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「奈良を大いに学ぶ」講義録(4)南都仏教PARTⅡ.

2009年09月08日 | 奈良にこだわる
今回は、奈良大学名誉教授・市川良哉氏の講義の2回目である。含蓄のあるお話が続く。「Ⅱ.南都の仏教」の3.から。

3.成実宗と倶舎宗
・成実宗(じょうじつしゅう 開祖:道蔵、寺院:元興寺・大安寺)は《成実論を所依とする中国の仏教学派。鳩摩羅什(くまらじゆう)が漢訳した成実論の研究を主とし、梁代に最も隆盛をきわめた。日本では南都六宗の一だが、三論宗に付属する》(広辞苑)。『成実論』は、四諦(4つの心理。人生は苦である、それには原因がある、それを滅する、それには道がある)と八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)の教説を正しく理解するために自説の空の思想を主張したもの。

・倶舎宗(くしゃしゅう 開祖:道昭、寺院:東大寺・興福寺)は《南都六宗の一。倶舎論の研究を主とする。法相宗に付属するものとされ、一宗として独立するには至らなかった》(広辞苑)。森羅万象を構成する要素を75とし(色法=11、心法=1、心所法=46、心不相応行=14、無為法=3、という5つの範疇・75の種類、これが「五位七十五法」)、すべて過去・現在・未来の三世にわたって自己同一を保持し実在するという「三世実有・法体恒有」を主張した。



4.律宗(開祖:鑑真、寺院:唐招提寺)…《日本仏教の宗派。南都六宗の一。戒律の研究と実践を主とする宗派。753年(天平勝宝5)唐から鑑真(がんじん)が来日して伝え、戒壇を開いた。唐招提寺を本山とする》(広辞苑)。

《唐代には南山律宗を開いた道宣が出て、『四分律行事鈔』を著述して戒律学を大成した。道宣は、慧光の系統に属しており、その門下からは、周秀・道世・弘景らの僧が出た。道宣の孫弟子である鑑真は、留学僧の要請で日本に律を伝えたとされている》(Wikipedia「律宗」)。鑑真を受戒の師として、754年(天平勝宝6年)に大仏殿前の戒壇で聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇ら約440人が受戒。その後東大寺、下野薬師寺(栃木県・廃寺)、観世音寺(福岡県太宰府市)の3戒壇が定められ、戒律研究の根本道場として唐招提寺が759年(天平宝字3年)に建立され、栄えた。

なお、仏教の戒律とは《出家者・在家者の守るべき生活規律。「戒」は自発的に規律を守ろうとする心のはたらき、「律」は他律的な規則》(広辞苑)であり、一種の道徳である。一方キリスト教の戒律は、神の命令であり、これに背くことは「神命背反」となる。



5.華厳宗(開祖:良弁・審祥、寺院:東大寺)
・華厳の教学は、鑑真に先立って来朝した唐の道璿(どうせん)が華厳章疏(けごんしょうしょ)を伝えたのが最初。華厳宗としては、金鐘寺(こんしゅじ 東大寺建立以前の寺)の良弁(ろうべん)が新羅の審祥(しんじょ 唐の法蔵から華厳を学んだ)に請うて華厳経を講ぜしめたのが最初である。審祥はこの寺で華厳経・梵網経(ぼんもうきょう)に基づく講義を行い、その思想が反映されて大仏が建立された。

・華厳の思想に「心・仏・衆生・是三無差別」がある。心は巧みな絵師のように、様々な心と形を描き、この世界にどのような形も作り出すことができる。仏も衆生も、心がどんなものでも作り出せる同じ働きをする。悟れば仏となり、迷えば衆生となる。心の外に仏も衆生もない。心と仏と衆生は区別がない。しかし、迷いの世界を作り出すか、心を明らめるか。それは天地以上に異なる世界があることを意味する。

