【クマシデの新芽】
朝から雨降り、肌寒いくらいだ。午後、萌ちゃんの帰りを途中まで迎えに出た。
それまでの雨はみぞれになり、白く見え始めた。なんと、一瞬のうちに車の屋根はシャーベット状に。
急に気温が下がり、庭の寒暖計は1℃を差していた。
この前、庭に出した鉢物が心配になり、いくつかを取り込んだ。
あとは、みぞれ降る中を、まとめて新聞紙で覆いビニールをかぶせた。
天気予報では、夜は雪になる。被災地の宮古あたりは雪が積もりそうだという。
冬に逆戻りのこんな日は、 終日読書で過ごすしかない。「良寛」に思いを巡らせた。
地震が起きてから、200数十年前の三条地震に遭った時の良寛の有名な言葉を考えていた。
「災難に逢う時節には逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難からのがるゝ妙法にて候。」である。
これは知人に送った見舞い状の一節だが、その解釈はいろいろあるだろう。
表面的な厳しい言葉の裏にある、良寛の真意をくみ取らなければならないと思う。
また、このとき良寛は三条の街の惨状を見て、その悲惨さに涙を流し、漢詩「地震後詩」を残している。
以下に、良寛研究家・谷川敏朗の『良寛漢詩講座』の『漢詩「地震後詩」』】から引用する。( 【http://www.geocities.jp/my_ryoukan/kouza412.html )
**********************************
この長詩「地震後詩」は、三段で構成されている。
1.現在の様子
来る日も来る日も、また来る日も、毎日毎夜肌をさすように寒い。
空一面に広がる黒い雲で日の光もうすく、大地いっぱいに激しい風が雪を巻いて吹きすさぶ。
荒れ狂う波は天にとどくばかりにさか巻き、そのために大きな魚も自由を失い、余震のたびに壁が揺れて鳴り、人々はおびえ悲しむのであった。
2. 過去の有様
思えば四十年この方、世の中が浮わつきぜいたくになっていくありさまは、まことに馬を走らせるような速さである。
まして長い間安らかに治まっていたことにたよって、人々の気持がゆるみ、よこしまで鬼のようなやからは群れを作り、争ってこれにつけこんだ。
情けや正しい道は立ちどころにすたれ、まごころや思いやりはまったく知る人もいない。
もうけになる話をすれば毛の先ほどのわずかな物をも奪い合い、人の道を説く人を底ぬけの愚か者とする。
そして自分をえらいと思い、人をだますのをやり手だとする。さらに土の上に泥を加えるようなあさましい行いをして、終わる時がない。
3.未来(自省)
すべて物というものは、かすかで目に見えないようなことが積もり積もって、やがてはっきりと目に見えるようになるのが普通のあり方である。
このたびの災害は、人々の心の持ち方が招いたもので、なお遅かったといってよい。日月や星の運行が乱れている(人々は夜遊び呆けて昼は疲れて働かない。
昼と夜が入れ替わったようだ。と良寛さんは嘆いている。)が、誰がそれによく気づいていようか。
また四季のめぐりにきまりがなくなってから、すでにずいぶん時がたっている。
もしわたしの言っている意味を理解したならば、すぐに自分をかえりみなさい。
どうしてこんどの災害を、他人のせいだとして怨んだり、天のせいだとして悪くいったりして、いくじのない女の子の口ぶりをまねてよいものか。
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ある面、現代の世相ととても似ていると思う。そして、震災直後の石原都知事の「津波は天罰」の発言記事を思った。
《生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとえば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。(道元:現成公案)》
冬が来たら冬を自然と受け入れる、「騰々として天真に任す」のこころである。
良寛の時代の人々は、自然を受け入れ、堪えがたくとも堪え、自然と調和して生きた。まず自然を受け入れた。
しかるに、現代人は自然を克服できると奢ったのではないか。
憂うべき原発事故は、自然を制御できると考えた傲慢さであり、人災である。
未曾有の東日本大震災で被災された皆様にこころからお見舞いを申し上げます。
そして、東電原発の沈静化をはじめ、被災地の一日も早い復興をこころから祈りたい。
