■外来生物の繁殖■
本来は日本に棲息しないはずの外来種が繁殖し、本来の生態系を破壊しているというニュースが時折流れている。昔からよく採り上げられており、代表格になっているのはブラックバスとブルーギルだが、最近では東京都大田区を流れる呑(のみ)川でワニ似た容姿で体長が3m近くにもなる、「アリゲーター・ガー」が繁殖して話題になっている他、カミツキガメの目の前に野菜や木の棒を持ってゆき、それを噛み砕かせて恐怖を煽る映像もよく紹介される。
これら外来生物の繁殖は、釣り場を広げたいと思う釣り人や、終生飼うということをしないうえ、殺して処分することも出来ないペットの飼い主が、偽善的かつ無責任な放流をしたために起こった「生態系の破壊」とされている。しかし、本当にバカな素人が行ったゲリラ的な放流だけなのだろうか?。
■公認の場合もある■
このブログでも以前から何度も触れているが、渓流魚の中でも似た体型をしているヤマメとアマゴは、朱点という朱色の点々模様の有る無しで判るように種類は別だ。基本的に日本海に注ぐ川にヤマメが、瀬戸内と太平洋に注ぐ川にはアマゴが生息するはずなのだが、以前はアマゴの方が養殖しやすかったということもあって、河川に放流する際にはアマゴを無秩序かつ大量に放流していたそうだ。後にヤマメの養殖技術が向上したお陰で改められてはいるようだが、もう手遅れの川もある。以前に放流したアマゴの子孫達が、ずっと釣れ続けている川も多いのだ。
イワナに関しても河川ごとに違った特徴があり、亜種も存在しているにもかかわらず、ニッコウイワナという養殖しやすい品種が放流されることが多い。それらが各河川の渓流部で繁殖した結果、在来種との混血化も進んでいるらしい。
これらは、営利目的と資源枯渇防止のために漁業関係者が公認で放流しているのだが、その公認の中でも、最も疑問が残るのはニジマスの放流だ。ニジマスは北米が原産の外来魚だということは多くの人が知っている事実だとは思うが、他の渓流魚と比べて高水温に強く、価格が安いことから低予算の漁協にも受け入れられやすく「質より量」という観点から各河川に積極的に放流される機会が多いのだ。
他に、長野県内には養殖場が大雨で決壊した結果であろうとされているが、奈川のように外来種であるブラウントラウトが普通に狙って釣れるほど繁殖しているところや、犀川のように本州には棲息しないはずのイトウまでもが繁殖している川がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/aa/53dbb3337c983b4baf8a51f5d29b4573.jpg)
●長野の川で釣ったニジマスだが、放流された魚たちには罪はない●
■意外なところにも■
話は、清流部にも広がる。夏の風物詩でもある鮎は、湖産と呼ばれる琵琶湖産の小鮎を放流している河川が多く、鮎そのものの生態系が狂ってしまっているが、そのうえ、その小鮎に混じって放流された、本来は琵琶湖原産であるオイカワ、フナ類、モロコ類、カワムツ類が、日本全国の河川で繁殖して今や当たり前のように泳いでいる。
海に目を向けると、今では当たり前のようにムラサキイガイ(ムール貝の一種)が防波堤や岸壁にビッシリとくっついて繁殖しているが、それは、船底に付着して日本までやって来た、本来はヨーロッパ原産種が在来種を駆逐した結果だ。
意外なところでは、日本海に棲息するマダイを調査した結果を見たことがあるが、今では多くの個体がが稚魚から放流したものか、それが繁殖したものであるという。見分け方は簡単で、準天然物には鼻の穴が大小2対、計4個あるのに対して養殖がらみの物には大が2対、計2個しかないそうだ。(例外も僅かにあるそうだけど。)
これらの現状を目の当たりにすると、故意で有る無しにかかわらず、人間は様々な所に手を突っ込んで生態系に影響を与える生き物なのだと痛感する。
■どれが本物?■
現代の河川などに棲息する魚たちの多くが、実は後から移入されたものであるということを知ると、我々が今見て「自然風景」だと思っているものは、「崩れた生態系が前提になっていることが多い」ということなのだろう。
そうなると、今我々の心の中にある原風景までが疑わしく思えてくる。
実際に作家の司馬遼太郎さんも講演の中で、我々日本人にとって特に「日本らしい」と思える風景の一つである松林までもが、実は人間がその土地を荒廃させたがために、痩せた土地に強い松くらいしか生えなかった結果であると、説いている。だから、「どこからどこまでが原風景なのか?」といっても、その基準自体があやふやなものなのだ。
