都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
世界で最初に空中を飛行したのは、ライト兄弟によるもので、1902年のことだそうです。飛行時間12秒、飛行距離36.6メートルを達成した。今から120年ほど前の話です。
その後第一次世界大戦(1914年から1918年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦である。)を経て、飛行機は急速に進歩を遂げました。
そして画期的な出来事を迎えます。アメリカの飛行士チャールズ・A・リンドバーグによる、初の単独大西洋無着陸飛行です。
アメリカの〒飛行会社のパイロットをしていたリンドバーグは、オルティーグ賞に挑戦することを夢見ていた。オルティーグ賞(-しょう、Orteig Prize)は、ニューヨーク市からパリまで、またはその逆のコース、6,000キロを無着陸で飛んだ最初の連合国側の飛行士に対して与えられる賞で、ニューヨークのホテル経営者レイモンド・オルティーグによって提供された。賞金は25,000ドルであった。多くの飛行士が名乗りを上げましたが、実際に挑んだのは一機だけであったといわれています。
当時の無着陸飛行の記録は5,000キロだったとはいえ、大西洋上を飛行するのですから、途中でリタイアすれば死が待っているという大冒険だったのです。
ライト兄弟から25年後、36.6メートルから6,000キロはあまりにも遠い距離だったのです。
1927年5月20日、リンドバーグは、「スピリット・オブ・セントルイス」に乗って、前夜は準備のため眠れぬままニューヨークをスタートしたといわれます。そして、不眠不休の33時間後に、「パリの灯」を見たのです。
「翼よ!あれが巴里の灯だ」として、1957年アメリカでジェームス・スチュアート主演により映画になった大冒険だったのです。映画では単独飛行ではなく、ハエが一匹同乗していたようです。
何故リンドバーグは、不眠不休の大冒険にたった一人で挑戦したのでしょうか。二人なら交代ができてより確実と思われるのですが・・・。
それは、できるだけ燃料の消耗を少なくするためだったのです。リンドバーグは当時危険の多かった単発機(プロペラ1機)を選んだのです。さらに、パラシュートも持たないほど軽量化に徹底したのです。
同時期に、この大冒険に挑もうとしていた他の飛行士たちは、大型の三発機(プロペラ3機)で飛行することを計画していました。しかし、リンドバーグには、そんな大型機を購入する資金などなかったのです。
パリに降り立ったリンドバーグを待ち受けていたのは「時代のヒーロー」と言う名声でした。無名の25歳の青年の名は、瞬く間に世界中に広がったのです。
フライトの後の歓迎会でのリンドバーグの挨拶はたった一言だったそうです。
「おしゃべりなオームは長く空を飛ぶことが出来ません」だったそうです。「翼よ!あれが巴里の灯だ」などという気障なせりふは喋らなかったということです。
彼は2年後に結婚し、その翌年に長男が生まれました。しかし、1932年にリンドバーグは思わぬ事件に巻き込まれてしまいます。
長男が誘拐され、2ヵ月後に死体で発見されたのです。これが、「リンドバーグ・ジュニア事件」といわれ、本人はもとよりアメリカ中に大きな衝撃を与えたのです。
これを機会に、幼児の誘拐は死刑という、「連邦誘拐処罰法」、通称「リンドバーグ法」が制定されたのです。
有名になった代償はあまりに大きなものだったのです。
したっけ。