朝から雨降り、肌寒いくらいだ。午後、萌ちゃんの帰りを途中まで迎えに出た。
それまでの雨はみぞれになり、白く見え始めた。なんと、一瞬のうちに車の屋根はシャーベット状に。
急に気温が下がり、庭の寒暖計は1℃を差していた。
この前、庭に出した鉢物が心配になり、いくつかを取り込んだ。
あとは、みぞれ降る中を、まとめて新聞紙で覆いビニールをかぶせた。
天気予報では、夜は雪になる。被災地の宮古あたりは雪が積もりそうだという。
冬に逆戻りのこんな日は、 終日読書で過ごすしかない。「良寛」に思いを巡らせた。
地震が起きてから、200数十年前の三条地震に遭った時の良寛の有名な言葉を考えていた。
「災難に逢う時節には逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難からのがるゝ妙法にて候。」である。
これは知人に送った見舞い状の一節だが、その解釈はいろいろあるだろう。
表面的な厳しい言葉の裏にある、良寛の真意をくみ取らなければならないと思う。
また、このとき良寛は三条の街の惨状を見て、その悲惨さに涙を流し、漢詩「地震後詩」を残している。
以下に、良寛研究家・谷川敏朗の『良寛漢詩講座』の『漢詩「地震後詩」』】から引用する。( 【http://www.geocities.jp/my_ryoukan/kouza412.html )
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この長詩「地震後詩」は、三段で構成されている。
1.現在の様子
来る日も来る日も、また来る日も、毎日毎夜肌をさすように寒い。
空一面に広がる黒い雲で日の光もうすく、大地いっぱいに激しい風が雪を巻いて吹きすさぶ。
荒れ狂う波は天にとどくばかりにさか巻き、そのために大きな魚も自由を失い、余震のたびに壁が揺れて鳴り、人々はおびえ悲しむのであった。
2. 過去の有様
思えば四十年この方、世の中が浮わつきぜいたくになっていくありさまは、まことに馬を走らせるような速さである。
まして長い間安らかに治まっていたことにたよって、人々の気持がゆるみ、よこしまで鬼のようなやからは群れを作り、争ってこれにつけこんだ。
情けや正しい道は立ちどころにすたれ、まごころや思いやりはまったく知る人もいない。
もうけになる話をすれば毛の先ほどのわずかな物をも奪い合い、人の道を説く人を底ぬけの愚か者とする。
そして自分をえらいと思い、人をだますのをやり手だとする。さらに土の上に泥を加えるようなあさましい行いをして、終わる時がない。
3.未来(自省)
すべて物というものは、かすかで目に見えないようなことが積もり積もって、やがてはっきりと目に見えるようになるのが普通のあり方である。
このたびの災害は、人々の心の持ち方が招いたもので、なお遅かったといってよい。日月や星の運行が乱れている(人々は夜遊び呆けて昼は疲れて働かない。
昼と夜が入れ替わったようだ。と良寛さんは嘆いている。)が、誰がそれによく気づいていようか。
また四季のめぐりにきまりがなくなってから、すでにずいぶん時がたっている。
もしわたしの言っている意味を理解したならば、すぐに自分をかえりみなさい。
どうしてこんどの災害を、他人のせいだとして怨んだり、天のせいだとして悪くいったりして、いくじのない女の子の口ぶりをまねてよいものか。
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ある面、現代の世相ととても似ていると思う。そして、震災直後の石原都知事の「津波は天罰」の発言記事を思った。
《生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとえば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。(道元:現成公案)》
冬が来たら冬を自然と受け入れる、「騰々として天真に任す」のこころである。
良寛の時代の人々は、自然を受け入れ、堪えがたくとも堪え、自然と調和して生きた。まず自然を受け入れた。
しかるに、現代人は自然を克服できると奢ったのではないか。
憂うべき原発事故は、自然を制御できると考えた傲慢さであり、人災である。
未曾有の東日本大震災で被災された皆様にこころからお見舞いを申し上げます。
そして、東電原発の沈静化をはじめ、被災地の一日も早い復興をこころから祈りたい。