都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
最近は居住環境の変化から、鯉幟を立てる家は少なくなりました。鯉幟のセットは、「吹流し」、「鯉三旒(りゅう)」、「矢車」、「ポール(駕籠玉」」がワンセットになっているのが一般的なようです。
ちなみに、「鯉幟」、「旗」、「幟」は、一旒(りゅう)、二旒と数えるのが正式だそうです。
吹流しは「家」を表しますので、家長のお父さんの上に飾ります。家を表すと言う意味で、ここに家紋を入れることもあるそうです。
三匹の鯉は「家族」を表します。「黒」がお父さん、「赤」がお母さん、「青」が子どもといったところでしょうか。
端午の節句を祝う鯉幟の起源は、本来武家出陣の際に用いる幟でした。鎌倉時代のなかば、1274年(文永11)と1281年(弘安4)の2回にわたり行われた蒙古(もうこ)(元)の日本侵略「元寇(げんこう)」の勝ち戦が5月5日、足利尊氏の天下統一の日が5月5日だったので、武家社会で幟を立てるようになったという説もあります。
丸太や竹の棒の先には、「招代(おきしろ)」または「依代(よりしろ)」と呼ばれる神様を呼び寄せるための目印が付いていました。
目印となる招代は、赤や黄色などの色の付いた単純な布切れでした。この招代が発達して今の「吹流し」になっていきます。
それぞれの「定紋(じょうもん)」の入った幟を「馬印(うまじるし)」、「長刀(なががたな)」とともに戸外に立てていたそうです。
じょう‐もん【定紋】
家々で定まっている正式の紋。表(おもて)紋。また、個人がきまって用いる紋。
うま‐じるし【馬印/馬標】
戦陣で用いた標識の一。大将の乗馬の側に立てて、その所在を示す目印としたもの。
なが‐がたな【長刀】
《「ながかたな」とも》刀身の長い刀。
大辞泉
幟そのものの図柄は、「定紋」から「金時(きんとき)」、「神功皇后(じんぐうこうごう)」、「武内宿禰(たけうちのすくね)」など武者絵へと変わっていき、江戸初期頃に「鯉柄」が登場して現在に至ります。
「鯉幟」が登場した理由は、階級制度が厳しかった武家社会では、階級が上の、ごく一部の人にしか「招代」を立てる事が許されていませんでした。そこで、一般の庶民や商家では、「鯉幟」を揚げて「招代」の変わりとするようになっていったのです。
はじめは、紙の「鯉幟」だったそうです。
鯉の吹流しが作られたのは、鯉は中国の「鯉が黄河を上っていき、その水脈(登竜門)に達したとき、龍になる」という故事から、出世魚とされていたからでしょう。
当時の庶民が、五月晴れの大空を水にみたてて、薫風に鯉のぼりを泳がせたところに、格式にこだわらない自由な気風がしのばれます。
しかし、庶民は「鯉幟」が揚がっているとはいえ、やはり竿(さお)の先端に何もないのではなんともしまりがありません。表立って「招代」を付ける訳にはいいきません。
そこで、地方によって違いはあるものの、「お榊(さかき)」や「杉の葉」、「柏の葉」等を棒の先に結び付けて、「鯉幟」を揚げていたそうです。
私の子どもの頃は、「松の枝」をつけていました。
江戸時代も末期になってくると、庶民のお節句もだんだんと華やかになり、一部の地方で「駕籠玉」を付けるようになってきました。
これは「福」や「幸い」がたくさん入ってくるようにと、駕籠を球状にして天に向けてさしたのが始まりとされているようです。
始めは駕籠の中にお榊や杉の葉などを入れて立てていたのですが、だんだんと派手になってきて、駕籠自体を「金箔」で貼るようになりました。
今では見慣れた物となっている「矢車」ですが、現在のような形の矢車が出来上がったのは近年になってからだそうです。1954年(昭和29年)頃から矢車がアルミや銅板を使って大量に作られるようになって、全国的広まったようです。
江戸時代の「鯉幟」は、「真鯉(まごい)」と呼ばれる黒い鯉のみを吊るしていたそうです。明治時代以降に、「緋鯉(ひごい)」と呼ばれる赤い鯉も対として揚げられるようになりました。
そして昭和になると「鯉幟」は家族を表した物とされ、子供を象徴した子鯉(こごい)と呼ばれる青い色の鯉も揚げられ、今では吹流し、黒鯉、赤鯉、青鯉と揚げられるようになったそうです。
現在は、緑や黄色の「鯉幟」までおよいでいます。江戸時代に町人達の大胆な発想から生まれた「鯉幟」ですが、さすがに実在しない色の「鯉幟」を創るまでには至らなかったようです。
実は、このようにカラフルな「鯉幟」が登場したのは、1964年(昭和39年)だそうです。若手鯉幟職人達の発想によって五色の「鯉幟」が作られたのです。意外と歴史が浅いのです。
1964年に何があったのでしょう。そうです、「東京オリンピック」が開催されたのです。オリンピックの五輪のマークからアイデアを頂いたのだそうです。
ちなみに、「鯉幟(こいのぼり)」と呼ばれるのは、武家の「幟(のぼり)」が起源だった名残です。
したっけ。