年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 72夏目漱石

2010年01月23日 | 福神漬
夏目漱石と福神漬
夏目漱石の新聞小説『三四郎』(明治41年東京朝日新聞)には福神漬の缶詰の話が出てくるがどんな大きさの缶であったがいまだにわからない。最近の記事によると漱石がイギリスに留学するために準備するものの中に梅干・福神漬があった。明治35年(1900年)の話である。
東北大学付属図書館 夏目漱石ライブラリー「渡航日記」より
 漱石がいつ福神漬を知ったのだろうか。根岸短歌会の人達とは福神漬は関係ないと思っていたが漱石が根岸短歌会の人達から福神漬を知った可能性もある。
 正岡子規が根岸に住居を移したのは陸羯南(大新聞・新聞日本)が根岸に住んでいたからである。根岸党の文化人の交友で酒のつまみに福神漬が入っていたし、また福神漬の命名者である梅亭金鵞は團團珍聞社の主筆で神田雉子町では隣だった。子規の病床日記には福神漬は見当たらないが、梅干・なら漬は良く食べていたようである。
 旧い江戸懐旧趣味の遊びをする人達と新しい俳句短歌を目指す人達がほぼ同時期に根岸に集まったが交流もあったのだろうか。
夏目漱石著「三四郎」より福神漬の缶詰
「三尺くらいの御影石の台の上に、福神漬の缶ほどな複雑な機械が乗せてある」
此の缶の大きさは今の流通している福神漬の缶の大きさと異なるように思える。業務用の大きな缶のようだったのか。
明治41年に東京と大阪の朝日新聞に連載された新聞小説「三四郎」には福神漬とあるだけで何も説明が無い。すでにこの当時普通名詞化されていて知れ渡っていたのだろうか。三四郎が徘徊していた大学付近は福神漬の発明地に近くかなり知れていたのだろう。三四郎という小説は田舎の高等学校を卒業して東京の大学生活に入って新しい都会の空気に触れて色々な出来事が起こる小説で、その中に何の説明も無く福神漬の缶が出てくる。明治41年の小説である。 

コメント
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