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都月満夫の短編小説集2

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都月満夫の短編小説集

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「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
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「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
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「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」
「桜の木」
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「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
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「桜の花が咲いた夜」
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「草原の対決」【児童】
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「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」

「江戸時代の参勤交代」について考える

2011-05-11 10:02:28 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

まず、参勤交代とは、諸大名は1年毎に江戸と自領を行き来しなければならないという制度です。妻子は人質として江戸に常住しなければなりませんでした。

寛永12年(1635年)3代将軍・家光の時代に武家諸法度改定で参勤交代制が正式に法令として定められました

「参勤」とは一定期間主君(この場合は将軍)のもとに出仕することで、「交代」は暇を与えられて領地に帰り、政務を執ることを意味しています。

Photo_2 参勤交代は軍役なので、大名は配下の武士を大量に引き連れて江戸と領地を行き来し、大名行列という大掛かりな行進を行う必要がありました。このために費用がかさみ、参勤交代は大名の財政を圧迫させることとなりました。これは大名が謀反などを起こすことを抑止する働きがあったとされています。

加賀百万石といわれた金沢藩前田家では、多い時には4000人にのぼったそうです。この参勤交代の費用は、諸々をあわせると今の金額に換算して約20億円。藩財政の50%以上も費やしていたようです。

因みに、十万石程度の大名なら約300人、一万石クラスでは50人ほどだったといわれています。

また、諸大名は少しでも経費を減そうと、普通の旅人では1213日かかる道を、10日ほどで歩いてようです。人数、装飾、献上品などに費用がかかるので、宿泊費を減らすしか無かったのでしょう。

早朝4時に宿を出発、夜8時に宿に入りし、移動中は行列を組んではいなかったそうです。きちんと並んで歩いたのは、国元や宿場を出発・到着したときと領地の境、そして江戸入りのときだけだったそうです。

73万石の薩摩藩の場合、1800年頃に片道で15千両もの費用がかかったそうです。これを、1両が今の3万円と計算するとなんと45千万ほどですから、往復では9億円ほどになるそうです。大名の財力を弱める意味の参勤交代は、本当に成果があったようです。そのため薩摩藩は、道中徹底的に節約をしたそうです。あまりの徹底ぶりに、東海道筋の宿屋では、もっとも人気のない大名だったそうです。

 大名行列が1日に進む距離は平均9里(36キロ)だったそうです。しかし、佐賀藩や薩摩藩は1012里だったともいわれています。出費を減らすために、日の出前には出発し、日暮れまで歩き続けたそうです。

「人の悪いは鍋島(佐賀藩)、薩摩。暮れ六つ泊まり、七つ立ち」。このような歌が街道の宿場に伝わったそうです。

宿場側にとっては夜間の作業が大変だが、実入りが少なく「人が悪い」と映ったのです。財政難の佐賀藩、薩摩藩の苦労ぶりがうかがえる歌です。

Photo_3日の出前に星が見えなくなる時刻を「明け六ツ(あけむつ)」といい、日が暮れて星が見える時刻を「暮れ六ツ(くれむつ)」といいました。

明け六ツ⇒朝五ツ⇒昼四ツ⇒真昼九ツ⇒昼八ツ⇒夕七ツ⇒暮れ六ツ

⇒暮れ六ツ⇒宵五ツ⇒夜四ツ⇒真夜九ツ⇒夜八ツ⇒暁七ツ⇒明け六ツ

この数え方は現代人には不思議な並びだが、易の考え方に由来している。(中国の陰陽説では、奇数を「陽」、偶数を「陰」として、特に最も大きな陽数である「9」を活力のある特別な数字としていた。)

「9」を真ん中に持ってくるために、「1」、「2」、「3」がないのです。

寛永20年(1643)に前田家四代目の光高と言う大名が記録を作りました。約120(480km)の行程で、順調に行けば1213日でたどり着ける道のりです。それを光高は67日で駆け抜けたのです。これは飛脚並の速さで、1日で70㎞近くも行軍したことになります。ほとんど小走りの連続だったのではないでしょうか。ちなみに、光高が急いだ理由は江戸にいた妻が産気づいたためだったそうです。

大名が直接船で江戸に入ることは禁止されていました。もし仮に許可していたら、大名に叛意があれば大船団で攻め込まれてしまうかも知れないからです。そうなると江戸防衛のために主要な川(大井川など)に橋を架けなかった効果が無になってしまいます。

大名行列の前を横切ることは禁止されていた。が、唯一例外的に、大名行列の前を横切ることが許されていた職業が「産婆さん」でした。道の反対側で産気づいた女性がいた場合、「産婆さん」は大名行列を横切っていったといいます。江戸幕府は人命を大切にしていたのです。

ちなみに、農民や町民が、頭を下げて土下座をしなければならないのは、将軍と御三家(水戸藩、尾張藩、紀伊藩)だけで、その他の大名の時は道の端に寄るだけでよかった。

「下に~、下に~」という掛け声も、将軍家と紀伊・水戸・尾張の御三家だけが掛けてよかったのです。この4家は親藩大名といって親戚でしたから・・・。

Photo

したっけ。

コメント (10)
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倉内佐知子

「涅槃歌 朗読する島 今、野生の心臓に 他16篇(22世紀アート) 倉内 佐知子 22世紀アート」

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