感性という言葉を辞書で調べてみると「認識の上では、外界の刺激に応じて、知覚・感覚を生ずる感覚器官の感受能力をいう。ここで得られたものが、悟性の素材となり認識が成立する。 」とある。
「感性なんてオマエが語れるのか?」と言われる前にことわっておくが、はっきり言ってワタシには芸術に関する感性と言うモノはほとんど無い。絵なんかを見たところで良さなんかは全然判りゃ~しないので、ついつい解りやすいものに目が行ってしまう。だからエラそうなことは言えないのかも知れないが、性格上、興味を持ったことは深く掘り下げるタチなので少しは特定の分野では語れるものがある。今回はその中で感じた話だ。
以前にも書いたが、倉本聰氏は「失われた森厳」というエッセイ集の中で「様々な緑のグラデーションの中で32種類もの緑が日本語にはあって、それを昔の日本人はきちんと識別出来る日常的感性を持っていた。」と書き、「それを現在の日本では子供達に黄緑、緑、濃い緑くらいにしか識別させようとせず、感性の部分は置き去りにしている。」ことを嘆いておられた。そして「我々が周囲に環境から、異変の予兆、危険の接近を関知するのは究極的には感性の世界である。」だから「子供たちを放置し、感性の錬磨をさせることをおこたっていることは危険である。」と警告されていた。氏は主に環境面で触れていたのだが、それ以外の面でも同様の話はワタシの身近な日常で起こっており、気になっている部分でもある。
ワタシの商売は食品加工業で、製品に関しては原料本来の「素材の味」が出るよう、なるべく化学調味料を使わないようにしているのが特徴だが、ここ近年の商談ではそれだけでは通用しなくなっている。というのも現代のハンバーガーやポテトチップスに代表される袋菓子、そして加工品のオカズをよく食べて育った世代はいわゆる「パンチの効いた味」に反応しやすく、購入先の担当者が若い人だと調味料を入れた味にしないとなかなか採用にはならない。特に近頃はアミノ酸調味料の全盛期で、それを入れないとお客さんが反応してくれない。つまり、「素材の微妙な味わい」よりも「わかりやすい味」が優先される傾向にあるのだ。ある料理家が「日本人の味覚をダメにしたのは、にんにくと唐辛子、それに科学調味料だ。」と言っていたのを思い出す。
話は飛ぶが、今流行のiPodに代表されるMPプレイヤー。確かに小型でたくさん曲が入って便利、パッと見?イイ音がするので、今やオーディオプレイヤーの主流になっている。でもこの「パッと見」という部分がオーディオ歴30年以上のオジサンから言わせてもらうと実は問題アリで「これで本当にイイ音なの?」と思ってしまう部分なのだ。
「イイ音」の定義はそれぞれの好みがあって一言で語るのは難しいが「作者(演奏者)の生み出した音や原音が加工されず忠実に再現される音」が理想の上ではベストだと思うので、ココではそれに近いのが「イイ音」と定義しておく。
音楽等を再生する装置は古くはアナログのLPレコードから始まり(SP盤は知らないのでパス)、カセットテープ→CD(ここからデジタル)→MD→MPプレイヤーと歴史をたどってきたが、実は録音、再生できる周波数の範囲はアナログ機の方が優れている。これがデジタルになり、小型化されるにしたがってソフトの容量が減っても圧縮などの技術が発達してウマクまとめてはいる。しかし、楽器音というのは何も一つの周波数だけで成り立っているのではなく、倍音というのが複雑に絡み合って出来上がっており、これは人間の耳で聞き取れる範囲を超えて、多分無限に近く入っているのだ。だから、あらかじめ設定された許容範囲外の周波数をカットしなければならないし、消え入るような音も早々とカットされてしまうデジタル器機で録音再生すると、倍音が多く含まれる音が真っ先に変化し「解る人にだけ」だが、変な感じに聞こえてくる。
こんなことを書くと「便利だし、自分にはイイ音に聞こえるから別にエ~やんか。」と言われてしまうかも知れないが、全く加工をしない再生装置はこの世に存在しないものの、ソフトが小型化された器機の音は、いわば調味料や添加物をドバッと入れて加工し、わかり易くした音であり、素材(原音?)からは、距離を置いた音だということは確かだ。(そうしないと容量オーバーでソフトに入らない)
また、再生する際の出口であるスピーカーも巷で最もよく見るアメリカ製某社の製品はフルレンジと言ってスピーカーが1チャンネルに1個しか着いていない。これはこれで良さもあるのだが、高音を出すための専用のスピーカー・ユニットがないので、ある程度の周波数以上の再生は物理的に不可能になっている。だから、これも実際に出ている音は加工度がかなり進んだ音なのだ。
