都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
江戸時代,佐賀鍋島藩(なべしまはん)が大川内山(おおかわちやま)にあった藩直営の御用窯(ごようがま)で焼かせたものが「鍋島焼(なべしまやき)」です。
鍋島焼には、色鍋島(いろなべしま)や鍋島染付(なべしまそめつけ)、鍋島青磁(なべしませいじ)などがあります。その御用窯のことを鍋島藩窯(なべしまはんよう)といいます。
この御用窯は、はじめ、 承応年間(しょうおうねかん:1652~ 1654)、有田の岩谷川内(いわやこうち:現在の有田町)に設けられ,寛文年間(かんぶんねんかん:1661~1672)に大川内山に移り、さらに、延宝年間(えんぽうねんかん:1673~1680)に大川内山で鍋島藩窯として確立されました。険しい山に囲まれた大川内山は、やきもの作りの秘法を守ることに適していました。また、ここには青磁釉薬(せいじゆうやく)の原料になる岩石がとれることも移された理由の一つです。
そこで作られた「鍋島」は色絵磁器の中でも最も格調高く優れたものであったといわれます。「鍋島」は販売目的ではなく将軍家や諸大名、公家への献上品とするためのものであったため、陶技の秘法を漏らさないよう地区内に役所や番所を設け厳しく管理していたそうです。
鍋島焼は将軍家への献上品、大名などへの贈答品として、およそ200年間、藩直営の窯で作り続けられました。高い技術と厳しい管理のもとに、利益は考えずに作られたので、世界に誇ることのできる価値の高いすぐれた作品が多いのです。
明治4年(1871),廃藩置県(はいはんちけん)で鍋島藩窯はなくなりましたが、大川内山の人びとは鍋島焼の伝統を受け継ぎ,新しい伊万里焼として発展させ,現在にいたっています。
その伝統や技法は現在でも受け継がれており、およそ30の窯が軒を連ねているそうです。
狭い谷間にレンガ造りの煙突や窯元が立ち並び、その後背に青螺山(せいらざん)がそびえ流布右傾はさながら水墨画のようであり、「秋窯の里」としての雰囲気を出しています。
この伊万里焼の里では、「風鈴まつり」が8月末まで開かれている。地区にある31の窯元が夏の風物詩にしようと磁器製の風鈴をこしらえ、2004年から始めたそうです。
色遣いは伝統的な色鍋島の風情を感じさせるなど多彩で、テッセンなどの絵付けもさわやかだといいます。地区を歩くと、あちこちの窯元の軒先からチリーンという音が交錯しながら耳に届きます。
このように厳しい管理の下で贈答品として作られていた陶磁器が、風鈴など作るはずもなく、2004年という話があるように、極最近になって作られ始めたような気がします。
したっけ。
最近の若者は「だらしない」(だらしがない)というのをよく耳にします。では、そもそも何が無いというのか、「だらし」って何なのでしょうか。現在は「だらしない」で1つの形容詞だが語源的には何がないのだろうか。
「だらしない」の「だらし」は「しだら」の倒語で、元々の言葉は「しだらない」です。
「しだら」とは「修多羅」で、梵語・サンスクリット語のスートラに由来するそうです。物をまとめる糸のことで、そこから秩序という意味で使われていた仏教語だったのです。
式亭三馬(しきていさんば)の『浮世床』には、「なんのだらしもねへくせに・・・」の注釈として、「しだらがないトいふ事を『だらし』がない、『きせる』を『せるき』などいふたぐひ、下俗の方言也」と、説明されているそうです。
うきよどこ【浮世床】
江戸後期の滑稽本。2編5冊。式亭三馬著。文化10~11年(1813~14)刊。髪結い床に集まる江戸庶民の会話を通して、当時の生活を活写している。三馬死後の文政6年(1823)、滝亭鯉丈(りゅうていりじょう)が、続の3編3冊を発表。
大辞泉
江戸時代、言葉を縮めたり入れ替えたりすることが流行し、「しだらない」も「だらしない」となって広がっていった。元々の言葉とは違うという点では、いまの若者言葉同様、「だらしない」のはこの言葉だったのかもしれません。
したっけ。