郵船の常陸丸
常陸丸は2度も海難に遭って、初代の船長も2代目の船長も自決したという船である。初代は日露戦争のおり、玄界灘においてロシアの攻撃を受け1400名死亡した。九段にある靖国神社の大鳥居のすぐそばに大きな殉難碑がある。
2代目もインド洋において爆沈している。行方不明になった大正6年秋から大正7年2月までは常陸丸に掛けてあった戦時海上保険制度の不備で、日本郵船・東京海上保険・日本政府での保険金支払いの証明で論争していたようである。大正7年3月に常陸丸の遭難状況がわかると論争が終わってしまったが郵船及び三菱グループの幹部には実に印象の強かった事件であった。大正7年2月の常陸丸捜索隊が見つけた品々の中で壊れたドアと『酒悦の福神漬』の木箱が発見され拿捕でなく沈没したことを確信しただろう。
昭和に入ると日本はドイツと同盟国になったため、常陸丸の悲劇は郵船社員しか記憶に残っておらず一般の人々から忘れ去られた。作家長谷川伸は『インド洋の常陸丸』を著わしたのは第二次大戦後のことである。洋上や外国での楽しみは食事である。日本食の福神漬がインド洋で発見されたとき日本郵船関係者は常陸丸の遭難を確信し、すぐに捕虜となった話が伝わり喜んだと思えば事実が伝わるにつれて悲惨な事実がわかった。このことが郵船社員・家族には長く心に残っていたのだろう。また一般には常陸丸1世が有名で常陸丸二世および第一次大戦において殉難に遭った郵船社員の慰霊碑は神奈川県横浜市にある総持寺の鐘つき堂のそばにある。靖国神社と違って鶴見総持寺には訪問する人も少ないようで山門の左にある鐘つき堂に向かって上ってゆくと大きな殉難碑がある。
常陸丸は2度も海難に遭って、初代の船長も2代目の船長も自決したという船である。初代は日露戦争のおり、玄界灘においてロシアの攻撃を受け1400名死亡した。九段にある靖国神社の大鳥居のすぐそばに大きな殉難碑がある。
2代目もインド洋において爆沈している。行方不明になった大正6年秋から大正7年2月までは常陸丸に掛けてあった戦時海上保険制度の不備で、日本郵船・東京海上保険・日本政府での保険金支払いの証明で論争していたようである。大正7年3月に常陸丸の遭難状況がわかると論争が終わってしまったが郵船及び三菱グループの幹部には実に印象の強かった事件であった。大正7年2月の常陸丸捜索隊が見つけた品々の中で壊れたドアと『酒悦の福神漬』の木箱が発見され拿捕でなく沈没したことを確信しただろう。
昭和に入ると日本はドイツと同盟国になったため、常陸丸の悲劇は郵船社員しか記憶に残っておらず一般の人々から忘れ去られた。作家長谷川伸は『インド洋の常陸丸』を著わしたのは第二次大戦後のことである。洋上や外国での楽しみは食事である。日本食の福神漬がインド洋で発見されたとき日本郵船関係者は常陸丸の遭難を確信し、すぐに捕虜となった話が伝わり喜んだと思えば事実が伝わるにつれて悲惨な事実がわかった。このことが郵船社員・家族には長く心に残っていたのだろう。また一般には常陸丸1世が有名で常陸丸二世および第一次大戦において殉難に遭った郵船社員の慰霊碑は神奈川県横浜市にある総持寺の鐘つき堂のそばにある。靖国神社と違って鶴見総持寺には訪問する人も少ないようで山門の左にある鐘つき堂に向かって上ってゆくと大きな殉難碑がある。