結局、人それぞれの頭の中で勝手に思い描く基本の風景があって、そこから変化して違和感を持つようになれば、それを「悪」と感じるのだろう。
もしかするとニジマスやブラウントラウトが泳ぐ川は、今の長野県に住む若者や子供達にとって既に当たり前の風景になっているのかも知れない。そうであるなら、もしも何十年か経って、また違う魚が繁殖してそれらが駆逐されるようなことがあれば、生態系の破壊と感じるのだろうか?。本当に人間は勝手な存在だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/a4/2c1a6e19e881682bfc1dd55a812db156.jpg)
●本来の棲息圏で、あるべき「たたずまい」をしている魚は、眺めても美しい●
■諸行無常■
自然とは大きな流れであり、その姿は一定ではない。我々が今見ている自然の姿は、大河の流れの中にある小さな淀みを一瞬だけ垣間見ているようなものだ。そして、その流れは中に異物を取り込んでしまっても、それをある時は排除し、ある時は吸収して、再びバランスのとれた状態を取り戻す。
分子生物学者の福岡伸一さんは著書の中で「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである。」と説いているが、生命と同じように自然は平衡をとりつつも「無常」だ。それは今から2400年以上も前に、お釈迦様が「諸行無常」と、我々に説いて下さっていることなのだ。
そんなシステムがあるからこそ、後になって人間がノスタルジーを感じる一点に舞い戻ろうとしても、それには多大な困難が付きまとうのだ。また、人それぞれに意見が違うし、その一点自体がすでに生態系が崩れた状態であるのなら、「果たしてどこに戻すのが正解なのか」という判断すら難しい。
すなわち、一度繁殖を始めた外来魚を含む他品種を完全駆除するのは不可能に近いということであり、だからこそ、そこに本来は棲息しない品種の無秩序で身勝手な放流は許される行為ではないのだ。
本来は日本に棲息しないはずの外来種が繁殖し、本来の生態系を破壊しているというニュースが時折流れている。昔からよく採り上げられており、代表格になっているのはブラックバスとブルーギルだが、最近では東京都大田区を流れる呑(のみ)川でワニ似た容姿で体長が3m近くにもなる、「アリゲーター・ガー」が繁殖して話題になっている他、カミツキガメの目の前に野菜や木の棒を持ってゆき、それを噛み砕かせて恐怖を煽る映像もよく紹介される。
これら外来生物の繁殖は、釣り場を広げたいと思う釣り人や、終生飼うということをしないうえ、殺して処分することも出来ないペットの飼い主が、偽善的かつ無責任な放流をしたために起こった「生態系の破壊」とされている。しかし、本当にバカな素人が行ったゲリラ的な放流だけなのだろうか?。
■公認の場合もある■
このブログでも以前から何度も触れているが、渓流魚の中でも似た体型をしているヤマメとアマゴは、朱点という朱色の点々模様の有る無しで判るように種類は別だ。基本的に日本海に注ぐ川にヤマメが、瀬戸内と太平洋に注ぐ川にはアマゴが生息するはずなのだが、以前はアマゴの方が養殖しやすかったということもあって、河川に放流する際にはアマゴを無秩序かつ大量に放流していたそうだ。後にヤマメの養殖技術が向上したお陰で改められてはいるようだが、もう手遅れの川もある。以前に放流したアマゴの子孫達が、ずっと釣れ続けている川も多いのだ。
イワナに関しても河川ごとに違った特徴があり、亜種も存在しているにもかかわらず、ニッコウイワナという養殖しやすい品種が放流されることが多い。それらが各河川の渓流部で繁殖した結果、在来種との混血化も進んでいるらしい。
これらは、営利目的と資源枯渇防止のために漁業関係者が公認で放流しているのだが、その公認の中でも、最も疑問が残るのはニジマスの放流だ。ニジマスは北米が原産の外来魚だということは多くの人が知っている事実だとは思うが、他の渓流魚と比べて高水温に強く、価格が安いことから低予算の漁協にも受け入れられやすく「質より量」という観点から各河川に積極的に放流される機会が多いのだ。