ワタシごときが、ほんの少し理解が出来るような、音や味の世界でも現代はこんな状況なのだ。だからこれから先、特に自然界の微妙な色遣いを知らずに原色とモノトーンで多くが彩られる都会で、刺激が強くて便利で判りやすいモノばかりに触れて育つ子供達は、たとえ従来にない部分で発達することが少しはあっても、相対的に倉本聰氏が言うように感性が衰えていくのだと思う。
元来、我々日本人ははっきりと解る四季の移ろいの中で、微妙な違いや趣(おもむき)を認識し、今では面倒くさいと思われがちな文化、風習や習慣に従って生きてきた。そんな中から生まれた製品は諸外国から「こんな所にまで気を使うのか」と驚かれ、その事が壊れにくい自動車であったり高精細のTVであったり、高音質のオーディオ器機作り等に繋がっていったのだと思う。話を釣り関係に移せば、竿やリールからハリや糸に至るまで、日本製が世界一の性能を誇れるようになったのは、日本人ユーザーのハイレベルかつ緻密&繊細な要求にメーカーが対応し、開発した結果なのだ。
日本は輸出しないと喰っていけない国だと言うことは、ワタシが言わなくても誰にでも判るだろう。だから、次の世代が作る製品に日本の未来がかかっているのだが、微妙な感性が反映されない大味なモノしか生産出来なくなれば、この国の企業の多くがどこかの国の自動車メーカーのようになってしまうのでは?と心配になる。
感性の錬磨には経験が必要だ。だから子供達に関しては親が頑張って色々なフィルードに連れ出しホンモノを体験をさせて欲しいと願う。また、若い世代には「安直なモノやバーチャルなモノで満足せず、積極的に行動していろんなことに興味を持ち、ホンモノを体験してどん欲に自分自身で感じとって欲しい」と益々思うが、不景気な世の中だから昨今の世間一般はそんなムードにはならないようだ。であれば、たとえピンスポットであっても、専門的な分野で深く掘り下げる人の数を増やすしかないのかも知れない。そう言えば日本には世界に誇る「オタク文化」があったのだ。これからはオタクをバカにしてはいけない。国を挙げて様々な分野でのオタクを増やそう。「オタクは日本を救う(かも知れない?)」のだ。
「感性なんてオマエが語れるのか?」と言われる前にことわっておくが、はっきり言ってワタシには芸術に関する感性と言うモノはほとんど無い。絵なんかを見たところで良さなんかは全然判りゃ~しないので、ついつい解りやすいものに目が行ってしまう。だからエラそうなことは言えないのかも知れないが、性格上、興味を持ったことは深く掘り下げるタチなので少しは特定の分野では語れるものがある。今回はその中で感じた話だ。
以前にも書いたが、倉本聰氏は「失われた森厳」というエッセイ集の中で「様々な緑のグラデーションの中で32種類もの緑が日本語にはあって、それを昔の日本人はきちんと識別出来る日常的感性を持っていた。」と書き、「それを現在の日本では子供達に黄緑、緑、濃い緑くらいにしか識別させようとせず、感性の部分は置き去りにしている。」ことを嘆いておられた。そして「我々が周囲に環境から、異変の予兆、危険の接近を関知するのは究極的には感性の世界である。」だから「子供たちを放置し、感性の錬磨をさせることをおこたっていることは危険である。」と警告されていた。氏は主に環境面で触れていたのだが、それ以外の面でも同様の話はワタシの身近な日常で起こっており、気になっている部分でもある。
ワタシの商売は食品加工業で、製品に関しては原料本来の「素材の味」が出るよう、なるべく化学調味料を使わないようにしているのが特徴だが、ここ近年の商談ではそれだけでは通用しなくなっている。というのも現代のハンバーガーやポテトチップスに代表される袋菓子、そして加工品のオカズをよく食べて育った世代はいわゆる「パンチの効いた味」に反応しやすく、購入先の担当者が若い人だと調味料を入れた味にしないとなかなか採用にはならない。特に近頃はアミノ酸調味料の全盛期で、それを入れないとお客さんが反応してくれない。つまり、「素材の微妙な味わい」よりも「わかりやすい味」が優先される傾向にあるのだ。ある料理家が「日本人の味覚をダメにしたのは、にんにくと唐辛子、それに科学調味料だ。」と言っていたのを思い出す。
