都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
回収業者
蝋燭の流れ買い
蝋燭が燃えた後に残ったしずくを秤で目方を計って買い取っていた。
紙屑買い
買い取りを専門とする業者の主流は、昔も古紙回収業でした。昔の言葉では「紙屑買い」といい、今で言うちり紙交換業です。
伝統的な和紙は、10㎜以上もの長い植物繊維でできていて、しかも、ほかに 加物がなく漉き返しが容易でした。そのため、各種の古紙を集めてブレンドし、様々な再生紙に漉き返すことができたのです。
主に古紙を買ったから紙屑買いというのだが、この業者は、実際にはほとんどあらゆる不要品を買ったようです。古金といって、不要になった金属製品、場合によっては古着、古布などを買う紙屑買いも多かったようです。昔は何を買っても転売しても商売になったようです。
紙屑拾い
同じ古紙を集める専門業者でも、こちらは買い入れるだけの資金を持っていないので、仕方がないから、町中をせっせと歩き廻って落ちている紙を拾い、それを古紙問屋へ持っていって、わずかな日銭をかせいでいました。
古着の売買も大きな商売だった。江戸時代までの日本では、布はすべて手織だから、生産力が低く非常な貴重品でした。
古着商の数は、享保8年の記録によれば、同業者組合の組合員だけで、1200軒ほどあったといいます。組合員以外にもかなりの業者がいたはずですから、その数は膨大なものだったのではないでしょうか。
古着の店は固定店舗が多かったが、行商もあったようです。
伝統的な着物は、1反の布を同じ比率で無駄なく直線裁ちしてありますから、古着でも古布でもすべて規格品でした。この点が、分解してしまえばほとんど商品価値のなくなる洋服とはまったく異質で、根本的にリサイクル構造になっていたのです。
傘の古骨買い
江戸時代は、紙と竹でできた古傘でさえリサイクルの対象だったから、再生するため専門に買い集める業者がいました。
買値は、傘の状態によって、四文、八文、十二文の三段階があったそうです。これ以上の超オンボロ傘は再生不能だから燃やした方がお得、これ以上の価値があるのはまだ使えますよ、ということでしょう。買値が4の倍数なのは、四文銭という銭が広く流通していたためです。
古傘買いが買い集めた古傘は、専門の古傘問屋が集めて油紙をはがして洗い、糸を繕ってから傘貼りの下請けに出しました。時代劇には、裏長屋に住む浪人者が内職に傘を貼っている場面がありますね。あれは、古傘の再生だったのだとおもいます。
湯屋の木拾い
当時の物価の指数の一つが湯銭つまり銭湯の入場料です。江戸の湯銭は、百五十年以上も大人六文、子供四文のままだったから、江戸時代の大部分を通じて変わらなかったそうです。住民に対する衛生行政の一部として町奉行所が行政指導し、値上げさせられなかったからだといわれます。
しかし、これでは湯屋の経営は次第に苦しくなり、仕方がないから、湯屋の従業員は、ひまさえあれば、燃料費を節約するために町内や川筋などをせっせと回り、木屑を拾い集めたのですから、ごみがなくて当然です。
古樽買い
古樽を専門に買い集める行商人がちゃんとあり、空き樽専門の問屋まであった。容器専門商社といったところで、日本橋の大通りにも空樽問屋があったほどだから、かなり大きな商売になっていたらしいです。
今でも、ビール瓶や一升瓶は、回収ルートが出来ているが、樽の場合も似たような感覚でリサイクルさせていたようです。
行灯(あんどん)の仕替え
関西では、古くなったりこわれたりした行灯を下取りして、新品を売る行商人がいました。下取りしたのも、焚き付けにするのではなく、もちろん、削ったり修理したりしてきれいにしてから、また再生品として売っていたようです。
箒売り(ほうきうり)
箒売りの行商人は、新品の販売だけでなく、古い棕櫚箒(しゅろぼうき)の下取りをしました。古くなった棕櫚は、まとめて植木用の縄や束子用に売りました。なぜ古くなった棕櫚に需要があったのかよく分かりませんが、新しい棕櫚にまぜて使ったのではないでしょうか。 (棕櫚とは箒に使う樹木の名前です)
取っけぇべぇ
「取っけぇべぇ 取っけぇべぇ」と歌いながら歩く子供相手の行商人で古い金属製品が専門でした。
江戸庶民の子供たちは、古釘などを拾い集める子もいたのです。これを、簡単なおもちゃや飴などと交換していたそうです。
元禄(1680年代)頃から屎尿(しにょう)は商品として取引され江戸後期にかけては百万人のお江戸と農村との間に究極の大リサイクルが展開しております。 この構図は規模が縮小されても昭和二十二三年頃までは続いたそうです。買い取り権は農家にありました。
ところで商品屎尿につきましては当然肥料としての効き目において、値段のランクがあり上等から下等の順は、
① 勤番、主に大名屋敷の屎尿。
② 町肥、江戸の町方の家、長屋のもの。
③ 辻肥、四辻などに農民が設置した便所の屎尿、
④ お屋敷、これは牢屋敷などで最下等。
で最上等の勤番の標準価格は町肥の4、5倍の値が付いたそうですから、ちなみに葛西権四郎さんが集めた江戸城大奥の屎尿は更なる高級品とされていました。
灰買い
すべての植物製品が行き着く最後の形である灰を残らず買い集めた灰買い人と灰屋こそ、究極のリサイクル業者といえるでしょう。
江戸では、植物資源の最後の形である灰でさえ専門の灰集めがいてリサイクル(肥料に)していたのです。江戸では、ゴミやゴミを燃やした後の灰や排泄物が肥料に使うのだからゴミは、ほとんど無かったのは当然といえるかもしれません。
したっけ。