最近、「教養」のなさを憂える意見を散見する。
あの「国家の品格」を書いた藤原正彦が「教養」について書いていた。【文藝春秋12月号「教養立国 ニッポン -救国の提言-」】
今の日本はアメリカの真似をして経済至上主義、お金が儲かるなら何でも良いという世の中になっているが、これでは、国は滅びる。国を救うのは「教養」だと。
「教養」はなぜ人間にとって大切かについて
「1。大局観を培うこと 2。人間的魅力を高める 3。教養は日本の国柄である 4。教養は愉しみでもある 5。人としての誇りである」と。
日本は、「足りてますます衣食を求める」国に成り果てた。強くたおやかな国を取り戻すため教養主義の回復を切望している。とあった。
また、佐藤学は「リテラシーの危機」の中で「日本の中学生の校外の学習時間が世界最低レベルであり、言語の危機と言うより教養の危機の状況である。教養に関する調査結果からも、子どもの学力低下よりも大人社会の教養の衰退がはるかに深刻だ」といっている。 【拙ブログ「言語の危機」 2008-01-23】
せいぜい教養を高めたいと思っている。その過程が楽しいから。
以前のエッセイ (2002.12.14 福島民報 掲載)
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「生徒の学力低下 学ぶ意識高めよ」
昨今、ゆとり教育の弊害として生徒の学力低下問題が懸念されている。先日の経済協力開発機構の調査で、日本の生徒の学力はトップレベルだが学習時間は世界一少ない事がわかった。今日の教育の課題が学力よりむしろ学習意欲の低下にあることを示した。ここで学力とは詰め込みの知識量でなく、創造性や感性などの真の生きる力との認識が必要である。
生徒はなぜ学びから逃避するのだろうか。儒学者佐藤一斎は、学べば「壮にして為すことあり、老いて衰えず、死して朽ちず」と生涯学習を説いている。またトフラーの『未来の衝撃』には八十才近い老人が新しい世界を学ぶひたむきな努力が書かれている。彼は教養ある人間として死にたいと言った。
価値観の多様化した現代だが、人として生きゆくカギは学びから得られる教養と考える。それは教養が、目標を立て主体的に自己を実現する力だからだ。生徒には、人として生きる意義としての動機付けが大切と思う。
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