中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

冬の大徳寺 その2

2012-03-03 12:30:00 | 旅行
■高桐院■

 最期に向かったのは高桐院(こうとういん)。この塔頭は、戦国期で一、二を争うほどの「文化人・教養人・お洒落人」、そして千利休の高弟とも言われる、細川藤孝(幽齋)を弔うために、息子忠興が創建した塔頭で、以降、細川家の菩提寺となっているそうだ。細川氏とは現在にも続く名家であり、日本新党から首相になった細川護煕(ほそかわもりひろ)氏が18代目の当主をつとめている。

●門構えからして他の塔頭とは違う雰囲気が漂う●

●門から続く石畳の参道●

●松向軒という名の茶室●

●秋には紅葉で赤く染まるという、本堂前の庭●

●左下の「つくばい」は、加藤清正が朝鮮から運び入れたもの●

●採光までもが計算されている●


 さすがに細川家の菩提寺だけあって、何から何まで計算しつくされた感があり、センスの塊のような塔頭であった。


■境内散策を終えて■

 同じ禅宗の寺院といっても、秋に行った「東福寺(とうふくじ)」のように、時の政権の庇護によって大金がつぎ込まれた感のあるものとは違って、ここ大徳寺は有名戦国大名が関わっている割には質素な感があり、禅宗本来の雰囲気が漂っていた。
 調べてみたが、鎌倉幕府の滅亡時近辺では後醍醐天皇の保護を受け、建武の新政時には、この大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけしていたそうだ。
 しかし、ご存じの通り、後に後醍醐天皇と敵対した足利氏が天下を取り、室町幕府を開くと、今度は五山十刹の最下位に近い、十刹の第9位にまでおとしめられるまでに至ったそうだ。
 これを受けて大徳寺は、幕府の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった、五山十刹から離脱し、座禅修行に専心する独自の道を歩んでいったそうだ。だから、このために質素な雰囲気が流れているのではないのかとボクは思っている。
 また、権力に屈しない茶人、千利休とも関係が深く、豊臣秀吉による利休切腹令の原因とも言われる、「雪駄履きの利休木像」は、この大徳寺の三門内にあったというから、その反骨精神はずっと続いていたのだと思われる。
 戦国大名とは言っても、元々は質実剛健な武士達だ。そういった価値観に共鳴したことが、彼らがここに塔頭を建立していった理由なのではないかと思う。

 同じ禅宗であってもそれぞれの特徴があって見る分にはとても楽しい。まだまだ、京都の寺院巡りは続きそうである。
コメント
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