他に、長野県内には養殖場が大雨で決壊した結果であろうとされているが、奈川のように外来種であるブラウントラウトが普通に狙って釣れるほど繁殖しているところや、犀川のように本州には棲息しないはずのイトウまでもが繁殖している川がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/aa/53dbb3337c983b4baf8a51f5d29b4573.jpg)
●長野の川で釣ったニジマスだが、放流された魚たちには罪はない●
■意外なところにも■
話は、清流部にも広がる。夏の風物詩でもある鮎は、湖産と呼ばれる琵琶湖産の小鮎を放流している河川が多く、鮎そのものの生態系が狂ってしまっているが、そのうえ、その小鮎に混じって放流された、本来は琵琶湖原産であるオイカワ、フナ類、モロコ類、カワムツ類が、日本全国の河川で繁殖して今や当たり前のように泳いでいる。
海に目を向けると、今では当たり前のようにムラサキイガイ(ムール貝の一種)が防波堤や岸壁にビッシリとくっついて繁殖しているが、それは、船底に付着して日本までやって来た、本来はヨーロッパ原産種が在来種を駆逐した結果だ。
意外なところでは、日本海に棲息するマダイを調査した結果を見たことがあるが、今では多くの個体がが稚魚から放流したものか、それが繁殖したものであるという。見分け方は簡単で、準天然物には鼻の穴が大小2対、計4個あるのに対して養殖がらみの物には大が2対、計2個しかないそうだ。(例外も僅かにあるそうだけど。)
これらの現状を目の当たりにすると、故意で有る無しにかかわらず、人間は様々な所に手を突っ込んで生態系に影響を与える生き物なのだと痛感する。
■どれが本物?■
現代の河川などに棲息する魚たちの多くが、実は後から移入されたものであるということを知ると、我々が今見て「自然風景」だと思っているものは、「崩れた生態系が前提になっていることが多い」ということなのだろう。
そうなると、今我々の心の中にある原風景までが疑わしく思えてくる。
実際に作家の司馬遼太郎さんも講演の中で、我々日本人にとって特に「日本らしい」と思える風景の一つである松林までもが、実は人間がその土地を荒廃させたがために、痩せた土地に強い松くらいしか生えなかった結果であると、説いている。だから、「どこからどこまでが原風景なのか?」といっても、その基準自体があやふやなものなのだ。
結局、人それぞれの頭の中で勝手に思い描く基本の風景があって、そこから変化して違和感を持つようになれば、それを「悪」と感じるのだろう。
もしかするとニジマスやブラウントラウトが泳ぐ川は、今の長野県に住む若者や子供達にとって既に当たり前の風景になっているのかも知れない。そうであるなら、もしも何十年か経って、また違う魚が繁殖してそれらが駆逐されるようなことがあれば、生態系の破壊と感じるのだろうか?。本当に人間は勝手な存在だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/a4/2c1a6e19e881682bfc1dd55a812db156.jpg)
●本来の棲息圏で、あるべき「たたずまい」をしている魚は、眺めても美しい●
■諸行無常■
自然とは大きな流れであり、その姿は一定ではない。我々が今見ている自然の姿は、大河の流れの中にある小さな淀みを一瞬だけ垣間見ているようなものだ。そして、その流れは中に異物を取り込んでしまっても、それをある時は排除し、ある時は吸収して、再びバランスのとれた状態を取り戻す。
分子生物学者の福岡伸一さんは著書の中で「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである。」と説いているが、生命と同じように自然は平衡をとりつつも「無常」だ。それは今から2400年以上も前に、お釈迦様が「諸行無常」と、我々に説いて下さっていることなのだ。
そんなシステムがあるからこそ、後になって人間がノスタルジーを感じる一点に舞い戻ろうとしても、それには多大な困難が付きまとうのだ。また、人それぞれに意見が違うし、その一点自体がすでに生態系が崩れた状態であるのなら、「果たしてどこに戻すのが正解なのか」という判断すら難しい。
すなわち、一度繁殖を始めた外来魚を含む他品種を完全駆除するのは不可能に近いということであり、だからこそ、そこに本来は棲息しない品種の無秩序で身勝手な放流は許される行為ではないのだ。