都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
江戸時代の中期、享保5年(1720年)頃の人口はおよそ3000万人と推定されています。ところが、130年も後の江戸時代の末期、嘉永2年(1850年)頃の人口もおよそ3000万人だと推定されています。この間、ほとんど人口は3000万~3200万で変わらずに推移したと考えられています。
これは、幕府が享保6年(1721年)に調査し、享保11年(1726年)から6年ごとに人口調査したものをもとに学者が推定しています。
どんどん人口が増え続けている現在を考えると、100年以上も人口が変わらなかったのは、何故なのでしょう。
実は、関が原の戦いが起きる前の慶長3 年(1598年)の太閤検地の結果、当時の日本は約1800万石の米が取れることがわかっています。1石は約150㎏ですから、計算してみてください。大人子ども平均すると1石が1年間に1人が食べる量ですから、江戸時代初期は、1800万の人口があったと想定されます。これが、1720年までに急激に増え3000万人になり、そこからほぼ増加が横ばいになってしまうのです。江戸時代は戦争もないわけですから、人が多く殺されることはなかったはずですね。謎が深まります。
この答えが、耕地面積の変化でわかります。やはり、食べ物がなくては、人口は増えません。慶長5 年(1600年)、関が原の戦いの頃には160万町歩だった耕地が、享保5年(1720年)には300万町歩に増えています。これは、新田開発などによるものです。しかし、万延元年(1860年)頃の耕地面積は310万町歩です。1町歩は0,992ヘクタールですから、お暇なら計算してみてください。
つまり、ほとんど耕地面積が増えなかった分、食料生産も増えず、人口も増加しなかったということです。
実際、江戸時代は、度重なる飢饉にみまわれています。食料が人口と大きく絡んでいたのは、想像できますね。
飢饉名 |
年代 |
餓死者 |
寛永の大飢饉 |
1642年?1643年 (寛永19年?寛永20年) |
餓死者多数 |
元禄の大飢饉 |
1695年?1696年 (元禄8年?9年) |
餓死者5万人 |
享保の大飢饉 |
1732年?1733年 (享保17年?18年) |
餓死者1万172人 |
宝暦の大飢饉 |
1755年?1757年 (宝暦5年?7年) |
餓死者6万余人 死馬2万頭 |
天明の大飢饉 |
1782年?1788年 (天明2年?8年) |
餓死者140万人 |
天保の大飢饉 |
1833年?1839年 (天保4年?10年) |
餓死者20?30万人 |
主要国の食料自給率(日本のみはカロリーベース)(単位:%)