上野山下に在った料理屋『雁鍋』『松源』『揚出し』
上野公園内にある台東区立下町風俗資料館付近にあった。
上野戦争の時、官軍が上野の山に大砲を向けた時、料理屋『雁鍋』と『松源』のところに大砲を置いて彰義隊を砲撃したという。
色々な文章に出てくる「雁鍋」という料理屋。
『夏目漱石 「虞美人草」』
『森 鴎外 「雁」』
『正岡子規「病寐六尺」』「上野の入ロへ来ると三層楼の棟の所に雁が浮彫にしてある。それは有名な「雁鍋」である。
入口の上に漆喰細工の雁を置いて、ねぎを軒高く積んだ。中庭の周りは入れ込み桟敷で鍋の中に五分重ねて、その上に合鴨の肉を並べて花カツオをかけた雁鍋の繁盛も昔のものだ。今では牛肉屋となっている。上野繁盛記より
寛永寺門前で鳥料理かと思えば精進料理と言うのも見える。がんもどきの料理だったかもしれない。
地域雑誌「谷中・根津・千駄木」 15号では
『津、藤堂二藩が上野の雁鍋屋松源からくり出す大砲。』となっていて、松源も雁鍋が売り物だったのだろうか。
内田魯庵
下谷広小路
上野戦争の直前に今のJR上野駅の東のところに生まれる。母親は生まれて間もない赤子を抱いて砲火弾丸とぶ上野の町を逃げ回ったと言う。父は寛永寺の役人であった。随筆『 下谷広小路』を執筆中に脳溢血で倒れた。
松坂屋の広報誌に昭和4年『下谷広小路』は掲載された。魯庵によれば上野戦争は江戸武士300年の没落に殉じた行動で戦局は小さがったが意義は大きかった。
上野の戦跡の血のあとを洗い流して新しい文明を演出したのが明治10年の第一回内国博覧会、続いて12年のグランド将軍の訪日であった。グランド将軍の訪日記念樹は今でも残っている。
内田魯庵の人生と息子の画家(内田巌)の行動(太平洋戦争協力画を量産した藤田嗣治の戦争責任を糾弾した)はやはり上野戦争の影響があるように思われる。
内田魯庵から
福神漬の歴史をたどっているうちに今上野池之端周辺で起こった歴史の中に入ってしまった。『敗者』ともいえる彰義隊とその動きを見ていた江戸市民の想いが福神漬の中に密かに加わっている気がする。
引き幕を贈った松坂屋源七
明治23年5月興行の舞台で引き幕を贈った人は松源の主人であった。
洋画家小絲源太郎
明治20年(1887)下谷区上野元黒門町20番地(現台東区上野池之端)の老舗料理屋「揚出し」に生まれる。
小糸源太郎随筆集より
洋画家・小糸源太郎
その随筆から
『雁で思い出したが私が6~7歳の頃上野山下に雁鍋という家があった。大屋根のレンガに漆喰細工の雁が十羽ばかりならんでいた。伊豆の長八の作といわれていたが定かでない。2006年に取り壊された京成聚楽ビルのあたりだった。
松源と揚出し
揚出しの本家は松源で両家がとなりどうしで繋がっていた。松源は江戸時代からの旧い会席茶屋で表の広小路から裏は池之端まで占めていた。そこでは明治時代池之端御前の福地桜痴・条野伝平が三遊亭円朝を呼んで落語をやっていたと言う。また円朝が落語速記を松源で行っていたとき、円朝は観客がいないと上手くいかないと隣に住んでいた人を招いて演じたと言う。
(江湖新聞-福地桜痴が1868年(慶応4)江戸で創刊した佐幕派の新聞。絵入り・総仮名付き。新政府を否定的に論じたため第二二号で発禁処分。東京日日新聞創刊者の一人条野伝平)
小糸源太郎は太平洋戦争末期画材が不足していた時、画材を提供するから戦争協力する絵を描くことを薦められたがきっぱりと断ったと言う。上野戦争の官軍と彰義隊の話が家の話として伝わっていたのだろうか。短時間の戦争であったが下谷の人々にはかなり影響があった。
料理屋『揚出し』
