エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

顕夢明恵を思う

2013-08-31 | 文芸

  

  座右の「この世この生」 を開いた。

 『顕夢明恵』の書き出しに「西行を地上一寸とすれば明恵は地上一尺である。良寛の足は地に着いている。」とある。

 また、「明恵が語りにくいのは、彼が路を行くときもその足は地上一尺を踏んでいるからだ。」と。

 しばらく、〈地上一尺〉を考えている。


 同書の、西行、良寛、道元については、方々に傍線施され日々の心の支えを求めていたようだが、明恵については読んだ形跡なく、きれいなままだった。

 明恵上人の人となりの一端に、徒然草144段を取り上げている。
 《 栂尾の上人、道を過ぎ給ひけるに、河にて馬洗ふ男、「あしあし」と言ひければ、上人立ち止りて、「あな尊や。宿執開発の人かな。阿字阿字と唱ふるぞや。如何なる人の御馬ぞ。余りに尊く覚ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿の御馬に候ふ」と答へけり。「こはめでたき事かな。阿字本不生にこそあンなれ。うれしき結縁をもしつるかな」とて、感涙を拭はれけるとぞ。》
  上田三四二の記述には、

 「「足」と「阿字」と言う結びつくはずのない言葉が発音を同じくするだけの理由から結びつき、すり替えられ、そのようにすり替えが起こってしまった上は、俗世のいじましい官職の名「符生」は、頓悟の言葉たる一切諸法不生不滅の「不生」でなければならなかった。」と。

 正に、地に這いつくばって生きる者と、地上一尺にある者との間に生じた齟齬、俗と聖の行き違いの笑い話だ。

 でも、栂尾の上人には、見るもの聞くものすべてが信仰と結びついているからだろう。
 兼好のユーモアと尊敬が渾然としている話だ。

 最近の耳の衰えに、妻からは補聴器・・・などと、

 老いを感じて、同じようなやりとりがあったな~と、一人にやにやしている。