都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
中国で初めて豆腐が作られたのは、紀元前2世紀、前漢の淮南王・劉安が初めて作ったという伝説がある。これは、16世紀(1578年)に明朝の李時珍(りじちん)が著した中国の書『本草綱目(ほんぞうこうもく)』での記述がもとになっており、あくまでも伝説の域を出ない。
別に五代(10世紀)頃の農民の発明とする説もあります。
豆腐について同時代的に書かれはじめるようになったのは唐代と言われ、現在確認できる文献上では淮南王(わいなんおう)・劉安(りゅうあん)の時代からずっとあとの北宋(960~1127年)の初めに陶穀の著した『清異録』にある「豆腐」の語が一番古いとされている。
「豆腐」が発明された頃の中国では、「腐」という語は、もともと固まりでやわらかく弾力があるもの、「ブヨブヨしたもの」という意味があったそうです。
豆腐は豆が腐ったから「豆腐」と名付けられたのではなく、豆を加工してブヨブヨしたものだから「豆腐」なのです。ですから腐っているという解釈はあてはまりません。
現代では、「腐」の意味は中国も日本と同じだそうです。
日本へは奈良時代(710~784年)に、中国に渡った遣唐使の僧侶等によって伝えられたとされていますが、明確な記録はありません。豆腐が記録として登場したのは、寿永2年(1183年)、奈良春日大社の神主の日記に、お供物として「春近唐符一種」の記載があり、この「唐符」が最初の記録といわれています。
「とうふ」という読みは、中国語読みの「doufu」そのままの借用語です。もちろん中国でも「豆腐」は「豆腐」です。
いずれにしてもわが国で豆腐が造られたのは、奈良・平安時代からといえそうです。
当初は、寺院の僧侶等の間で、次いで精進料理の普及等にともない貴族社会や武家社会に伝わり、室町時代(1393~1572年)になって、ようやく全国的にもかなり浸透したようです。製造も奈良から京都へと伝わり、次第に全国へと広がっていきました。
「豆腐」という漢字が記述されたのは、鎌倉時代の日蓮上人の書状(1280年)からだそうです。
納豆の起源は中国の「鼓」(し)という食品ではないかという説があります。この鼓こそ、麹菌納豆です。鼓の伝来時期は明らかでありませんが、本格的に作られるようになったのは、奈良時代のことではないかと考えられます。鼓の製造には大量の塩が必要です。貴重品であった塩が流通しはじめるのと同じころに、鼓の製造が始まったのではないかと考えられます。
中国で豆鼓(とうち)は味噌の一種で調味料。蒸した大豆を塩漬けにして発酵させたものだそうです。日本のみそとしょうゆを合わせたような味で、塩辛いが濃いうまみがあるといわれます。乾燥させると塩納豆になります。
中国から伝来した当初は「久喜」(くき)」といっていました。この頃は、現在の糸引き納豆とは違うものだったと考えられているそうです。
後三年の役(1051~1087年)で安部貞任(あべのさだとう)、安部宗任(あべのむねとう)を征伐すべく睦に下った八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)が、平泉付近に陣をしき、近所から集めた大豆を煮ているときに、敵の急襲を受けた。このとき義家は、せっかく煮立てた豆を捨てるのはもったいないと、急いで藁俵に詰めて馬の鞍に乗せた。戦いに後、その大豆を取り出すと納豆ができていたという。
また、弥生時代に偶然できたという説もあります。
「納豆」の語源は昔、僧が寺院の台所、すなわち「納所(なっしょ)」で作られた豆だから「納豆」と元禄時代の『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』(1695年)に書かれているそうです。
よく、「豆腐」と「納豆」は文字が逆ではないかという話がありますが、そうではないようです。
したっけ。