早朝四時から始めていて、お風呂に入れるというので人気があった。揚出しというものは豆腐を揚げたような簡単な物だったが値段も安かった。樋口一葉が吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)に引っ越したが夕方から人力車の音が頻繁になり、また早朝から吉原帰りの客の車の音に悩まされたという。吉原帰りの客が『揚出し』で一風呂浴び食事をして身支度して帰ったと言う。
舞台のセリフで雁鍋のあと吉原というのはこのような背景があった。
小糸源太郎随筆集から
松源の想い出
松源と揚出し
揚出しというのは本来、料理の名称だ。いや料理というほどのものでもない。油で揚げた豆腐を醤油で食うだけのものだ。熱いうちに食べると満更でもないが、大してうまいとも思っていなかった。油あげや、なま揚にならないというのが、一家相伝の秘訣ででもあるように思われていたらしい。本家である松源桜は、徳川幕府全盛であった江戸時代、東叡山寛永寺参拝を口実にしたお歴々の遊び場所であったらしく、お供廻りは専ら揚出しで、といった具合だったものと思われる。
ブル専門の松源が早くつぶれて、プロの方だけが栄えていたのが面白い。松坂屋源七即ち松源である。
ブル専門とはブルジョア=裕福な人を対象としていた
プロとはプロレタリアの略か。貧しい人を対象としていた。
料亭 大茂
はっきりと思い出せないが台東区中央図書館の郷土資料の本の中で『大茂』の女主人は明治の三大女将と言われていて『横浜富貴楼のお倉』『築地新喜楽の伊藤きん』『大茂』という。『大茂』は近所に住んでいた三菱の岩崎氏の贔屓を受け繁盛したと言う。ここでようやく福神漬の池之端と三菱グループとの接点がまた現れた。
皐月晴上野朝風を下谷の人々が団体で見物したが明治維新後静岡に移住した人達も上野博覧会を見るついでにこの芝居を観ている。
『内田魯庵山脈』山口昌男著から『敗者』の本を読み始めてみると福神漬創製者『酒悦』主人が山岡鉄舟や五代目菊五郎と交流があったという言い伝えの必要性がここに出てくる。
上野公園内にある台東区立下町風俗資料館付近にあった。
上野戦争の時、官軍が上野の山に大砲を向けた時、料理屋『雁鍋』と『松源』のところに大砲を置いて彰義隊を砲撃したという。
色々な文章に出てくる「雁鍋」という料理屋。
『夏目漱石 「虞美人草」』
『森 鴎外 「雁」』
『正岡子規「病寐六尺」』「上野の入ロへ来ると三層楼の棟の所に雁が浮彫にしてある。それは有名な「雁鍋」である。
入口の上に漆喰細工の雁を置いて、ねぎを軒高く積んだ。中庭の周りは入れ込み桟敷で鍋の中に五分重ねて、その上に合鴨の肉を並べて花カツオをかけた雁鍋の繁盛も昔のものだ。今では牛肉屋となっている。上野繁盛記より
寛永寺門前で鳥料理かと思えば精進料理と言うのも見える。がんもどきの料理だったかもしれない。
地域雑誌「谷中・根津・千駄木」 15号では
『津、藤堂二藩が上野の雁鍋屋松源からくり出す大砲。』となっていて、松源も雁鍋が売り物だったのだろうか。
内田魯庵
下谷広小路
上野戦争の直前に今のJR上野駅の東のところに生まれる。母親は生まれて間もない赤子を抱いて砲火弾丸とぶ上野の町を逃げ回ったと言う。父は寛永寺の役人であった。随筆『 下谷広小路』を執筆中に脳溢血で倒れた。
松坂屋の広報誌に昭和4年『下谷広小路』は掲載された。魯庵によれば上野戦争は江戸武士300年の没落に殉じた行動で戦局は小さがったが意義は大きかった。
上野の戦跡の血のあとを洗い流して新しい文明を演出したのが明治10年の第一回内国博覧会、続いて12年のグランド将軍の訪日であった。グランド将軍の訪日記念樹は今でも残っている。
内田魯庵の人生と息子の画家(内田巌)の行動(太平洋戦争協力画を量産した藤田嗣治の戦争責任を糾弾した)はやはり上野戦争の影響があるように思われる。
内田魯庵から
福神漬の歴史をたどっているうちに今上野池之端周辺で起こった歴史の中に入ってしまった。『敗者』ともいえる彰義隊とその動きを見ていた江戸市民の想いが福神漬の中に密かに加わっている気がする。
引き幕を贈った松坂屋源七
明治23年5月興行の舞台で引き幕を贈った人は松源の主人であった。
洋画家小絲源太郎
明治20年(1887)下谷区上野元黒門町20番地(現台東区上野池之端)の老舗料理屋「揚出し」に生まれる。
小糸源太郎随筆集より
洋画家・小糸源太郎
その随筆から
『雁で思い出したが私が6~7歳の頃上野山下に雁鍋という家があった。大屋根のレンガに漆喰細工の雁が十羽ばかりならんでいた。伊豆の長八の作といわれていたが定かでない。2006年に取り壊された京成聚楽ビルのあたりだった。
松源と揚出し
揚出しの本家は松源で両家がとなりどうしで繋がっていた。松源は江戸時代からの旧い会席茶屋で表の広小路から裏は池之端まで占めていた。そこでは明治時代池之端御前の福地桜痴・条野伝平が三遊亭円朝を呼んで落語をやっていたと言う。また円朝が落語速記を松源で行っていたとき、円朝は観客がいないと上手くいかないと隣に住んでいた人を招いて演じたと言う。
(江湖新聞-福地桜痴が1868年(慶応4)江戸で創刊した佐幕派の新聞。絵入り・総仮名付き。新政府を否定的に論じたため第二二号で発禁処分。東京日日新聞創刊者の一人条野伝平)
小糸源太郎は太平洋戦争末期画材が不足していた時、画材を提供するから戦争協力する絵を描くことを薦められたがきっぱりと断ったと言う。上野戦争の官軍と彰義隊の話が家の話として伝わっていたのだろうか。短時間の戦争であったが下谷の人々にはかなり影響があった。
料理屋『揚出し』
早朝四時から始めていて、お風呂に入れるというので人気があった。揚出しというものは豆腐を揚げたような簡単な物だったが値段も安かった。樋口一葉が吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)に引っ越したが夕方から人力車の音が頻繁になり、また早朝から吉原帰りの客の車の音に悩まされたという。吉原帰りの客が『揚出し』で一風呂浴び食事をして身支度して帰ったと言う。
舞台のセリフで雁鍋のあと吉原というのはこのような背景があった。
小糸源太郎随筆集から
松源の想い出
松源と揚出し
揚出しというのは本来、料理の名称だ。いや料理というほどのものでもない。油で揚げた豆腐を醤油で食うだけのものだ。熱いうちに食べると満更でもないが、大してうまいとも思っていなかった。油あげや、なま揚にならないというのが、一家相伝の秘訣ででもあるように思われていたらしい。本家である松源桜は、徳川幕府全盛であった江戸時代、東叡山寛永寺参拝を口実にしたお歴々の遊び場所であったらしく、お供廻りは専ら揚出しで、といった具合だったものと思われる。
ブル専門の松源が早くつぶれて、プロの方だけが栄えていたのが面白い。松坂屋源七即ち松源である。
ブル専門とはブルジョア=裕福な人を対象としていた
プロとはプロレタリアの略か。貧しい人を対象としていた。
料亭 大茂
はっきりと思い出せないが台東区中央図書館の郷土資料の本の中で『大茂』の女主人は明治の三大女将と言われていて『横浜富貴楼のお倉』『築地新喜楽の伊藤きん』『大茂』という。『大茂』は近所に住んでいた三菱の岩崎氏の贔屓を受け繁盛したと言う。ここでようやく福神漬の池之端と三菱グループとの接点がまた現れた。
皐月晴上野朝風を下谷の人々が団体で見物したが明治維新後静岡に移住した人達も上野博覧会を見るついでにこの芝居を観ている。
『内田魯庵山脈』山口昌男著から『敗者』の本を読み始めてみると福神漬創製者『酒悦』主人が山岡鉄舟や五代目菊五郎と交流があったという言い伝えの必要性がここに出てくる。