・華厳の言葉に「相即相入」「一即一切、一切一即」がある。「相即」とは体(本質)の観点から、すべての現象は密接不離であること。「相入」とは用(働き)の観点から、すべての現象は密接不離であることをいう。「一即一切、一切一即」は、一がそのまま多であり、多がそのまま一である、つまり限りなく関わり合う事物・事象の関係はその本質から見て一体であるという。

・法蔵(賢首大師)が則天武后(唐の高宗の皇后・周の初代皇帝)に行った講義がよく知られている。上下左右すべて鏡で構成された部屋の中央に灯火と仏像を置く。鏡は相互に映し合い限りなく像を結ぶ。つまり一は一切となり、1つの存在は世界全体を映し、世界は無限に多様な内容を展開する。これが「相即相入」であり「一即一切」である。時間軸においても同じである(一瞬と永遠)。逆にいえば「一障一切障」「一断一切断」である。1つの瞋(いかり)が百千の障害を生じる。千百の障りを取り除くのが普賢(菩薩)行の出発点である。
・西田幾多郎の哲学の根本には華厳経がある。華厳の教えは世界性を持っている。



Ⅳ.その他
1.維摩経について
・市川氏は講義の最後に、維摩経について詳しい補足をされた。Wikipediaなどを援用しつつ解説すると《内容は中インド・バイシャーリーの長者ヴィマラキールティ(維摩詰、維摩、浄名)にまつわる物語である。 維摩が病気になったので、釈迦が舎利弗・目連・迦葉などの弟子達や、弥勒菩薩などの菩薩にも見舞いを命じた。しかし、みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしない。そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した》(Wikipedia「維摩経」)。維摩は病気とはいえ、体はピンピンしていた(仮病?)。
http://www4.ocn.ne.jp/~yamamtso/newpage103.htm

《維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、生と滅、垢と浄、善と不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、世間と出世間、我と無我、生死(しょうじ)と涅槃、煩悩と菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。したがってこれを不二の法門に入るという》(同)。
※興福寺文化財(国宝)のフォトギャラリー(お寺の公式ホームページ内)。維摩居士像の画像もある
http://www.kohfukuji.com/property/photo/index.html


興福寺東金堂(とうこんどう・維摩居士像が安置)の正面。小学生の書道展(1人1文字)に「維摩」の字が見える

文殊と維摩の掛け合いの場面が「超訳【維摩経】」というサイトに活写されている。維摩が同席していた菩薩たちに「どうすれば不二法門に入ることができるのか」と説明を促し、これらを菩薩たちが1人ずつ不二の法門に入ることを説明し終わった後のシーン(第41話 維摩、ビシッとまとめる)である。
http://bunchin.com/choyaku/yuima/yuima041.html

《菩薩たちはそれぞれの研究成果を発表し終わると、リーダーである文殊菩薩に話を戻しました。菩薩一同:「文殊、最後はあなたの番ですよ!ビシッと総括お願いします」 文殊:「フム、よろしい。それでは私の考えを聞かせてあげましょう。ありとあらゆることがらの真実の姿は、『言葉にできない』『説明できない』『示せない』『知ることもできない』『問答や研究の対象とすることができない』これこそ『絶対』の境地です!!…維摩さん、なんだかすっかり話が長くなっちまいましたが、我々の意見はまぁ、こんなところです。さぁ、今度はあなたの番です。究極の『絶対』の境地ってヤツを教えてくださいな」》。

《維摩:「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」文殊:「す、すばらしい!すばらしすぎる!!さらに『文字にもできない』し『言語にもならない』。完璧です!完璧すぎます…。あなたのその無言の境地、それこそがまさに、究極の『絶対』の境地です!!」このやりとりを目撃した5000人の菩薩たちは、一斉に維摩居士にひれ伏しました》。文殊が発したのは「維摩一黙其声如雷(ゆいまのいちもく そのこえらいのごとし)」という言葉だそうであるが「沈黙が雷鳴のようだ」とはすごい表現である。
※市川氏が推薦された図書
『改版 維摩経』長尾雅人訳注 中公文庫
『維摩経をよむ』菅沼晃著 NHK出版

