。これにより、律令制の根幹の一部が崩れた。天平17年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺だという説がある》(同)。

3.聖武天皇の後継者問題
(1)異例の女性皇太子…皇嗣定まらず
《天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を取ったともいわれる)。初の男性の太上天皇となる。天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)に東大寺大仏開眼供養を行う》《天平勝宝8年(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御》(同)。

(2)聖武の遺言と藤原仲麻呂
孝謙天皇の《父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である》《淳仁天皇を経て重祚し、第48代称徳天皇。この称徳天皇以降、江戸時代の明正天皇に至るまで実に850余年女帝はいない》(Wikipedia「孝謙天皇」)。

《聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず、天平10年1月13日(738年2月6日)に娘・阿部内親王を立太子し、史上初の女性皇太子となる。結婚はできず、子もなかった。将来皇位につくことが決定した事が理由と考えられる。天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位した。母・光明子(光明皇后)が後見し、皇太后のために紫微中台を新設。長官には皇太后の甥の藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)が任命され、皇太后を後盾にした仲麻呂の勢力が急速に拡大した。これに反抗した橘奈良麻呂は討たれる》(同)。



(3)仲麻呂の乱から道鏡擁立
《天平宝字2年(758年)に孝謙天皇は退位し、仲麻呂が後見する大炊王が即位して淳仁天皇となる。孝謙上皇は代始改元を拒み、舎人親王(淳仁の父)への尊号献上にも抵抗するなど淳仁天皇との軋轢を繰り返した。引き続き権力を握った仲麻呂(恵美押勝に改名)は唐で安禄山の乱が発生したことを機に、淳仁天皇の名において隣国新羅の討伐を目論み、国内制度も日本的なものから唐のものへ名称を変更するなどの政策を推し進めた》(同)。

《天平宝字4年(760年)、光明皇太后が死去。翌年、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになるが、それを批判した淳仁天皇と対立する。天平宝字6年(762年)に孝謙上皇は平城京に帰還し、5月23日(6月23日)に法華寺に別居、その10日後、尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁天皇から天皇としての権限を取り上げると宣言した》(同)。

《光明皇太后の後見を無くした仲麻呂は天平宝字8年(764年)9月に挙兵(藤原仲麻呂の乱)するが敗れ、同年10月淳仁天皇を追放して孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となった。即位後、道鏡を太政大臣禅師とするなど重用した。また下級官人である吉備真備を右大臣に用いて、左大臣の藤原永手とのバランスをとった。天平神護元年(765年)には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じた》(同)。

770年、称徳天皇は死去。《称徳天皇は皇位継承者であったことから生涯独身を余儀なくされ、子をなすこともなかった。また、それまでの権力闘争の結果、兄弟もなく、父聖武天皇にも兄弟がなく、他に適当な天武天皇の子孫たる親王、王が無かったため、藤原永手や藤原百川の推挙によって天智天皇系の白壁王(光仁天皇)が即位した。また、道鏡は失脚して下野国に配流され、彼女が禁じた墾田私有は再開された》(同)。

(4)平安時代へ…天武皇統の断絶
桓武天皇は《白壁王(のちの光仁天皇)の第一皇子として天平9年(737年)に産まれた。母の高野新笠は、百済の武寧王を祖先とする百済王族の末裔と続日本紀に記されている。皇后藤原乙牟漏により安殿(のちの平城天皇)、神野(のちの嵯峨天皇)をなし、妃藤原旅子により大伴(のちの淳和天皇)をなす。初名は山部王。父の白壁王の即位後も母の高野新笠が身分の低い帰化氏族和氏出身であったため、立太子は望まれておらず、当初は官僚としての出世を目指しており、侍従・大学頭・中務卿などを歴任していた》(同)。

《しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争によって異母弟である前皇太子他戸(おさべ)親王とその母であった皇后井上(いがみ)内親王が突如廃されて宝亀4年(773年)1月2日に立太子。天応元年(781年)4月15日、即位。平城京における奈良仏教各寺の影響力の肥大化を厭い、山城国への遷都を行った》(同)。桓武天皇(天智系)は、長く天武系の天皇が支配していた平城京を嫌ったとも言われている。

《はじめに784年に長岡京を造営するが、794年に改めて平安京を造営した》《最澄や空海の保護者として知られる一方で、既存の仏教が政権に関与して大きな権力を持ちすぎた事から、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた諸派に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、後の『薬子の変』へとつながる温床となった》(同)。

なお講義には出てこなかったが《2001年(平成13年)12月18日、天皇誕生日前に恒例となっている記者会見において明仁は、翌年に予定されていたサッカーワールドカップ共催に関するコメントの中で、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」との発言を行った。この発言は、日本ではさほど大きく取り上げられなかったものの韓国のマスコミでは大きく報道され、話題となった》(同)。

以上、天皇の継承を軸に、奈良時代の歴史を詳しく、また分かりやすく講義していただいた。とりわけ日本の女帝10人(重祚を含む)のうち8人までがこの時代の天皇だったことには今更ながら驚かされる。

PARTⅡ.では、この時代の宮や人々の暮らし、平安京へ遷都した後の奈良が登場する。お楽しみに。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする