常陸丸遭難報道の始まり
万朝報 大正6年10月21日
常陸丸の運命
9月24日以来消息がない
コロンボ・デラゴア間で遭難か
日本郵船会社の欧州航路定期船常陸丸(6556トン)は9月25日コロンボを出汎して以来約一ヶ月経過せる今日、杳としてその消息なし,郵船会社は各方面に向かって電照し、海軍、逓信省は各方面へ捜索願いを出していたが行方不明なり。
軍関係者のコメント
中部アフリカなるので危険区域でない、敵艇出没のウワサも聞かないがこうなったら憂慮に堪えない
印度洋で行方不明となった常陸丸を捜索するため、筑前丸を使うこととなり、日本郵船の航海副監督であった山脇武夫が乗り込んだ。また、この筑前丸に特攻の発案者として知られる若き日の大西滝治郎中尉(終戦時中将)捜索飛行機の操縦士官として乗船していた。
常陸丸捜索のため、筑前丸は大正6年11月27日神戸を出港し、印度洋で16日間捜索の後、翌7年2月9日神戸に帰港した。山脇は会社を代表して捜索状況を新聞記者に説明した。
大正6年10月22日東京朝日新聞
常陸丸船長夫人談
不安の面貌で「昨日東京の日本郵船の本社から常陸丸の到着の予定より遅れている旨の通知を受けて初めて承知いたしました。主人より9月14日シンガポール発信で無事この地に着いたという便りで、多分コロンボからデラゴアまで直航したものと思われますが、潜航艇が出没したことも聞かず何か機関に故障が起こったものでしょうか、それらのことも一切想像できません」
機関長夫人談
「宅は船乗りのことですから不時の出来事は覚悟の上ですが御船客は心配でありましょう」云々とただひたすら船客の安否を気遣っていた。
明治・大正時代の商船に乗組んだ人々の家族はみんな同じ気持ちであったのでしょうか?常陸丸が行方不明になって後日本の商船が次々とドイツ軍艦に狙われていて後に撃沈された。平野丸の出航報道は船員・乗客に悲壮感があります。欧州航路はとにかく危険であった。しかし、日本の商船の活躍で明治以来の貿易収支が赤字から黒字となった。ちなみにイギリスは第一次大戦で4000隻の商船を失ったという。
大正7年2月14日東京朝日新聞
なぞの品々(筑前丸がもたらし帰った)
常陸丸の遺留品の写真が掲載されている。
下駄の大きさと比較して写真にある醤油樽の大きさは一斗樽(約18リットル)だろう。写真では縦に立っているが巾着印の中に酒悦の焼印があり、東京・池之端・福神漬の文字が見える。木箱から推定すると缶詰入りの福神漬だろう。大きさから6個入りか?4号缶だろう。
山脇武夫日本郵船監督は「沈没・拿捕いづれともまだ断定できない、常陸丸の備品は確実である。」
日本郵船にて新聞記者に捜索の持ち帰った品々を説明していたのは山脇武夫であった。写真のある新聞記事は東京・大阪の朝日新聞に掲載されていて、読売や毎日・万朝報などは記事のみであった。
万朝報 大正6年10月21日
常陸丸の運命
9月24日以来消息がない
コロンボ・デラゴア間で遭難か
日本郵船会社の欧州航路定期船常陸丸(6556トン)は9月25日コロンボを出汎して以来約一ヶ月経過せる今日、杳としてその消息なし,郵船会社は各方面に向かって電照し、海軍、逓信省は各方面へ捜索願いを出していたが行方不明なり。
軍関係者のコメント
中部アフリカなるので危険区域でない、敵艇出没のウワサも聞かないがこうなったら憂慮に堪えない
印度洋で行方不明となった常陸丸を捜索するため、筑前丸を使うこととなり、日本郵船の航海副監督であった山脇武夫が乗り込んだ。また、この筑前丸に特攻の発案者として知られる若き日の大西滝治郎中尉(終戦時中将)捜索飛行機の操縦士官として乗船していた。
常陸丸捜索のため、筑前丸は大正6年11月27日神戸を出港し、印度洋で16日間捜索の後、翌7年2月9日神戸に帰港した。山脇は会社を代表して捜索状況を新聞記者に説明した。
大正6年10月22日東京朝日新聞
常陸丸船長夫人談
不安の面貌で「昨日東京の日本郵船の本社から常陸丸の到着の予定より遅れている旨の通知を受けて初めて承知いたしました。主人より9月14日シンガポール発信で無事この地に着いたという便りで、多分コロンボからデラゴアまで直航したものと思われますが、潜航艇が出没したことも聞かず何か機関に故障が起こったものでしょうか、それらのことも一切想像できません」
機関長夫人談
「宅は船乗りのことですから不時の出来事は覚悟の上ですが御船客は心配でありましょう」云々とただひたすら船客の安否を気遣っていた。
明治・大正時代の商船に乗組んだ人々の家族はみんな同じ気持ちであったのでしょうか?常陸丸が行方不明になって後日本の商船が次々とドイツ軍艦に狙われていて後に撃沈された。平野丸の出航報道は船員・乗客に悲壮感があります。欧州航路はとにかく危険であった。しかし、日本の商船の活躍で明治以来の貿易収支が赤字から黒字となった。ちなみにイギリスは第一次大戦で4000隻の商船を失ったという。
大正7年2月14日東京朝日新聞
なぞの品々(筑前丸がもたらし帰った)
常陸丸の遺留品の写真が掲載されている。
下駄の大きさと比較して写真にある醤油樽の大きさは一斗樽(約18リットル)だろう。写真では縦に立っているが巾着印の中に酒悦の焼印があり、東京・池之端・福神漬の文字が見える。木箱から推定すると缶詰入りの福神漬だろう。大きさから6個入りか?4号缶だろう。
山脇武夫日本郵船監督は「沈没・拿捕いづれともまだ断定できない、常陸丸の備品は確実である。」
日本郵船にて新聞記者に捜索の持ち帰った品々を説明していたのは山脇武夫であった。写真のある新聞記事は東京・大阪の朝日新聞に掲載されていて、読売や毎日・万朝報などは記事のみであった。