2.聖徳太子はいなかった?
・巷間、「聖徳太子はいなかった」という説が流布している(厩戸皇子は実在したが、後に「聖徳太子」と名付けられるようなスーパーヒーローはいなかった、という説)。太子が著したとされる『勝鬘経義疏』とそっくりなものが大英博物館の敦煌文書の中から発見されたことによるものである。市川氏は「実在派」であるが、興味のある向きには、以下の2冊が参考になるという。
『完本 聖徳太子はいなかった』石渡信一郎著 河出文庫
『聖徳太子の誕生』大山誠一著 吉川弘文館(AMAZONへのリンクは「南都仏教PARTⅠ.」参照)

完本 聖徳太子はいなかった (河出文庫 い 21-1)
石渡信一郎
河出書房新社

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3.笠原研寿…仏教はかくの如き人をもって誇るに足れり
テキストクリティーク(史料批判)とは、歴史学の研究上、史料を用いる際に、様々な面からその正当性、妥当性を検討することである。仏教の場合、多くは中国語訳された仏典を日本語訳していたが、それだと重訳となり、不正確になったり、原典のニュアンスが損なわれてしまう。何より漢訳仏典は、お釈迦さまとは違う時代に訳されたものである。

笠原研寿は、イギリスのオックスフォード大学に留学し、仏典を謄写したりサンスクリット語(梵語)から仏典を直接翻訳するなど業績を上げたが、研究に励むあまりわずか31歳で病死した。市川氏が言及されたこの人の詳しい情報をネットで見つけたので、紹介させていただく。師であるオックスフォード大学教授(仏教学)のマックス・ミュラー氏が『仏教はかくの如き人をもって誇るに足れり』とロンドンタイムズ(明治16年9月25日)に寄稿した追悼文の一部である。なお日本の近代的なインド学・仏教学研究の基礎を築いた笠原研寿、南条文雄、高楠順次郎という人々は、すべてマックス・ミュラー教授に学んでいる。
http://chitoai.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-d5e0.html

《己れが庭園のよき果物の若木が爛漫たる花の匂いながら、そのあらゆる美しさと将来の待望とを、一朝の厳霜にて凋落せしめられたのを見るにも似ている…。彼は日本に帰って後はもっとも有為な人となったであろう。なぜならば彼はただに欧州文明の長所をあまりなく評価しえたばかりでなく、己れが民族的の誇負をもうしなわず、けっして単純な西洋文化の模倣者とならなかったと思われるからである》。

《彼はいくつかの草稿をあとにのこして去り、われはその公刊の準備にあたり得んことを望んでいるが、とりわけて竜樹(ナーガールジュナ)の著とされた仏教術語集『達磨三掲刺哈(ダルマサングラハ)』を挙げる。多年蛍雪の労も、ついにその果を結ばぬと考えることは痛ましい。しかし、3200万の日本仏教徒の中にあって、かの一顆のすぐれて覚りを開きえた仏弟子が、いかにあまたの善事をもなすべかりしものをと考えるのは、さらにいたましいことである。Have, pia anima !(なおきみたまよ、いざさらば)》。
http://okuyama08.blog120.fc2.com/blog-entry-206.html

それにしても、充実した4時間(80分×4コマ)の講義であった。何となく知っているつもりでいた南都六宗が、こんなに奥深いものだとは驚きだった。市川氏は難しい教義を私たちにも分かるようにかみ砕いて教えて下さった。難しいことをやさしく教えるのは並大抵ではない。特に仏教哲学のように、概念自体が難解なものは、なおさらだ。受講生の中には、早速長尾氏の『維摩経』を読み始めた人もいたが、私にとってはお経が物語になっているということ自体、新発見だった。もっと勉強しなければ…。

市川先生、有り難うございました。

※トップ写真は興福寺東金堂、9/4撮影。
コメント (8)
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