話は飛ぶが、今流行のiPodに代表されるMPプレイヤー。確かに小型でたくさん曲が入って便利、パッと見?イイ音がするので、今やオーディオプレイヤーの主流になっている。でもこの「パッと見」という部分がオーディオ歴30年以上のオジサンから言わせてもらうと実は問題アリで「これで本当にイイ音なの?」と思ってしまう部分なのだ。
「イイ音」の定義はそれぞれの好みがあって一言で語るのは難しいが「作者(演奏者)の生み出した音や原音が加工されず忠実に再現される音」が理想の上ではベストだと思うので、ココではそれに近いのが「イイ音」と定義しておく。
音楽等を再生する装置は古くはアナログのLPレコードから始まり(SP盤は知らないのでパス)、カセットテープ→CD(ここからデジタル)→MD→MPプレイヤーと歴史をたどってきたが、実は録音、再生できる周波数の範囲はアナログ機の方が優れている。これがデジタルになり、小型化されるにしたがってソフトの容量が減っても圧縮などの技術が発達してウマクまとめてはいる。しかし、楽器音というのは何も一つの周波数だけで成り立っているのではなく、倍音というのが複雑に絡み合って出来上がっており、これは人間の耳で聞き取れる範囲を超えて、多分無限に近く入っているのだ。だから、あらかじめ設定された許容範囲外の周波数をカットしなければならないし、消え入るような音も早々とカットされてしまうデジタル器機で録音再生すると、倍音が多く含まれる音が真っ先に変化し「解る人にだけ」だが、変な感じに聞こえてくる。
こんなことを書くと「便利だし、自分にはイイ音に聞こえるから別にエ~やんか。」と言われてしまうかも知れないが、全く加工をしない再生装置はこの世に存在しないものの、ソフトが小型化された器機の音は、いわば調味料や添加物をドバッと入れて加工し、わかり易くした音であり、素材(原音?)からは、距離を置いた音だということは確かだ。(そうしないと容量オーバーでソフトに入らない)
また、再生する際の出口であるスピーカーも巷で最もよく見るアメリカ製某社の製品はフルレンジと言ってスピーカーが1チャンネルに1個しか着いていない。これはこれで良さもあるのだが、高音を出すための専用のスピーカー・ユニットがないので、ある程度の周波数以上の再生は物理的に不可能になっている。だから、これも実際に出ている音は加工度がかなり進んだ音なのだ。
ワタシごときが、ほんの少し理解が出来るような、音や味の世界でも現代はこんな状況なのだ。だからこれから先、特に自然界の微妙な色遣いを知らずに原色とモノトーンで多くが彩られる都会で、刺激が強くて便利で判りやすいモノばかりに触れて育つ子供達は、たとえ従来にない部分で発達することが少しはあっても、相対的に倉本聰氏が言うように感性が衰えていくのだと思う。
元来、我々日本人ははっきりと解る四季の移ろいの中で、微妙な違いや趣(おもむき)を認識し、今では面倒くさいと思われがちな文化、風習や習慣に従って生きてきた。そんな中から生まれた製品は諸外国から「こんな所にまで気を使うのか」と驚かれ、その事が壊れにくい自動車であったり高精細のTVであったり、高音質のオーディオ器機作り等に繋がっていったのだと思う。話を釣り関係に移せば、竿やリールからハリや糸に至るまで、日本製が世界一の性能を誇れるようになったのは、日本人ユーザーのハイレベルかつ緻密&繊細な要求にメーカーが対応し、開発した結果なのだ。
日本は輸出しないと喰っていけない国だと言うことは、ワタシが言わなくても誰にでも判るだろう。だから、次の世代が作る製品に日本の未来がかかっているのだが、微妙な感性が反映されない大味なモノしか生産出来なくなれば、この国の企業の多くがどこかの国の自動車メーカーのようになってしまうのでは?と心配になる。
感性の錬磨には経験が必要だ。だから子供達に関しては親が頑張って色々なフィルードに連れ出しホンモノを体験をさせて欲しいと願う。また、若い世代には「安直なモノやバーチャルなモノで満足せず、積極的に行動していろんなことに興味を持ち、ホンモノを体験してどん欲に自分自身で感じとって欲しい」と益々思うが、不景気な世の中だから昨今の世間一般はそんなムードにはならないようだ。であれば、たとえピンスポットであっても、専門的な分野で深く掘り下げる人の数を増やすしかないのかも知れない。そう言えば日本には世界に誇る「オタク文化」があったのだ。これからはオタクをバカにしてはいけない。国を挙げて様々な分野でのオタクを増やそう。「オタクは日本を救う(かも知れない?)」のだ。